(64) さみだれ横丁
さみだれ横丁は、正確には五月雨横丁と書く。だが、界隈の住人は小難しいということで専ら仮名書きを使用し、馴れ親しむようになった。ただ、親しまれるようになるまでには、いろいろとあった。
まず、その謂れである。不思議なことにこの横丁へ入った初めての人々は、横丁へ来た目的を五月雨が降るようにすっかり忘れ、陰気に横丁の外へと流れ去るのだった。そして、横丁を出てしばらくしたとき、おやっ? と自分がここへ何をしに来たのかを想い出し、横丁へと方向転換した。ところが、ふたたび横丁へ入る角を曲がった途端、またすっかり目的を忘れ、流れるように横丁を出ていく・・といった塩梅になった。そういうことが何度か続けば、流石に日は傾いてくる。やがて夕方近くとなり、横丁へ来た人々は目的を果たせぬまま帰途につく破目となった。そんな噂が評判となって世間へ広がり、いつの間にか誰彼となく五月雨横丁と呼ぶようになったのである。界隈の住人は、いい迷惑なのだが、呼び名が小粋なことから、定着してしまった、という経緯があった。
次に、迷った者が帰途に着くときは必ず雨になるという点である。もちろん、初めて訪れた者だけに現れる奇怪な現象で、界隈の住人は普通に横丁を出入りしていた。まあ、他にもいろいろとあるのだが、そこがお聞きになりたい方は、私に直接、聞いていただきたい。私が聞いた真相を、詳しく語りたいと思う。まあ、それはさておき、今日もまた一人、横丁を訪ねてやってきた若い娘がいる。年の頃は17、8の芸能人にしたいような美形である。
「ああ、あったわ。あそこを曲がれば五月雨横丁ね…」
娘は地図の書かれた小さな紙と辺りの景色を照らし合わせながら立っていた。娘は今年入社した芸能プロダクションの新人マネージャーで、横丁内に新築された邸宅を訪ねてきたのだった。家は、とある超有名な芸能界の大御所女優が建てたのだが、娘はそのお付きのマネージャーに抜擢されたのである。審査に立ち会ったその女優の鶴の一声で決まったのである。
娘は歩き始め、横丁へ入る角を事もなげに曲がった。すると、そのときである。
『あれっ? 私、何しに来たのかしら、こんな所へ…?』
辺りを見回せば、見たこともない景色が広がっている。もちろん、初めて来た土地だから分からないでもなかったが、娘が疑問に思ったのは別の意味だった。娘は立ち止り、考えを過去へと遡らせた。芸能プダクションを出た…までの記憶は戻った。しかし、なぜ出たのかという目的の記憶が娘には欠落していた。私、どうかしてるのかしら? と、娘は首を捻った。そこらをウロつく徘徊症では無論、なかった。とすれば…と、娘は考えを巡らせた。通行人がそんな娘を怪訝な眼差しで見ながら通り過ぎた。娘はとうとう居たたまれなくなり、その場所からUターンした。ひとまず事務所へ戻ろう…と娘は思い、横丁を出た。そして、しばらくしたときだった。あっ! と、娘は目的を想い出した。娘は、ふたたび横丁への角を曲がった。瞬間、娘はまた目的を忘れた。そういうことが三度あり、娘は四度目は横丁へ入らない! と決意した。携帯で女優を呼び出したのである。
「あっ! 先生ですか? 私、マネージャーを務めさせていただきます新人の最上川と申します。近くまでお迎えに参ったのですが、生憎、道に迷ってしまいまして…。はい! … お迎えの車は駅前へ止めております。すぐ近くだということでしたので…」
『ああ、そうなの…。ウフッ! あなた、横丁で忘れたんじゃない?』
「えっ!? ええ、まあ…。よく御存じで」
『ここ、あるのよ。怖かった? 私もね、最初、新築の家を見に来たときさ、立派な建物だけど、誰の家かしら? って思ったものよ。そう! 分かったわ。私が駅まで行きます。駅で待ってて頂戴』
「分かりました。どうも、すみません! お時間は大丈夫でしたでしょうか? 社長に聞いてなかったもので…」
『大丈夫、大丈夫。ほほほ…私! だもの。待たせときゃいいのよ、泣きつかれた雑誌社の取材だからさ』
「そうでしたか。よかった…。では、のちほど…」
最上川はホッ! として携帯を切った。不思議なことに、急に雲が出て五月雨がポツリポツリと降り出した。傘を持っていない最上川は、慌てて早足で駅へと駆けだした。━ 五月雨を 集めて早し 最上川 ━ だった。
THE END




