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(89) 分からない

 長藤花男は分からなかった。生き方が分からないのである。決して、金に不自由している訳ではなかったが、そうかといって、あり余るほどの金でもなかったから、今一つアグレッシブな行動に出られなかった。国文学研究所の助手をめ、一か八かの冒険をすれば自由には動けそうだったが、万が一、失敗だと逃げ場はなかったのである。だから、辞められず動けず、どうすればいいのかが分からない・・と話はまあ、こうなる。今ではもう時代遅れとなった安アパートの中で、長藤は四畳半にひとり寝そべって天井をながめていた。

「花の命は短くて・・苦しきことのみ多かりき・・か…」

 気分までもがポジティブになり、長藤は古めいたつぶやきをポツリとらした。

 梅雨つゆに入ったのか、陰鬱いんうつ湿しめりけのある雨がシトシトと降り出した。空は今の長藤の心境と酷似こくじしていた。今日は研究所が休みだから、コレ! といって外出の予定はなかった。そのとき、天井から一匹、蜘蛛くもが糸をらしながらりてきた。そして、長藤の顔のすぐ上で、ピタリ! と止まり、また逆方向に糸を昇り始めた。

「お前なら、どうする?」

 長藤は蜘蛛に語りかけて、馬鹿げた自分を笑った。そのとき、蜘蛛はピタリ! と、また止った。そして、おごそかな声がした。、

『分からないですか? 簡単な話ですよ。ともかく、極めなさい』

 妙なことに長藤は、声が聞こえたことに驚けなかった。そんなことがある訳がない…とは思うのだが、どうしたことか感情がたかぶらず、驚けなかったのである。

「極める…?」

『ええ、いま作っておられるのは辞書ですよね? 辞書は言葉の集まりです。その言葉は文字から作られてます』

「ああ、確かに…」

『その文字を極めるのです。面白いですよ、ふふふ…』

 そして、声は途絶えた。分からなかった長藤は、分かったような気がした。

「そうか!」

 長藤は寝そべっていた半身を、やおら起こした。蜘蛛の姿はあとかたもなく消えていた。


                THE END

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