(61) ゆったり…
泰然自若を正に絵で描いたような男がいた。この男、少々のことでは動じない、いわば落ちつき払った余裕と風格が感じられる男だった。そんな男だから、やれ地震だの火事だのと辺りの者が騒ぎたてようと、重い腰を上げた試しがなかった。男が座る足下の座布団には苔が生えてるに違いない…と、近所の者達は陰口を叩いた。だが、男はいっこうに気にする様子もなく、相も変わらず、ゆったり…遠くの景色を見続けた。この日もすでに日は西山へ没し、夕闇が迫っていた。
「あのう…夕飯ですが」
息子の嫁が離れへやって来て、いつものように盆に乗せた夕食を運んできた。
「ああ、有難う。そこへ置いて下さい…」
男は決まり文句を一つ吐き、相も変わらず、ゆったり…遠くの景色を見ながら座布団に座っていた。そして時折り、薄気味悪くニヤリ! と笑い、なにやらボソッと呟くのだった。呟く男の視線の遥か先には、地元で神の祠として祭られた岩山があった。
ある日、息子の嫁は、何を呟いておられるのだろう…と聞き耳を立てた。
『ははは…、神さま、そういう訳にも参りません。私にそのような実力はありませんから…』
男は、ゆったり…囁くように呟いた。神さま? と、息子の嫁は訝しく思った。そして、ひょっとしたらボケかしら? と昨日観た痴呆症のテレビを思い出した。夕闇が忍び寄っていた。息子の嫁は少し気味悪くなり、足早に離れを去った。相も変わらず男は、ゆったり…座りながら置かれた盆を手繰り寄せた。
『では、いただきます…』
男は、すでに暗闇となった遥か先の神の祠を望みながら呟いた。箸を取り、男はいつものように食べ始めたが、急に箸を止めた。
『えっ! 今宵ですか? そんな…。なんの準備もしておりませんが…』
男は急に驚きの呟き声を出した。男が言い終わると、不思議にも一陣の風が舞い、風鈴がチリン! と音を立てて鳴った。男は驚きとは裏腹に、やはり、ゆったり…動じなかった。
その翌朝、息子の嫁が離れへ朝食を運んだとき、男の姿は忽然と消えていた。男が座っていた薄汚れた座布団の上には神の祠のお札が一枚、置かれていた。
THE END




