(91) 小さなこと
隣の小舟家と川面家の際面伝いに植えられた紫陽花の枝が伸び、川面の庭にまで勢いよく出てきた。まあ、見ないことにしておこう…と、川面は最初、軽く思っていた。だが、ひと月も経つと枝はズンズンと伸び、庭の風情は、すっかり損なわれてしまったのである。さて、どうしたものか…と、川面は頭を捻った。まあ、自分の敷地内だから、断らずに切っても取り分け問題はあるまい…と軽く考え、ある日の朝、運動方々、川面は紫陽花の伸びた枝を切り始めた。すると、隣から慌ただしい人の姿が見え、近づいてきた。小舟だった。
「勝手に切られちゃ困りますな~。ひと言、言って下さいよ!」
小舟は、やや興奮し、赤ら顔で言った。
「それは、どうも…。ちょっと、庭の見映えが悪くなりましたので…」
小舟の顔は普通の表情へ戻ったが、矛を収めた訳ではなかった。
「まあ、それはそうなんでしょうが、枝の下は私の土地ですよ」
「えっ?! そうでしたか?」
「よく見て下さいよ! 際面石が入ってるでしょうが…。黙ってましたがね、川面さん。あなたが庭を作られたとき、私の際面まで芝を植えられたんですよ! 角が立つと思ったんで、黙ってましたがね! 当たり前のように通っておられるが、その下は私の家の土地です! 海上保安庁に電話しますからねっ!」
小舟はまた熱めのお湯に浸かったような赤ら顔になった。
「えっ? 今なんて?」
「海上保安庁ですよ! これは、我が国の国境侵害ですっ!!」
「ははは…ご冗談を」
川面は、こんな小さなことで馬鹿な冗談を言うお人だ…と、小舟に軽くお辞儀しながら家の中へと引き揚げた。だが、その小さなことは、現実となった。川面は、なにげなくテレビのリモコンのボタンを押した。音声はアナウンサーがニュースを報じていた。
『本日、勃発した国境紛争は、ただいま一端、終息しておりますが、小舟国と川面国の両国は、一発触発の危機にあります!』
「えっ?!」
川面は自分の耳を疑った。小さなことが、とんでもなく大きなことになっていた。
『海上保安庁は巡視艇を派遣し、哨戒を強化すると発表しましたっ!』
「んっな、馬鹿な! どこの海だ? …」
川面は、夢か…と思った。アナウンサーが口にした小舟国と川面国が、夢の中の川面をそう思わせたのだった。そのとき、目覚ましが、けたたましく鳴った。川面は寝室で目覚めた。やはり夢だったか…と、川面は思った。午前中、庭を歩くと、やはり紫陽花の枝が伸び、川面の庭にまで勢いよく出ていた。川面は紫陽花を切らず、庭の芝生を際面伝いに剥がして垣根から下げた。伸びた紫陽花の枝は、小さなことで終った。
THE END




