プロローグ
五月のある晴れた水曜日、僕は会社の有給休暇を取って、中古のシビックと一緒に岬へと続く海岸通りを走っていた。サンルーフから見上げる空はほんのりと青く、僕はゴールデンウィークにもかかわらず仕事で休みが取れなかった自分を癒すように、ハンドルを握りながらゆっくりと深呼吸した。カーステレオのFMからは害のない音楽が次々に繰り出されていたが、そんな中で何十曲目かに流れた古いメロディーが僕の耳に止まった。
『鳥が空へ、遠く羽ばたくように、いつか飛び立てるさ、自分だけの翼で』
渡辺美里が放つフレーズが、遠い彼方で眠っていた僕の過去を少しずつ呼び覚ました。そう、十年前の今頃も、僕らは静かに繰り返される波の音とともにこの曲を聴いていたのだ。
「本当にこの歌のとおりよね。自分も愛せずに、本気で誰かを愛することなんてできないのよ」
まだ蒼かった春の日に放たれた彼女の一言が、長い歳月を経て、今鮮やかに胸に蘇ってきていた。
『粗雑に生きてたら、出会いも気づかない』
「ティーンエイジ・ウォーク」はなおも続いていた。もっとも、僕は歌の教訓に反してこの十年の間、あまりにも粗雑に生きてしまっていた。数々の出会いにも気づかなかった。いや、気づこうとせずにあえて目を背けてきたのだ。彼女を失ってしまったあの日から、僕の心の時計は止まったままだった。そして今、唐突に目の前に現れた音楽が僕を、彼女と初めて話した一九八五年の暑い夏の終わりへと誘った。