(90) 誤解
シェークスピアの四大悲劇の一つ、ハムレットもそうだが、誤解は悲しい結末を呼ぶ。…とは限らず、まったく逆の場合だってある。斎藤正の場合がそうだった。斎藤は貧しい家庭に生まれ育ったが、頑張って都会で成功した一人である。もちろん、斎藤の頑張りだけでそうなった訳ではない。彼が一大財閥を築き上げるまでにはさまざまな紆余曲折があり、その都度、誤解という運が付いて回っていた。もちろん、悪い方ではなくいい方に誤解され、その誤解が誤解を呼んで、彼を成功へと導いていった…と、いうことである。これは斎藤のそうした過去の数十年前の一場面である。
ようやく誤解によって財界の大物、車崎の信用を得た斎藤は、僅か三名で立ち上げた新しい小会社の事務所で次の取引会社に関する資料を集めていた。まず、相手を知るところから、その取引の第一歩が始まる・・とは、斎藤が起業に際して抱いた抱負であり信念だった。
「なるほど…。これでいこう!」
斎藤があるファイルを見ながら、そう叫んだ。
「なんです、社長!」
起業に賛同した田守陽一が、そのファイルを覗き込んだ。
「ああ! それですか。それはあの方のお力で…」
「そうそう!」
二人は互いの顔を見合わせて笑顔で頷いた。もう一人の社員兼雑用係の三島礼子は、怪訝な顔つきでお茶を淹れながら二人の笑顔を見つめていた。
次の日、田守が電話をし、車崎を呼び出した。車崎はその話に驚き、自らの専用車に乗り、斎藤の会社ビルへ横付させた。
「実は、かくかくしかじか、なんですよ、車崎さん。これを見て下さい!」
応接室の斎藤の話を、車崎は、また誤解した。
「なんだって! もし、それが本当なら、大ごとじゃないか、君!」
「そうなんですよ。これを見て下さい!」
斎藤は準備しておいたブラック・リストのファイルの一部を見せた。事実なのだから犯罪は一切、構成しない資料である。それを見て、誤解するのは相手の勝手だ…というのが斎藤の読みだった。まるで007の映画の世界を、斎藤は自でいった。
「分かった…。ことが大ごとにならないよう、なんとかしよう! いくら、必要なのかね?」
斎藤は、ゆっくりと指を二本、立て示した。
「二十億だね、よし分かった。それでなんとかなるんなら安いものだ。明日、君の会社へ届けさせよう」
「いえ、二億です…」
斎藤は小声で言った。
「えっ! そんな端金で?」
「ええ、それだけありゃ、十分です。私がなんとかします…」
斎藤は自信ありげに、ゆったりと言った。車崎は斎藤の態度を見て、また、誤解した。この男はすごい男だ…と。実際のところ、斎藤にすれば、五千万ほどでも十分、相手の取引会社を丸め込めると踏んでいたのだった。周到な計算は、すでに出来上っていた。あとは、相手会社が誤解するかどうかに、かかっていた。ある種の、腹と腹の探り合いだった。
数日後、相手の取引会社は斎藤に舌を巻いて降参した。五千万の六倍の三億という額がものを言ったのである。取引は斎藤の読み以上に有利に成立し、斎藤の会社は巨万の富を得る第一歩を築いたのだった。
これが、斎藤の小会社を一大財閥まで発展させた数十年前の誤解が誤解を呼んだ事実の一コマである。
THE END




