転生モブの役目
深水怜一は、乙女ゲーム『私立 七海乙女学園 ~それでもあなたに恋してます~』のメイン攻略キャラでありながら、キャラ投票では最下位だった残念な奴だ。しかし、彼のファンには一途で熱狂的な人が多かったため、グッズの売り上げは海原望夢と並んで一位だったのは前世では有名な話である。
◆◇◆◇◆
「勘違いのないよう言っておくが、私が君を助けたのは、責任であって好意ではない。私は君に特別な感情を抱いてはいないし、これからもありえない」
そんなこと知っている。いきなり何を言い出すのか。戻ろうとしていた私は、深水英語教師に声をかけられて振り返った。
彼の目は冗談を言っているようではなかったし、そもそも冗談が言える性格ではない。じゃあ、この男は本気でこの台詞を口にしているのだろうか。
なんだかぞっとした。
「……先生は、私が先生に好意を抱いているように見えますか?」
「私は知らない。だが、勘違いされては迷惑だから言っている」
「私は別に勘違いしていません」
「そうか」
「信じていませんか」
「別に。ただ、口ではどうとでも言える。自分は気がない振りをして男を試すのは女の常套手段だろう」
「……そうやって誰かに迫られでもしたんですか」
「君には関係がない」
「私たち生徒は信用できませんか」
「そうじゃない。そもそも信用云々の問題ではない」
「それとも女は信用できませんか」
「……」
どうやら最後が図星らしい。私は口を閉じた深水英語教師を見つめた。この人もまた運命を決められている人なのだと、私は気づいた。
過去の話だ。
深水怜一というキャラはもともと明るく責任感の強い、いつだって人に囲まれているような人間だった。しかし、ある事件をきっかけに一変してしまう。
大学生の頃、彼はある女性と出会う。彼女と付き合い始め、夢だった教員試験も無事合格、卒業したら結婚してほしいというプロポーズも受けてくれた。幸せだった。このまま幸せな毎日が続いていくだろうと思った。その矢先――彼女は死んでしまう。
それは不幸な事故だった。漂流していた網に足を絡めとられて、彼女は海で溺れ死んだ。
溺れ死んだ? 本当に? 網は漂流していたにしては綺麗だったし、足にはまるで誰かが結んだかのように網が巻かれていた。
彼女と海に行った友人たちは、助けようとしたけれど間に合わなかったと言っていた。本当に? 本当に彼女たちは助けようとしていたのだろうか。
一度疑いをかけたら心はどこまでも引きずられてゆく。
しかし、最悪なのはそれからだった。彼女の友人たちはあろうことか彼女を亡くした彼に、慰めてほしいと擦り寄ってきた。まるで自分たちが恋人だったとでも言うように。嫌悪したのは言うまでもない。
昔から人よりちょっと顔がいいだけで、嫌な思いをしてきた彼にはもうそれが限界だった。
結局、事件は事故で処理された。
でも、心に芽吹いた疑心は消えることなく燻ったまま。
深水英語教師は無言で背を向けた。そして机に置いてあった本を持ち上げると部屋から出て行こうとした。
「待ってください」
話を終わらせてはいけないような気がした。だから、私は咄嗟に、横を通り過ぎる彼の腕をつかむ。
彼の手から本が滑り落ちる。そこから一枚の写真が宙を舞った。
私はそれを手にした。写っていたのは一組の男女。男のほうはだいぶ雰囲気が違うが深水教師だった。じゃあ、隣でうれしそうに笑う女の人は。
「返せ」
後ろから伸びてきた腕が写真をさらっていく。私は尋ねた。
「その方は先生の奥さんですか」
我ながら酷な質問だ。でも聞かずに入られなかった。
「それとも、奥さんになるはずだった人ですか」
「……」
彼は何も答えない。だがその沈黙こそが雄弁な答えだと思った。
「先生」
私は彼の目をじっと見つめた。寄せられた眉、食いしばられた歯。とても苦しそうな表情は、彼女への揺るぎない愛の証。
いいえ。けれど、あなたの運命は彼女じゃない。顔も名前も出てこない彼女は、過去に語られるあなたのシナリオの一部でしかない。
