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さらさらさらさ:一期一会……ではない!  作者: 帆立
1章――雨の日の過ごし方
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第8話:彼女の洞察力

 卯月(うづき)と彼女の愛犬・勇丸(いさまる)を後部座席に乗せ、千里は車を発進させる。

 眉を吊り上げた更紗(さらさ)は、卯月を後部座席に座らせて以降、一言も口を利こうとしない。吊り上げた眉も少しも下げようとしなかった。嵐の中ハンドルを握る千里は時折ため息をつきながら、バックミラーで二人と一匹の様子を窺っていた。

 更紗が機嫌を損ねるのも無理はない。二年の時を経て念願かなって千里(せんり)に会えたというのに、早々横槍を入れられたのである。しかもその相手は『千里とラブな関係』と聞き捨てならない台詞を吐いた者。横槍を入れてきた卯月はもとより、それを許した千里にも腹を立てているのは明白であった。

 千里は悪意ではなく好意によって卯月を迎え入れた。人助けは()いことだ。自分の望むようにいかないからといって、やり場のない怒りを爆発させるのはわがままな子供でしかない。そう更紗が我慢しているのが千里にも伝わっていたから、余計につらかった。

 卯月と勇丸は後部座席で大人しく……というよりも、ぐったりとしている。

 全身からしたたる雨水のせいでシートが濡れて色が濃くなっている。身体の動きを止めたせいで、麻痺していた『冷たい』という感覚を取り戻したのか、卯月は体を震わせて幾度もくしゃみをしていた。

 わざわざ雨ざらしの屋外で待たないで、部屋で連絡を待っていればよかったのではないか。そう千里が訊くと、携帯電話のバッテリーが切れてしまったのだと卯月は震えた声で答えた。

 車内はワイパーとウインカーの音だけがさびしく聞こえている。千里は居心地の悪さを覚えながら黙々とアクセルを踏んでいた。


 箱根家に帰宅する。

 我が家に招き入れた濡れ鼠の卯月を脱衣所に押しやってから、千里は玄関で待つ勇丸をバスタオルでくまなく拭く。勇丸は非常に賢く大人しく、彼が身体を拭き終えるまでじっと待っていた。

「いい子だ。卯月の飼い犬にしちゃ躾が行き届いてる」

 固い毛の生えた背中から耳の付け根にかけてなでる。勇丸は黒い鼻をひくつかせて千里のジーパンのにおいをしきりに嗅いでいる。

「俺がまだガキの頃、犬を飼いたくておふくろにねだったのを思い出したぜ。もし犬を飼うとしたら断然秋田犬だな。更紗はどうだ」

「よく、わかりません」

 勇丸の身体を拭く様子を後ろから眺めていた更紗は、千里にそう問われてそっぽを向く。本人(『本犬』が適切か)を前にして「犬は嫌いです」とあからさまに貶さないところが更紗らしいやさしさであった。

