Section 1 -Part.3-
でも、翌日になって事態は急変した。率直に言えば、僕は彼女から手紙を受け取った。いや、手紙というにはあまりに文章が短かったのでメッセージといったほうが適切だったが、いずれにしても僕は彼女と初めてコミュニケーションを取ることができたのだ。
それは、彼女が借りるためにカウンターに差し出したアルバムの下に隠されていた。隣に未央がいたこともあって、僕はその白い紙のかけらを素早くズボンのポケットにしまうと、何事もなかったかのように会計を済ませた。
「あの女の子、なかなかいい目をしてるわ。クール・アンド・ザ・ギャングを聴くなんてね」
未央の言葉もうわの空だった。僕は用を足すふりをして店の奥にあるトイレに入ると、ポケットに入れたばかりの紙片を早速取り出した。
〈今晩九時半に、駅前の喫茶店で待っています〉
僕はそこに書かれた文章をじっと眺めた。取り立てて特徴のない扁平な文字が並んでいたが、一方でそこには強い意思力が秘められていた。必ず行かなければいけないような使命感を抱かせる何かがあった。もっとも僕には、そんな強制力など必要なかった。誰かから強いられるまでもなく、僕は自らの意思で彼女と会うことを望んでいたからだ。
午後九時を過ぎて店のシャッターを下ろすと、僕は片付けやレジの清算もそこそこに未央に別れを告げ、既に雨の上がった駅前通りを彼女の待つであろう喫茶店に向かって走った。二日続きの雨にもめげず、どうにか体にまとわりつかない程度に乾いた制服が、今度は汗で湿っていくのを気にしながら店に着くと、すぐに目に止まるように入口の傍にある席に身を埋めた。レトロな雰囲気を醸し出す店内には他に客の姿もなく、腕時計で約束の時間の五分前であることを確認すると、はやる気持ちを懸命に抑えながらアイスコーヒーを注文し、彼女が目の前に現れるのをひたすら待ち続けた。
でも、十時を過ぎるどころか閉店時間の十一時になっても彼女は姿を見せなかった。店内にはほのかにポール・ヤングの「エブリタイム・ユー・ゴー・アウェイ」が流れ、僕はその歌のようなやるせなさに胸が打ち震えた。彼女にとっては些細な約束だったかもしれなかったが、少なくとも僕にとっては重大なことであり、その純粋無垢な裏切り行為にやり場のない憤りを覚えた。僕は寂しかった。今になってようやく、彼女に踊らされていた哀れなピエロに過ぎなかったことに気づいたのだから。
「そうか、そりゃあとんだ災難だったな」
「よく考えてみれば、そんな誘いに簡単にのった俺が悪いんだけどな」
それは翌日の午後八時過ぎだった。あまりに元気のない姿を見かねたのか、武史がその訳を尋ねてきたので、僕は夕べの出来事を最初から話すことになったのだ。店内にはクール・アンド・ザ・ギャングの「チェリッシュ」が静かに流れ、窓の外の暗闇には通りを行き交う車のライトが浮かんでは消えていった。
「まあ、嫌なことは早く忘れちまってさ。そうそう、今度未央も入れて三人でどこかに行こうぜ」
武史のそんな励ましは身に染みたが、昨日の今日で簡単に気持ちの切り替えがつくはずもなく、一刻も早く家に帰りたくなった僕は閉店後の片付けを武史に任せると、いつものように裏口から細い路地を通って表通りへと出た。
もっとも僕は、そのまま家に帰ることをしなかった。
僕の目の前にあったもの、それは店のシャッターに寄りかかったままうつむく制服姿の彼女だった。
「俺のことを待っていてくれたんですか?」
勇気を振り絞った問いかけに対して、彼女は黙ったまま首を少しだけ縦に振った。
「ここじゃ何だから、どこか店にでも入りましょうか?」
「河原」
「えっ?」
「夜風が気持ちいいから」
彼女はそれだけを残して僕を誘う様子もなく通りを歩き始めた。僕はその横を歩くことに躊躇いを感じ、一歩下がった斜め後ろから彼女を見守った。夜の九時半を過ぎたとはいえ、むせぶような暑さは未だ健在で、僕は摩訶不思議な状況に戸惑いを覚えながらも、河原までの十五分の道のりを奇妙な期待感を抱きながら過ごした。
その場所からは斜め前を横切る大きめの橋と、川向こうに広がる住宅地の明かりが見渡せた。お世辞にも抜群のロケーションとは言えなかったが、彼女の言うとおり時々頬を掠める夜風が心地よかった。僕らはその間に微妙な距離があったものの並んで腰を下ろし、暗闇に沈んだ川の流れを見ることもなく眺めていた。
「よくここに来るんですか?」
僕の質問に、彼女は言葉の代わりに軽く頷いて見せた。でもそれ以上の会話は続かなかった。いや正確に言うと、彼女が会話を好まないことは感覚的にわかっていたので、必要以上に話をしないほうがいいのではないかという判断からあえて続けなかったのだ。もっとも、黙ったまま十分が経過するにつれて、せめて名前だけでも訊かなければと少し焦ったことは事実だったが。
「名前、何ていうの?」
その一言は、彼女のほうから放たれたという点でまさに画期的だった。僕は地上に吹き上げるマグマのような昂揚感を懸命に抑えながらも、努めてクールな音程で模範的に答えた。
「尚希、塚本尚希っていいます。十六歳、高校一年生です」
「いつからあそこでバイトしてるの?」
「今年の五月からです」
「ふうん」
僕は、それに続いて彼女自身の名前が告げられることを期待したが、予想に反して彼女は再び黙り込んだので、仕方なくこちらからその流れを作り出した。
「あなたの名前は?」
「崎谷千雪、十八歳。高校二年生」
「えっ、十八歳だと高校三年生じゃないんですか?」
その質問に千雪は答えようとはしなかった。まだ時期が早いとでも言うような表情で僕を見た後、視線を外して正面を流れる川に向けた。再びの長い沈黙かと思われたが、千雪はすぐにこちらを向いて僕に話しかけてきた。
「また、こうして話ができるといいんだけど」
「もちろん、いつでもいいですよ」
僕の答えに、千雪はこちらを向いてかすかな笑みを浮かべた。それは本当に一瞬の出来事だったが、僕にとっては雪解けを象徴する雪割草のような笑顔だった。今日のやり取りが会話かどうかはわからなかったが、少なくとも千雪との間に心の交流があったことは事実で、その意味で僕は着実に第一歩を踏み出していた。明らかに心地よさを増した夜風が再び僕らの頬を撫で、川を渡って住宅街の彼方に消えていった。