Section 2 -Part.3-
千雪の家は寺からバスで十分ほど揺られ、さらに電車を二本乗り継いだ、つまりは僕の家とバイト先の最寄り駅を反対側に出て、駅前通りを十五分ほど歩いた二階建てアパートの一室だった。僕は、促されるままにその無機質なアイボリーの建造物に取り付けられた錆びた鉄の階段を上ると、彼女が目の前のドアノブに鍵を差し込む様子を不思議な気分で眺めた。ここにも、僕のイメージが間違っていることを示す動かしがたい証拠があった。
「何もないところだけど」
ドアが閉まらないように千雪が脇に立ったことで目に入った空間は、まさに彼女が言ったとおりに何もなく、程なく灯された明かりがさらに部屋の虚無感を強調した。
「何してるの? 早く入って」
長い間入口に立っていた僕に痺れを切らしたのか、一足先に部屋に入っていた千雪は、少し苛立ったような早い口調とともに中に入るように手招きした。
「本当に……綺麗に暮らしてるな」
「お世辞なんか言わないでよ。何もないって、正直に言えばいいのに」
お世辞を言ったつもりは毛頭なかったが、それほどワンルームは綺麗に、実に何もなかったのだ。ベッドもテレビもラジカセも、机すらなかった。唯一あるとすれば、それは窓にかけられた薄いブルーのカーテンくらいだった。
「部屋で音楽とか聴かないのか?」
「聴かなかったら、尚くんの店なんか行かないわよ」
どこかから出してきた電気ストーブのスイッチを入れながら僕の質問に答えた千雪が、白い壁に設えられていたクローゼットのドアを開けると、そこには少しくすんだ、でも貫禄のある大きなコンポが顔を覗かせた。よく見ると、その脇には服が入っているであろう収納ボックスや、綺麗に折りたたまれた一組の布団などが静かに佇んでいた。
「昔父親が買ったものなの。何か音楽でも聴く?」
ようやく目にした生活感のある光景に安堵した僕は、でも千雪の提案に対して首を横に振った。今日この場所に来た目的は、二人で肩を並べてのどかに音楽を聴くことではなく、真実の千雪を知ることにあったからだ。
「じゃあ、コーヒーでも入れようか?」
自分のコートをハンガーにかけた千雪は訊きながら、同時にこちらに向かって手を差し伸べてきた。無言のまま着ていたコートを手渡すと、彼女は少しぎこちない手つきで別のハンガーにそれをかけた。二つ並んだピーコートは絶妙のコントラストで仲良く部屋の片隅に吊るされた。
「私のこと、いろいろと知りたいと思ってるでしょ?」
二人分のコーヒーを入れたカップを手にしながら、千雪は僕の心の奥を見事に突いてきた。核心に触れられた僕は返す言葉もなく、褐色に染まった液体の表面を眺めるしかなかった。
「でも急がないで。最初からゆっくりと話すから」
千雪に見つめられた僕は、身動きどころか心臓の鼓動さえ止まってしまいそうだった。このまま彼女の全てを知ってもいいものだろうかと、今になって臆病風に吹かれ始めていた。彼女の人生を背負い込んでしまうかもしれない不安感が体全体を包み込んだ。でも僕は、やはり訊かなければならなかった。真実の彼女を受けとめなければならなかった。もう卑怯な後戻りはできなかった。
「弟がいるなんて、どうしてそんな嘘をついたんだ?」
「私の母親、私を産むと同時に死んでしまったの。もともと体が弱くて、それでお産に耐えられなかったみたいで」
僕の質問に対する答えとは明らかに違っていたが、千雪は自分を納得させるようにゆっくりと話し出した。だから僕も、あえて何も言わずに彼女からの話の続きを待った。
「だから私、父親と二人きりで育ったの。母親がいなくても別に寂しくなかった。だって最初から傍にいなかったんだから、その存在がどんなものなのかわかるわけないわよ。ただ、他の子と比べると形式的な意味で違和感はあったけどね」
母親の存在がない現実を、幸運にも僕は理解することができなかった。でも、同時に千雪の気持ちを掴めない意味で、僕はささやかな悔しさを胸に抱くことになった。
「父親は優しかったけど、毎晩家に帰ってくるのが遅かったし、休みの日は競馬場通いだったから、ゆっくり話したり遊びに行ったりする機会はほとんどなかったわ。思い出せるのは、小学一年生の時に行った近くの動物園くらいね」
自分の父親と重ね合わせていた。仕事を口実に毎晩のように飲んで帰ってくる。休みの日には朝からそそくさとパチンコに出かけてしまう。でも帰りには必ず家族へケーキを買ってくる父親の姿が、僕の脳裏を鮮やかに掠めていた。
「中学三年生の冬だった。珍しく、父親が早く帰ってきたと思ったら、私の前に大きなケーキを差し出して、急にクリスマスやるぞって楽しそうに叫ぶの。確かにその日はクリスマスイブだったけど、あんまり突然だったからびっくりしたわ。でも中を開けてみるとロウソクが入っていなくて、私はどうでもよかったんだけど、せっかくだから買いに行ってくるって、そのまま慌しく出て行ったの」
千雪の表情の変化を僕は見逃さなかった。それは話の流れが急展開することを予見させたが、鈍感な僕には具体的なイメージが湧いてこなかった。
「それきりだった」
「えっ」
「死んじゃったのよ。この世の中から消えちゃったの。ねえ、信じられる? 何年かぶりに早く帰ってきて、無愛想な娘を喜ばそうとケーキまで用意して、たまたまロウソクがなかったからってわざわざ買いに出かけたら、青信号の横断歩道を渡ったのに車にはねられたのよ。そんなのってあり? 何かが根本的に間違ってるって思わない?」
語気を荒げながらこちらに向かって必死に訴えかける千雪に対して、僕はとっさに彼女の真横に場所を移すと、言葉の代わりにそっと肩を抱き寄せた。彼女の持っていたカップがこぼれ落ち、既に温かみを失っていたコーヒーがフローリングの床を褐色に染めた。
「ごめんなさい。つい……」
「根本的に間違ってるよ、絶対に」
それ以外に何と言えばいいのかわからなかった。千雪が遭遇した不条理に対して僕が何を言ったところで無意味だった。世の中にある様々な理不尽の存在を頭ではわかっていたが、今までそのことを身近に感じたことはなかった。僕は、自分がいかに不自由のない呑気な人生を過ごしてきたかをつくづく思い知った。