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(9) 鞄[かばん]

「あのう…もし。これ、忘れ物ですよ」

 鳥山住夫は電車を降りようとして隣の座席の男に呼び止められた。男が手にしていたのはかばんだった。住夫が男との境に置いた鞄をうっかり忘れていたのには、それなりの理由があった。結果、住夫は呆然ぼうぜんとして、鞄を持って乗ったことすら忘れていたのだった。住夫はギクッ! と驚いたように振り返った。

「あっ! どうも…」

 軽い会釈で鞄を受け取ると、住夫は乗降扉の方へ歩いた。こんなヘマやっちまって、なにやってんだ、俺は…と、自分自身が腹立たしかった。

 小一時間前、ちょっとした手違いで課長の丸岡から、こっぴどく叱責しっせきされ、住夫はすっかりテンションを下げていた。

「駄目じゃないか! 鳥山君! 我々は公僕なんだぞ。間違えました・・では済まないんだ! 幸い、先方さんが気づいてくれたからよかったものの、そのままだったら訓告以上だぞ! …まあ私がいるから、そこまではいかないだろうがな」

 丸岡は自分を少し高く見積もり、偉ぶった。住夫が意気消沈して席に戻ったとき、定刻のチャイムが鳴り、気落ちしながら役所を出た。駅へと歩く道すがら、失敗の原因を辿たどったが、どうしても分からないまま電車へ飛び乗っていた。そして、なお想いにふけって鞄を忘れた…ということだ。

 駅の前に小さなラーメン屋台があった。住夫は常連で、いつも決まりのニンニク入りねぎラーメンを注文し、冬なら熱燗をコップ一杯、以外は小瓶のビール一本と決めていた。屋台の親父も馴れたもんで、住夫を見ると、注文を聞かずに準備を始めて、出した。

「今日は元気がありませんね、鳥山さん」

 住夫が座った途端、慰めるような眼差まなざしでやさしく親父が声をかけた。

「ああ…つまらんことで、怒られちまったんだ。ははは…、今日はどうかしてるよ、俺」

 住夫は笑って返した。そのとき、小さな声がした。

明日あしたから、逆のいいこと、ありますよ、住夫さん』

 住夫は辺りを見回した。客は自分一人で、親父以外、誰もいない。

「親父さん、今、なにかいったか?」

「へえっ? いや、ぺつに…」

 親父は鉢の麺に具を添えながら、顔を上げていった。

「そうか…。気のせいか」

『気のせいなんかじゃありませんよ、住夫さん』

 ふたたび、住夫の耳に、はっきりと声が聞こえた。

「誰だ!」

 住夫は思わず立って叫んでいた。

「鳥山さん、大丈夫ですか?」

 心配そうな顔で親父が住夫を見た。

「ははは…、どうも。俺、疲れてんだな、きっと」

 バツわるく、住夫は座りながら声を小さくした。その後はなにもなく、残ったコップのビールを飲み干すと住夫は屋台を出た。

「また、どうぞ…」

 置かれたお愛想を手にして、親父は決まり文句をひとつ吐いた。住夫は心地よく歩いて家路を急いだ。今日のことは忘れよう・・と思った。そのとき、また声がした。

『場所がらも考えず、先ほどは失礼しました。いったことは本当です。明日になれば分かりますよ』

「誰だ!!」

 住夫は立ちどまり、あたりを見回した。だが、だれもいない。そぞろ歩く通行人が驚いて、振り返った。

「いや! 別に、なにもありません」

 住夫は笑って誤魔化し、また歩き始めた。

『私は、あなたが持つ鞄です。この前は修理して下さって有難うございました。では…』

 住夫は、また立ち止って、手に持つ鞄を見た。捨てようとしたが思いとどまり、昨日、修理した鞄だった。

 次の日、辞令が出た。住夫は課長補佐に昇格していた。

「ははは…、おめでとう。昨日のことは忘れてくれたまえ鳥山君。君も管理職だ、よろしく頼むよ」

 うって変わった態度で、丸岡がいった。


                THE END

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