校外学習04
動物園にはみんなより一時間遅れで着いた。本当はもっと早く着けたはずなのに、魚浜先生がやけにのんびり移動するものだから、余計な時間を食ってしまったのだ。
私たちは動物園につくと、道なりに進みながら動物を眺めていた。
「見てフミちゃん、サイがいるよ!」
「そうですね」
「見てフミちゃん、フラミンゴがいるよ!」
「そうですね」
「見てフミちゃん、お猿さんがいるよ! あ、あの猿、フミちゃんに似てるね」
「そうですね」
「……フミちゃん、俺の話、聞いてないでしょ」
「そうですね」
私は適当に頷いた。先生は最初からこの調子で正直疲れた。
それよりもさっきヒロインを見かけたのだ。ヒロインは、班員と打ち解けていないのか一人後ろを歩いていた。
七海女子学園はお嬢様学校だ。そのため、彼女たちはそれなりに上流意識を持っているのか、外部生や奨学生には風当たりが厳しい。満花も最初はそれで苦労したようだが、彼女は賢くあっという間に溶け込んで行った。
ゲームの中のヒロインも外部生ということで苦労するシーンがたくさんあった。
それでも嫌がらせに屈せず明るく振舞う姿に、クラスのみんなは次第に心を開いていき、いつしかヒロインはクラスの中心的存在になる予定だ。
あくまで予定、だが。
今のヒロインはまだ交友があるのは友人キャラたちだけで、他の誰かと親しくしている姿を見たことがない。
ヒロインを追いかけたかったが、魚浜先生がいるのでそうはいかない。ひとつしかないこの身が憎いが、私の最重要任務は魚浜先生を小動物ふれあいコーナーに行かせないことだ。
しかし、だんだん避けるのも難しくなってきた。もう園内は半分近く回ったし、小動物触れ合いコーナーにいたっては、目と鼻の先だ。
いっそ今来た道を引き返そうか。それとも具合が悪いふりをして集合場所へ戻るというのは? だけど私だけ置いて魚浜先生に単独行動をされては努力が無駄になる。
さてどうしたものか。
考え事をしながら歩いていたのがいけなかったのか、私は何もないところで躓いた。転ぶと思った体は、横からさっと現れた手によって力強く支えられる。
「っと。フミちゃん、大丈夫?」
「……ありがとうございます」
前を見ていたはずなのに、よく反応できたな。
私は礼を述べると、先生の腕から素早く離れた。
そんな私を見て先生は何が可笑しいのか、くすくすと笑い出す。私は思わずむっとした。
「何で笑うんですか」
「うん? だってフミちゃんって、見た目はしっかりしてそうなのに、意外なところで抜けてるっていうか」
「そんなことありません。今のは少し油断しただけです」
「はい、はい。油断ね」
絶対に納得していないでしょ!
私はその態度に抗議の声を上げた。先生の後を懸命に追ったが、「そうだね」と聞き流される。私は憮然としたが、今度は石に躓いて転びそうになった。
それをまたもや先生に支えられる。
「もう、フミちゃんったら」
……恥ずかしくて顔が上げられない。先生のどこかあきれた声に、私は肩を縮めた。すると突然、右手を彼に取られる。
何だろう、と上を向けば、彼の端正な顔が思いのほか近くにあって、私は思わずのけぞった。
「俺がこうして握っていてあげる。そうすれば転ばないでしょ?」
彼はそう言うと、私の指にまるで恋人がするかのように自分の指を絡める。そして誰もが見蕩れそうな笑顔を浮かべると、さっさと歩きだした。
――なんだ、このなぞ展開。
こんなイベントはあっただろうか。
私は足を動かしながらも、必死に思い出そうと頭を回した。
だけど、見えてきた景色に先生が行こうとしている場所がなんとなく分かって、私は急いで足を止めた。
「先生ストップ!」
「嫌だ! ウサギに会いにいく!」
「先生、私はウサギが苦手だって言ったじゃないですか」
先生は小動物ふれあいコーナーへと行く気だったらしい。彼は動物園に着くと真っ先にウサギに会いたいと言い出した。それを私が適当な言い訳で断ったのだが、諦めていなかったようだ。
ちなみに適当な言い訳とは、「小さいころに餌をあげようとして噛まれて以来ダメになった」というものだが、半分は事実だ。その相手がウサギではなく、犬というだけで。
「ウサギってあんなに可愛いのに! 小さくて、ふわふわしてて、腕にすっぽりと納まって、小さくて……」
悪かったな、大きくて。
思わず言い返してやりたくなったが、その前に足元にかすかな衝撃を覚えて私は下を向いた。
