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第一罪  INNOCENT BOY

第一罪  INNOCENT BOY



 いつか見た『あの景色』と言われるモノは、誰しも持っている。

 秘密の宝箱にしまったそれをこっそり一人で、あるいは一緒に見た友達と。

 みんなが寝静まった満月の夜。

 黄昏が眩しくて物寂しい夕方。

 穏やかすぎる休日の昼下がり。

 誰よりも早く目覚めた日の朝。

 ひっそりと『あの景色』を思い浮かべる。

 それだけで胸の奥が暖かくなる。けれど同時に苦しくて堪らない、はじめて感じる懐かしい痛み。茜色に照らされて身長の何倍も長くなった影の上に立ち、友達とバイバイする時のあの感じ。

 今しかなくて、次の瞬間には別の何かに変わっていそうな愛しい脆さ。

 きっとそれは一生想い続けるものだ。

 誰しも持っている『あの景色』。

 なら、もしそれを持っていなかったら?

 ここに一人の少年がいる。

 春を目前にした雨上がりの午後。

 その少年は小さな羅針盤を両手で持ちながら、灰色の街を歩いていく。

 羅針盤以外に少年にあるのは、肩から提げた四角い革製のカバンに入れた二日分の衣服と、ポケットに入れたいくらかのコインしかない。

 生まれ育った街の思い出が広がる中央通りには、少年を含めても平日の午後だと言うのに多数の往来があった。

 そんな休みでも祝日でも祭日でもない、平日の午後にスクールにも行かず街をあたかも浮浪するかのような少年には、それ相応の理由があった。何とも不運にして偶然。必然と言われればそれまでの、強盗にあった。

 先日の、夜も寝ているのではと思えそうな静かな夜に、そいつらは少年の家に押し入り金目のものから、金にならないようなもの、一切合財、全てを奪い去った。

 そう、住む家も最愛の家族さえも――。

「ぐうッ!」

 背後、というより斜め後方から一陣の風と共に何者かが勢いよくぶつかり、謝りもせずに靴底についた泥を飛ばしながら走り去っていく。その手に少年が、灰塵と帰した家の中から引っ張り出してきたカバンを携え。

「あ――」

 ひったくりだった。もう言葉にすらならない。

 たった今より、勢いよく地面に転がり泥の付いた小さな羅針盤だけが、少年アーリ=カウンスの唯一残された、今日までの日々の全てとなった。

 この街ではよくある話の一つ。人が人を傷つけ、戦争でもないのに罪なき人が神に見捨てられ犯罪の犠牲になる。

 月間犯罪件数千を数えるこの街では、真っ当な人間を探す方が難しいかもしれない。犯罪数千と言ってもピンからキリまである中で千件と言うことだ。無銭飲食から詐欺、強盗、人殺しと罪の重さにかかわらず、罪の数は多い。

 欧州の主要先進国、主要都市として発展した[革命の島(ブリテン)]も、今や地に堕ちた悪都となったものだ。悪都になった理由は簡単。ユーリシアとアムリエカ大陸を繋ぐように浮かぶこの国には東西から溢れ出る犯罪者が逃亡の際に行き来するうちに、滞在するようになりそのまま住み着いていったことから犯罪者の溜まり場、もといホームになった。ただそれだけ。

 もちろん、国際司法機関『晩剋の鉄槌(カゼンア・ハンジス)』は、世界各地で増え続ける犯罪者の処遇を発表したが、内容――全員皆殺し――に興奮した犯罪者たちはより重く残忍な業へと罪を重ね、先刻の発表は『晩剋の鉄槌』の意味無き言葉として人々は記憶から消し去った。

 なぜ犯罪者が増えたか? そんなものは誰も知らない。この状況はなるべくしてなった演劇のシナリオのようなものなのだから。ならシナリオを描いたやつがいるのかもしれないが、いたとしても普通じゃない。イカレテル。

 まあそんなこんなで真っ当な普通の人間の存在が皆無なこの街で、家族を失ったアーリの引き取り手に選ばれた叔父夫妻がその真っ当な普通の人間の一部であれば幸いだったのだが、なんとも不幸なことにこの叔父夫妻、人身売買のブローカーだった。なぜ引き取り手に人身売買のブローカーが選ばれたかは、罪の鎖が巻きついて離れない役所に問題があったのだろう。

 今となってはただの後の祭り。

 灰色の街と形容されても仕方のない街で、運良く売り飛ばされる日の朝に脱走することに成功したアーリだが、早二日にして逃走資金は枯れた井戸のごとき惨状だった。

「どうしてこんなことに……」

 罪を犯したわけでもない。

 数少ない真っ当な普通の人間として生きてきただけなのに。

「僕はこんな未来、望んでなんかいないよ」

 泥の付いた羅針盤を拾い上げ、独り言を呟くアーリ。常識から考えれば真っ昼間の中央通りを多くの一般人が歩く中で、アーリの姿は奇異なものだろう。ぼさぼさのブロンドヘアー、すり傷の目立つ中性的な顔立ち。春先のささやかな寒さをしのぐための薄手の長袖のシャツと、その上に羽織った半袖のシャツ。ズボンはジーンズと至って普通の一般的な服装を、廃墟となった家から探し出し着ていた。薄汚れた着衣。膝が擦れて破けたジーンズ。

 一般的とはいえ、到底清潔とは言えない格好の十代。傍目にはスクールをサボった不良。独り言を呟く不審者。

 しかしここは、悪都。蔓延した薬物中毒者が、通りを徘徊している程度にしか人々は思わない。それ以上の詮索も心配もなし。それが一番、自分を守る上で大事なことだからだ。

 一人一人が孤独な街だと、理不尽な街だと不服の念を込めてアーリは、時代錯誤の中再び空を覆うようになったスモッグが光る空に、溜息交じりに呟くのだった。

「ワット・イズ・クライム――?」

 罪を知らない子羊に、きっと神は、試練など与えはしない。

 そう考えるアーリに対し、羅針盤はただ、これからの未来を指していた。

 春を目前にした雨上がりの午後のことだった。

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