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それでもあなたに恋してる





 視界の端で青が忙しなく点滅していた。早く渡りきらなければ信号はまもなく赤に変わってしまう。だというのに、私は空を見上げたまま動けないでいた。

 耳に届く人々の悲鳴や怒号はどこか遠く、その声は明確な意味を示さず通り過ぎていく。

 そうか、私は死ぬのか。と、理性ではない心のどこかで理解した。

 そう理解した瞬間、今まで燃えるように熱かった身体が急激に冷えてゆく。手足の感覚がなくなって、もう目も満足に開けていられない。

 誰かが必死に声を張り上げていたけれど、それに答えることは出来なかった。

(ごめんなさい……)

 それは誰に伝えたものなのか。考える余裕もなく私の意識は白い空間の中に引きこまれていった。









 はっと目を開けばそこは誰もいない教室だった。

 私はいつの間にか乱れていた呼吸を落ち着かせると、最後に大きなため息を吐いた。



 ここは特別教室のひとつだった。校舎の隅にあっても授業の少人数対応が求められるようになった昨今においては案外重要な教室のひとつである。

 しかしそれも、卒業式という今日に限っては違う。

 時計をみれば、針はすでに十時を過ぎていて、ここ七海女子学園高等学部の卒業式はとっくに始まってしまっていた。とはいっても、一年生の私にとってはさほど重要な式典ではないし、在校生にはまだ二週間ほど登校日が残っている。



 だからと言って、さぼったわけではない。

 登校したはいいが体調が優れなかった私は、そのまま早退の許可が出されたのだ。



 ならばなぜ、ここに居るのかと言うと帰る途中で酷い吐き気に襲われたからだ。その場に立っていることも出来ず、重い体をなんとか引きずって近くにあった教室に入ると席につくなり気を失うようにして眠りについた。



 身体が弱いという訳ではないのだが、高校に入ってから体調を崩すことが増えた。お医者様は急な環境の変化に身体が追いつけなかったのが原因で、慣れれば治るだろうと言っていたが、今のところその兆しはない。

 急な眩暈や頭痛とった症状がほとんどで、その多くは少し体を休めれば回復するが、時折こうした酷い吐き気に襲われることも高熱を出して寝込むこともあった。




 吐き気は治まったものの、まだどこか重い体を起こす。歩くのに支障がないことを確認すると、足元に投げ出されていた鞄を拾い上げて教室を出た。

 しん、と静まり返る廊下を寮に向かって歩く。



 八年前、高等学校は郊外への校舎移設を機に全寮制に変わり、格段に広がった学園の敷地内には五つの寮が建設された。寮には各階級があり、上から牡丹寮、芙蓉寮、菊花寮、梅花寮、鈴蘭寮と花の名前が付けられている。まるでどこかの国の後宮のようだ。

 ちなみに階級が上がるほど、部屋が広くなり、校舎との距離が近くなり、そして家賃も格段に上がる。それでも多くの者が、牡丹寮もしくは芙蓉寮に入りたがるのだから、流石はお嬢様学校としか言いようがない。



 私は言うまでもなく鈴蘭寮だ。



 校舎を東に突っ切って二階へと上る。二階には校舎と寮を繋ぐ渡り廊下が設置されていた。

 と言っても鈴蘭寮に直接繫がっている訳ではなく、繋がっているのは水連塔と呼ばれるサロンのような建物だが。



 渡り廊下から臨める手入れの行き届いた庭園を見るともなしに見ながら進んでいると途中でふと人影を見つけて足を止めた。

 すぐ真下にある大きな木の傍にひとりの少女が佇んでいる。

 こちらに背を向けているので顔は見えない。だが、



 ――ふわふわとした茶色の髪をツインテールにしたその姿を目にした瞬間、鼓動がドクンと大きく跳ねた。



 知らない人、知らない人のはずなのに。

 どうして、どうして私は今、あの人を知っていると思ってしまったのだろう。


 途端に体がカッと熱くなった。

 それなのに、手足は指の先からスッと冷えていく。

 心臓は体から飛び出して行くんじゃないかと心配になるほど激しく脈打ち、あれほど静かだった世界は耳鳴りがうるさくて仕方がない。

 呼吸が詰まる。息が苦しい。

 胃の中から何かが込み上げてくるような不快感に咄嗟に手で口を覆うが、朝ごはんを食べ忘れた胃の中はどうやら空っぽだったようで、何も出てこなかった。 そのことが返って辛い。

 あぁ。彼女が振り返ってくれたのなら、知らない人だと確信が持てたなら、この苦しみから解放されるのだろうか。



 もはや懇願にも近い思いで見つめると、ふいに木の影から男が姿を現した。今まで木に隠れて見えなかっただけで、少女はずっと彼と一緒だったらしい。

 男のほうには見覚えがあった。

 きっちり撫でつけられた黒髪に、銀縁の眼鏡。冬でも夏でも崩れることのないかっちりとしたスーツ。端整な顔は常に無表情で、周りに対しても自分に対しても厳しい態度はどこか人を嫌厭させる。


 彼は女子校であるこの学校に自由に出入りできる、数少ない男性。

 一学年担当の英語教師――深水怜一(フカミレイイチ)だった。



 ふと脳裏をかすめる一枚の場面(スチル)


 ――私はこの場面を見たことがある。


 頭を鈍器で思いきり殴られたような気がした。

 それと同時に脳の中に直接流れ込んでくる、おびただしい量の記憶。



 マンガやアニメが大好きだった姉に、ライトノベルが大好きだった私、そしてゲーム、特に恋愛シュミレーションゲームと呼ばれる類が大好きだった妹。

 私達はとにかく仲が良くて、趣味はみんな違ったけれど、それぞれお気に入りの物があればお互い共有し合って、休日にはあれこれと語りあったものだ。

 その中でも妹が特にはまっていて、ゲームが得意でない姉が夢中になって、私でさえも何度もプレイしたゲーム。



 『私立 七海乙女学園 ~それでもあなたに恋してます~ 』



 深水がおもむろに女子生徒の腰に手を回すと自分の方へと引き寄せた。ふたりの影が重なる。



 ――ここは乙女ゲームの世界だ。



 そう理解した頭はもうそこまでが限界で、意識は一気に暗転した。







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