「……ウサギ」
「……ウサギだね」
あれほどウサギに会いたがっていた先生も、私の言葉に唖然とした様子で返す。
私の足元には言葉のとおり、真っ白いもふもふとしたウサギがいた。もしかしなくても、小動物ふれあいコーナーから逃げてきたのだろう。
ウサギは、まん丸とした黒い瞳でこちらを見上げてくる。
「……。可愛い」
それはどちらが言った言葉か。私は言い合っていたのも忘れてしゃがみこんだ。
手を伸ばしても、人に慣れているのかまったく動かない。そっと体を撫でればウサギは気持ちよさそうに目を細めた。その姿が可愛くて、私は夢中でウサギを愛でる。
隣からふふっと笑い声がした。はっと我に返って魚浜先生を見れば、彼は耐え切れないといったように肩を震わせている。
しまったと思った。
「フミちゃん、ウサギが苦手って嘘でしょ。目がすっごくキラキラしてる」
この言葉に、私は全面的に降伏せざるを得なかった。
ウサギは好きだ。ただ、ひとつ訂正させてもらえるなら、動物で一番可愛いのはレッサーパンダだ。それは散々眺めたし、お土産屋でぬいぐるみも買ったが。
先生は、私が渋々頷くさまが可笑しかったようで、さらに笑い声を上げた。
散々笑って、涙目になりながらもようやく笑いを納める。
「フミちゃんってば、可愛い」
今私は嫌味を言われているのだろうか。先生が堪らずといったふうに溢した台詞に、私は眉を寄せる。
先生はそんな私の様子に気づいていないようで、ウサギに視線を移すと手を伸ばした。
「あっ!」
「あっ!」
しかし、ウサギは何を思ったのか先生の手を避けて走り出した。私たちは立ち上がるとウサギを追って走り出す。
一瞬、あれ?と感じた。何かを忘れている、と確かに感じたのに、ウサギが急に反転したと思ったら大きく飛び跳ねたので、その疑問は一瞬にして霧散した。
こちらに迫り来るもふもふとした塊――。
「危ない!」
先生の声が聞こえた次の瞬間、背中に衝撃を感じて私はうめき声をもらした。
それと同時に首にちくりとした痛みが走る。
倒れたのだ、と理解した。目を瞑る前、先生の手が私に向かって伸ばされるところまでは見ていて。
「フミちゃん、大丈夫!?」
名前を呼ばれて目を開ければ、先生の顔が真上にあった。それを目にした途端、がんっと頭を鈍器で殴られたような痛みが走る。
知っている。知っている。ちょうどこの角度、この背景、この体勢で。あなたを。画面越しの、あなたを。
一体何がどうなっているのか。
私は必死になって何かを考えようとした。
けれど、博物館のときとは違って意識ははっきりしているのに、なぜか頭がうまく回らない。
「フミちゃん?」
「せん……せ……」
絞り出した声は掠れて不明瞭。目もきっと焦点が合っていなかっただろう。
後から考えれば、このときの私は異常だったとしか言いようがない。だけど、まるで何かに呼応するかのように、先生の目も虚ろに染まっていったなど、このときの私は気づきもしなくかった。
先生の相貌がすっと、細められる。その表情は、普段の明るくふざけた雰囲気とは違ってやけに官能的で。
「いつも思ってたけど、フミちゃんってグレープフルーツの匂いがする」
先生が、私の首に鼻を擦り付けるようにして匂いをかぐ。
こんな場面なのに、私は妙に納得した。私は無類のグレープフルーツ好きだ。好きが転じて普段からグレープフルーツの香水をつけるほどに。
「舐めれば、この体もグレープフルーツの味がするのかな」
どうだろう? 先生が言うのなら、そんな気がする。
だが、きっと甘くはない。微かな甘みに勝る酸味。それがモブで。これがヒロインだったのなら、脳までとろけるほど甘美だったに違いない。
ヒロインだったのなら――。
……いや、待てよ。味がするはずないだろう。
私はようやく正気を取り戻し始めた。でも、それは完全じゃなくて。頭の片隅で誰かがおかしいと叫んでいるのに、霞がかった思考はこれが正しいのだと主張する。
「ねぇ、食べてもいい?」
ダメ。ダメだ。お願い、近づかないで。今は逃げられないから――。
それなのに、彼の顔はどんどん迫り来る。
そのとき、かすかに聞こえた声は、まさに一筋の光明といってもいい。その声が聞こえた瞬間、私の体はまるで呪縛から解放されたかのように動き出した。
目の前にある体躯を、精一杯の力で突き飛ばす。
私は脱兎のごとく逃げ出した。




