Section 1 -Part.5-
千雪が店にやって来たのは連休明けの夜、閉店間際の午後九時前だった。制服姿の彼女はいつもより明らかに遅かったものの、相変わらずの無愛想な表情で僕の前にアーハのアルバムを差し出した。それはビルボードチャートを着実に上昇している注目株で、言うまでもなくそこには店に今かかっている「テイク・オン・ミー」が収められていた。
「外で待ってるから」
会計の最中に千雪から放たれた言葉に驚いたのは、僕よりもむしろ武史のほうだった。武史は僕と千雪を交互に見比べた後、なるほどそうかと得心したように深く頷いた。
「わかった」
それだけを言って素早くレジを打ち、アーハとともに去って行く千雪の後ろ姿を見守っていた僕の隣から、でもそれを呼び止める武史の声が響いた。
「中で待ってなよ」
振り返った千雪よりも僕のほうが驚いていた。
「もうすぐ終わるからさ、レコードでも見ながら待ってなよ」
武史はもう一度具体的な内容とともに千雪に声をかけると、恩着せがましく僕に向かって耳打ちした。
「片付けは俺がやっとくから、お前はもう上がっていいぜ」
それでも僕は躊躇したが、既に閉店時間になっていたこともあってそのまま武史の言葉に甘えることにした。僕は千雪に軽く目配せした後、奥のロッカーで素早く着替えを済ませ、武史に感謝の言葉を投げかけながら、レコードではなくぼんやりと窓の外を眺めていた彼女を誘って店の外に出た。
夏のかけらが残っていたこともあって昼間は暑かったが、この時間にもなると秋特有の乾いた夜風に体全体が包み込まれて過ごしやすかった。僕らはこの間と同じように、お互いに黙ったまま通りを河原に向かって歩いていた。ただひとつ違うのは、僕が千雪の斜め前を歩いているという現実だった。
「ずいぶん涼しくなったね」
「もう秋だからな」
僕らは河原に並んで座り、川を渡る澄んだ風の音と鈴虫の鳴き声が奏でる音楽に耳を澄ませていた。僕は、いつの間にか千雪に対する言葉遣いが変わっていることに気づきながらも、その自然な雰囲気に二人の距離が明らかに縮まっていることを実感した。お互いの座る位置取りにもそれが如実に現れていた。
「何かあったの?」
「どうして?」
「何となく、そんな風に見えたから」
千雪は僕を見ていなかった。正面に広がる住宅街の明かりか、あるいはその向こうに広がる星の世界を見ているようだった。
「フラれたんだ、女の子に」
「そう」
「他の男と付き合ってたんだ」
沈黙が流れた。千雪の短い黒髪が風に揺れていた。鈴虫の声が少し大きくなったような気がした。
「でも好きなんでしょ?」
「えっ?」
「その子のことが好きなんでしょ?」
その時、ようやく千雪がこちらを見た。黒い瞳に吸い込まれそうな気がした。僕はとっさに返す言葉を失った。
「可能性、あるんじゃない?」
「……そうかな?」
「尚くんが好きな間はね」
僕のことを尚くんと初めて言った千雪の顔には、はっきりとした笑みが浮かんでいた。誰が見ても明らかな笑顔だった。それは奇妙な、でも神秘的な瞬間だった。千雪に包まれているような優しい感覚だった。だから僕は、その安寧な状態に酔いしれたくて、黙ったままいつまでも川を眺めていた。