Section 3 -Part.4-
波の音が聞こえたような気がして目が覚めた。仰向けに横たわる僕の視線の先には薄汚れた天井が広がり、こちらを無機質に見つめていた。次第にはっきりとしてくる意識と感覚の中で、右頬に優しい温かさを感じて横を向くと、外界を阻害するかのように立ちはだかる分厚いピンクのカーテンの隙間から、一筋の光が差し込んでいた。僕がそれに誘われるように窓際に歩み寄って一気にカーテンを開けると、目の前には映画のスクリーンのように広がる早朝の穏やかな海があった。でも、その眩いばかりの煌きに映し出された自分の裸を認識した瞬間、僕は自分の記憶から失われたこの一日の出来事を否応なく思い出すことになった。
結果として見れば、千雪と抱き合って過ごした時間は二十分程度のものだった。でも僕には、それが半日にも一日にも感じられた。僕らは話をすることも忘れて、二人だけの世界の中で戯れた。ひとしきり波打ち際ではしゃいだ後、足の痛みも忘れて何時間も歩き続けた。降り注ぐ太陽の光が肌から汗を誘い出すのも気にならなかった。僕らは今の充実した気持ちが失われることが怖くて、ただやみくもに彷徨い続けていた。
気がつくと、周囲には夜の闇が忍び込んできていた。僕らはどちらからともなく歩みを止めると、暗闇が二人の存在を危うくするのを恐れて再び唇を求め合った。そこがどこだったのか、誰が見ているかなどは関係なかった。少なくとも僕は、千雪さえ傍にいてくれれば何もいらなかった。
結局のところ、僕らは二人だけの居場所を求めていたのかもしれなかった。たとえそれが、海沿いに立つうらぶれたラブホテルでもよかったのだ。二人で一緒にいられることが全てだった。仮に空恐ろしい神社の境内だったとしても関係がなかったのだ。
僕らはホテルの部屋に入ると、赴くままに体を求め合うことに夢中になった。お互いに不器用であるはずだったにもかかわらず、その行為は少なくとも二人を精神的に満足させるのに十分なものだった。テクニックなど必要なかった。最後に聞こえた千雪のかすかな声がそれを象徴していた。
千雪……僕は後ろを振り返ってあたりにその姿を追い求めた。でも、部屋に漂う絶望的な喪失感がある事実を端的に示していた。そう、彼女はいなくなってしまったのだ。ここから、いや僕の目の前から永遠に。そして僕の直感は、彼女の眠っていた場所に置かれていた四つ折の青い紙片を見つけるに及んで決定的なものとなった。
ベッドのその部分には、まだほのかに彼女の香りが残っていた。僕は紙の青さにかすかな胸の痛みを感じながらも丁寧に開き、そこに並んだ文字の数々を少しずつ目で追い始めた。
尚くんへ
勝手に先立つことを許してください。なんて言うと、いかにもこれから死んでしまうような感じだけど、これが今の私の正直な気持ちです。そして、他ならぬ尚くんならわかってくれると思います。
私に対する尚くんの気持ち、とても嬉しかったです。と、こんな風に簡単に言ってしまうと薄っぺらいかもしれないけど、本当に心の底から嬉しかったです。私もあなたのことが大好きです。できればこれからもずっと二人で一緒にいたい……。久しぶりに会って、改めてそのことを実感しました。でもやっぱり、自分を好きになれないうちには、あなたとうまくやっていける自信がありません。あなたは言ってくれました。本気で誰かを愛することから、自分のことを好きになってもいいんじゃないかと。確かにそうかもしれません。あなたを本気で愛するうちに、気がついたら自分を愛していることもあるのかもしれません。でも私には無理なのです。何故ならそれが私だから。私は根源的にそういう不器用な人間なのです。だから再びアメリカに旅立ちます。ささやかな箱庭から抜け出して大空へ羽ばたくために、そして何より自分自身を好きになるために。
当分は日本に帰ってこないつもりです。何年かかるかわかりませんが、自分で納得のいく人間になれた時、改めてあなたの前に姿を現すでしょう。もっともあなたはもう、私のことを忘れてしまっているかもしれない。あなた自身の新しい世界を見つけ出しているかもしれない。だったらそれでもいいのです。私のことは思い出のアルバムの中にそっとしまっておいてください。
最後に、あなたに出会えたことを感謝しています。私の一生の宝物です。だから、いつまでもそのままのあなたでいてください。
では、いつか偶然が重なることがあったら会いましょう。
たくさんの幸せをありがとう。さようなら。
居たたまれなくなった僕は、服を着るのももどかしく急いで部屋を飛び出した。ホテルを後に海岸通りを横切り砂浜に降り立った。いるはずのない千雪の名を虚しく叫び続けた。確かに僕にはわかっていた。いつか彼女との日々に終わりが来ることを。二人だけの永遠の世界など決して存在しないことを。でも早すぎた。あまりにも唐突だった。僕らはまだ十代だった。まだこれからの発展途上だった。それなのに何故、彼女は完璧を求めるのか。不完全でも純粋な今を享受しようとしないのか。僕は悔しかった。目の前に広がる水平線の彼方に必死に答えを見出そうとした。もっともそこには、一艘のヨットが所在なさげに漂う姿があるだけだった。そう、答えを見出すには僕は明らかに若すぎたのだ。僕がようやく理解できたのは、それから九年が過ぎた五月のある晴れた水曜日だった。