じゃあ、彼女は何のために死んだの? それは彼女でなければいけなかったの? そんなはずがない。なら……。
彼が声を喉から押し出すようにして告げた。
「彼女は……殺されたんだ」
「あなたに?」
体に衝撃が走った。息が詰まって、視界が白くはじけ飛ぶ。
一拍して、彼に首を絞められているのだと理解した。壁に押さえつけられた背中が痛い。
「どういう意味だ」
そのままの意味だといってやりたかった。顔も名前も出てこない彼女は、きっと誰でもよかった。だってゲームにそんな描写などなかったのだから。
彼女はあなたに関わったから死んだ。あなたのシナリオに巻き込まれて死んだ。ならそれは、あなたが殺したも同然じゃないか。
なんて苦しいのだろう。なんて悲しいのだろう。
でも、それがあなたに決められた運命。
「どうして泣いている」
深水英語教師に言われて、自分が泣いていることに気づいた。気づいたらさらに溢れてきて。声を上げて泣いてやりたかった。
苦しいのだと、悲しいのだと、叫んでやりたかった。
でも押さえられた喉はそれを許してくれなくて。それが救いなのかどうか、私には分からなかった。
窓から青い空が見える。それを隔てるようにして引かれる一本の飛行機雲。眩しい太陽がうつしだす影は、壁に遮られて途切れていた。
その時ふと、ヒロインの姿を思い出した。ふわふわの茶色い髪をツインテールにした後姿。
――おかしい。
だってそうではないか。卒業式の日、私が倒れた原因のあの場面は深水英語教師のエンディング寸前のものだ。
なら彼は、女性嫌いを克服し、ヒロインによって真実の愛を得られているはずだ。
それなのに今の彼はそうではない。女性嫌いは直っていそうもないし、まだあの頃の彼女を愛している。
そう言えば、彼とのエンディングは卒業式の後に彼と結婚の約束をして終わるはずだ。お互いの愛を確認しあい、彼はそこで昔の彼女のことを吹っ切ることができる。だけど、私たちの卒業式は二年後。結婚なんて先の話だろう。つまり。
攻略が完全ではない。
私はその事実に思い至った。
ヒロインと深水英語教師の関係はまだ終わっていない。
ヒロインが本来あるべき姿から変化したことで、連鎖的にシナリオにも齟齬が生まれているのか。
じゃあ、私がすべきことは何?
凪風と会ったあの日から、満花が問うたあの日から、私は考えてきた。
彼らの行く末を知る私が、この世界に生まれた意味を。
今、見えた気がした。
私は証明したい。彼らがシナリオに従わなくても幸せになれるのだと。決められた道以外を歩めるのだと。
私は、凪風を救いたい。海原先生を救いたい。救いが何かさえも、今の私には分からないけれど。
私は彼女たちを応援したい。最初から叶わないと決められた、結ばれることなく散ってゆく恋を身に宿す、友人キャラを。
そして、私は顔も名前も出てこない彼女の死を、シナリオの一部になどしたくない。死ぬことが役目だったなんて思いたくない。それが一度死んでしまった、私への慰めだとしても。
私はヒロインと結ばれることでしか幸せになれない攻略対象者を可哀想だと思う。ヒロインと出会うために生まれてきた攻略対象者を哀れだと思う。こんな感情はおこがましいのだろうか。
そうだとしても。
その時、喉を押さえていた手が離れ私は床に転がった。急激に流れ込んできた酸素にたまらずむせる。
深水英語教師は私をただ冷めた目で見下ろしていた。
私は彼が苦手だった。前世の私が、深水怜一を苦手だったわけじゃない。今世の私が、現実の彼を苦手としているのだ。
でも、それももう終わり。
前世の巷にあふれた悪役令嬢転生物語のように。私はゲームの登場人物を愛そう。
乙女ゲームに転生したすべての人たちのように。私はエンディングを変えよう。
それでもあなたがヒロインを選ぶのなら、私は何も言わないから。だから。
今ここに宣言しよう。
彼らをシナリオから解放する。――それが転生モブの役目。