Section 1 -Part.1-
「今日も外は暑そうだな」
冷房の効いた店内から発せられた武史の声が、非現実的な響きとともに僕の耳に届いてきた。夏も盛りを過ぎたとはいえ、一日の中で最も気温の高い午後一時半過ぎにレンタルレコード店を訪れる奇特な客などいようはずもなく、僕ら二人はレコードの整理をする気力もなく、ただレジの前に佇んで窓越しに映る人々のうんざりした表情に対して無責任に同情していた。
「そして、俺の輝かしい高校生活最初の夏もバイトだけで終わってしまうのか」
「でも、お前はまだ高校生だからいいよ。俺なんか、去年の春に高校やめちゃってからずっとこんな感じだぜ」
ため息交じりに呟いた僕に、武史は寝癖交じりの茶髪を手で掻きながら気だるく答えた。武史は僕よりひとつ年上で、本来なら高校二年生のはずだったが、本人曰く、俺が高校を必要としなかったとかで、入学して一ヶ月も経たないうちに自分からやめてしまい、それ以来ずっとこの店で好きな音楽を聴いていた。僕がバイトを始めたのがゴールデンウィークの真只中だったので、武史とは四ヶ月ほどの付き合いになるが、ビルボードのヒットチャートに並ぶ音楽をこよなく愛するという一点で僕らは見事に一致し、今ではお客さんへの応対もそこそこに、二人で競って流行の曲を店内に響かせていた。もっとも、一日の来客数は本当に微々たるものだったが。
「よしっ、今日はブライアン・アダムスでいこう」
「おいおい、また『ヘブン』か?」
「まさか。今日はこれだよ」
そう言って不敵な笑顔を浮かべた武史がかけた曲は、「サマー・オブ・シックスティナイン」だった。
「思い出のサマーか」
「バイトだけで終わってしまった俺たちの、切なくも儚い夏の思い出ってとこかな」
武史の不似合いな感慨も、すぐに曲の中に吸い込まれていった。僕らはそうして、去り行く夏の想いをブライアン・アダムスと共有した。でも、あまりにその世界に深酔してしまったせいで、店内に客が入ってきたことも、やがて目の前にレコードが差し出されたことにも気がつかなかった。
その女の子は、口を真一文字に結んだまま身じろぎひとつしなかった。ぴったりした白いTシャツに黒いパンツ姿で、やや眉間に皺を寄せながら僕の胸のあたりをじっと眺めていた。肩に触れない程度に短めにカットされた黒い髪が、大きめの黒い瞳と見事にマッチしていた。ブライアン・アダムスのLPを間に挟んで、僕らは奇妙な時間の流れの中に佇んでいた。
「君もビルボードを追いかけてるの?」
それは本当に不用意な一言だった。「思い出のサマー」がもたらしたものなのかもしれなかった。でも僕は、純粋な気持ちで彼女に訊いてみたかったのだ。何故なら、僕にとって彼女との出会いはこれが初めてではなかったからだ。
それは、五月半ばの薄曇りの日だった。バイトを始めて十日が過ぎ、どうにか自分の日常生活に馴染んだ頃でもあった。いつものように学校帰りの午後五時からシフトに入っていた僕は、既に意気投合していた武史とともに、いつ来るかもわからない客をぼんやりと待っていた。
その子が店に入ってきたのは、五時半を少し過ぎた頃だった。彼女はひとしきり店内を見回すと、洋楽の新譜が集まるコーナーに足を運び、数分をかけて滑るようにレコードを操ると、お目当てのLPを抱えて僕の目の前に差し出した。表面に「ブレクファスト・クラブ」の文字を見た僕は、斜め後ろの壁に掲げられていたビルボードのチャートをちらっと眺め、それから店内にかかっていた曲がそのアルバムと一致する瞬間を感じていた。「ドント・ユー」……シンプル・マインズの歌うその曲はまさしくチャートのナンバーワンであり、僕はその偶然を偶然とは思えずに彼女の黒い瞳をじっと見つめてしまった。制服姿の彼女は、僕の胸のあたりをじっと見ていて、こちらの視線に気がついていたのかどうかはわからなかった。僕はすぐに我に返ると、ややぎこちなく会計を済ませ、そのまま黙って去り行く後ろ姿を見送った。
「あの子、久しぶりに来たな」
「えっ、常連さんなのか?」
「ああ。一時期は毎日のように来てたな。よく流行ものの洋楽を借りていってさ。でも、ここしばらくは来てなかったな」
僕の質問にも、武史は気のない言葉を返すだけだった。そこには彼女に対する興味が微塵もないことが伺えた。確かに彼女は、僕から見ても取り立てて美人でも可愛くもなかった。でも何かがひっかかっていた。彼女には、僕の心の中にダイレクトに響く何かがあったのだ。
僕は、それからも彼女の姿を目で追い続けた。その制服から、後にやや遠い場所にある私立高校の生徒であることはわかったが、彼女がカウンターに持ってくるアルバムはどれもビルボードチャートの上位にあるものばかりで、さらに多くの場合において店内に流れていた、というより僕が流していた曲に一致していた。僕はこの数ヶ月の間に、彼女がチャートを追いかけていることを直感し、いつの日かその事実を確かめようと考えていた。だからその、八月三十一日の昼下がりに不躾な言葉を投げかけてしまったとしても、少なくとも僕にとっては必然的な出来事だったのだ。
「……だとしたら?」
でも、彼女のその反応は全く予期していなかった。僕は次の言葉に詰まってしまい、恥ずかしさのあまりに慌しくレジを打つことしかできなかった。
「へえ、お前、ああいうのがタイプだったんだ」
「何言ってるんだよ、違うよ。ただ何となく気になってさ」
彼女が去って行った後で悪戯っぽい笑みを浮かべながら訊いてきた武史を何とか交わした僕は、自分でも何となく居心地が悪くなって、かかっていた曲をブライアン・アダムスからコリー・ハートに変えた。「ネバー・サレンダー」の切ないロッカバラードを聴いているうちに、夏休み最後の日に起きたささやかな出来事が胸に染み入ってきた。そう、その時僕の前にも、窓の外に流れる人々の目の前にも、秋という名の物憂げな季節がどうしようもなく迫ってきていたのだ。