(85) 切れ味
朝から妻に頼まれ、砥石を前にスリスリ…と包丁を研いでいる場面は部下に見せられたものではない…と思いながら、日曜の朝、篠山は包丁の研ぎに励んでいた。一応、これでも部長であり、取締役も一歩手前の地位にいるのだ。それが、包丁研ぎとは…と、篠山はまた一つ、溜め息を吐いた。
「父さん、これ使ったらどう?」
息子の一也が一本のセラミック製の棒を出した。
「なんだ、それは?」
「そこに書いてあるだろ。セラミックシャープナーだよ」
一也がフロアに置いていった品の説明書きには確かにそう書いてあった。
「セラミックシャープナーか…刃物用研ぎ器だな。時代も変わったもんだ」
「何か言った?」
背を向けて立ち去ろうとした一也が振り返った。
「いや、なんでもない…」
使うとも使わぬとも言わなかったが、息子が追求せず立ち去ったのを幸いに、篠山は砥石で研ぎ続けた。そして数十分が経過した。
「よし! これでいいだろう…」
一人ごちた篠山は、包丁を右から上から左から・・と眺めながら、研ぎ味を試してみることにした。篠山の計算では、紙は申すに及ばず、ほとんどの物はスッパリ! と切れるはずだった。上手い具合に新聞に入っていたチラシ広告がすぐ傍にあった。篠山はその紙を使うことにした。さて、切るぞ! と意気込んで、篠山は一枚の紙を二つ折りにすると、その間へ包丁の刃先を入れ、包丁をスゥ~っと横に引っ張った。篠山が頭に描いた予想は、滑かに分断された二枚の紙だった。だが現実の紙は、まったく切れていなかった。紙の切り口を見れば、引きちぎったようになっていた。数十分、研いだ挙句の切れ味は、さっぱり不出来だった。篠山は愕然とした。いくらなんでも、コレはないだろう! と、ぶつけようのない怒りが湧いた。そろそろ妻が買物から帰ってくる! と、怒りに変わって緊迫感が篠山に湧き起こった。篠山にはメンツがあった。この先、妻の前で大きな顔が出来ない危険性もあった。よしっ! これだ! 篠山は一也が置いていったセラミックシャープナーを手にして、説明書きの使用方法どおり包丁を五分ほど擦った。そして、チラシ広告を手にし、先ほどと同じように引いた。紙は見事にスッパリ! と切れていた。いや、斬れていた・・と表現した方がいいだろう。篠山には包丁を引いて切ったという感覚がまったくなかったのである。紙は恰も自ら切られるように裁断されていたのだった。
「ただいま! あなた…研げた?」
「ああ、軽いもんさ、この程度は…」
篠山はセラミックシャープナーを脇へ隠しながら、勝ち誇ったように言った。不思議なことに、そのタイミングで一也が現れた。
「父さん、それ凄いだろ?」
「…」
篠山は返せなかった。
その三日後、俺は研ぎ師じゃないからな…と、メンツを失った篠山は自己弁護しながら部長席に座っていた。篠山に切れ味はなかった。
THE END