「触ってみないか」

 勇丸の背中を抱きつつ更紗に手招きする。

 不安げに揺れる更紗の瞳。

 差し伸べる千里の手を取ろうと、手を伸ばしたり引っ込めたりする。結局、更紗は手を引っ込めて首を横に振った。

 脱衣所の扉越しにシャワーの流れる音と陽気な歌声がエコーを伴って聞こえてくる。千里と更紗の複雑な心境などつゆも知らず、飼い主はどこまでもお気楽であった。

 脱衣所から出てきた卯月が千里の寝巻きを着ているのを目にして、更紗はまた機嫌を損ねてしまった。


 風呂から上がってからも卯月は昼食をぺろりと平らげ、居候する従妹の更紗よりもくつろぐ体たらくであった。

「あいつには昼食あげなくてもいいのか? えーっと、磯丸(いそまる)だっけか」

「潮風の香る名前だねぇ。勇丸(いさまる)は私が大学やバイト行ってるときも我慢できるように、朝夜二食の習慣を身に付けさせているのさ」

「そうそう、勇丸だったな、イサマル」

 千里と彼の母、更紗、卯月の四人で昼食の麻婆豆腐を食べるかたわら、勇丸は玄関の傘立てに繋がれて大人しくしている。アパートでも玄関が彼の住処であるという。

 蓮華を動かす手を止めた卯月がテーブルに両手をついて身を乗り出す。正面に座っていた更紗は急接近する彼女から逃げるように椅子ごと身体を後ろに引いた。

「更紗ちゃんて、今いくつ?」

 口の周りをオレンジ色に汚した卯月が更紗に訊いてきた。

「じゅ、十一歳です。今年度から小学校五年生になります」

 たじろぎながら更紗は答える。恩人であり恋敵(更紗の一方的な敵意であるが)でもある彼女にどのような態度で接するべきか、更紗は未だ決めかねている。

「五年生かー。まだそんな歳なのにしっかりしてるなぁ。おしとやかだし、言葉遣いも丁寧だし、おまけにこんなに美味しい料理までつくれるなんて」

「しとやかなのにも、しっかりしているのにも、言葉遣いにも料理の腕前にも、年齢は関係ありません!」

「私が同じくらいのとき『もっと女の子らしくしなさい』ってよくお母さんに叱られたっけなー。我ながら先が思いやられるよ」

「あの、聞いてますか?」

 腹を立てる更紗を完全に無視し、卯月は感心したふうに何度も頷いている。さすがの更紗も、卯月のマイペースさには敵わなかった。

「そうそう、脱ぎ散らかした靴、揃えてくれてありがとね」

「い、いえ」

「よく更紗が靴を揃えたってわかったな」

 千里が口を挟む。

「お風呂から出たとき、更紗ちゃんが玄関の前で屈んでたのが見えたのさ。更紗ちゃん、勇丸が苦手みたいだし、あの子とじゃれあう以外に屈む理由っていったらそれくらいかなぁ、ってね」

 卯月は時たま妙に鋭い発言をして千里を驚かせる。今も千里は彼女の見事な洞察に感心するばかりであった。惜しむらくは、彼女の洞察は必要なときに限ってなかなか働いてくれない。ちょうど昨日のように。

「あの子が嫌いなわけではなくて、犬全般が苦手なのです」

 その台詞が、犬嫌いの更紗にできる精一杯の気配りであった。

 さかのぼって六年。幼稚園のお遊戯会の真っ最中、保護者の連れてきた大型犬に追い回されて笑い者になって以来、更紗は犬全般を仇敵と認識している。

 自分よりずっと大きくて体重もある獣が追いかけてきて、しかも逃げれば逃げるほど遊んでくれていると勘違いし喜んで走ってくるのだから、無垢な彼女に恐怖心を植えつけるには充分すぎた。

「あれはかわいそうだったわね」

 空になった食器を片付ける千里の母が微笑をたたえながら昔を懐かしむ。かわいそう、といいながらも口調は明るい。

 当事者にとっては悪夢以外の何ものでもなかったその思い出は、居合わせた大人たちの大方にとっては『ほほえましい、懐かしい思い出』であった。同情こそしているが、実は千里にとっても。

「それにしても珍しいわね、千里が女の子のお友達を連れてくるなんて。卯月ちゃんて、もしかして千里の恋人なのかしら。お母さん嬉しいわ」

 母の余計な気遣いに千里は戦慄する。

 隣に目をやるとやはり、更紗が頬を膨らませ不満をあらわにしている。

 小皿に盛られた豆腐は怒れる彼女の右手に握られた蓮華によって無残に磨り潰されている。千里は何故か、その有様に己の悲惨な結末を暗示せずにはいられなかった。

「私なんかよりも更紗ちゃんの方がよっぽど恋人らしいですよー。丁寧な物腰で気配り上手で男を立てて、おまけにお料理も上手なんですもん」

 この上卯月までもが余計なことを口走って更紗を刺激しないよう、千里は先手を打とうとしたものの、すでに手遅れであった――と思いきや、卯月は千里の予感をよい意味で裏切ってくれた。彼女の洞察が発揮されたのである。

「わ、私はただ兄さまのお役に立ちたいがためで、こっ、こここここ恋人などふしだらな気持ちがあるわけではないわけでは……」

 更紗は『恋人』という単語を聞くや一転、恥ずかしがって縮こまる。消え入る声で否定とも肯定ともつかない言い訳をしながら、顔は幸せそうににやついていた。

 更紗の目を盗んで、卯月が千里に対して得意げに親指を立てていた。

 窓がやかましく音を立て、家全体が軋む。

 テレビのL字テロップには暴風警報が逐一流れている。今晩さえしのげば、明日の朝には晴れ間が見えるとニュース番組で流れた。

 千里と卯月と更紗はトランプ遊びで午後の暇をつぶした。

 卯月の陥穽によってババを引かされた更紗が、歯を食いしばって涙目になっていたところで千里の父が帰宅した。嵐の影響で昼間に退社の命令が下ったのだという。「電車は一時間遅れだったよ。たぶん今頃は運休になってるんじゃないかね」とスーツの裾で濡れた眼鏡を拭いていた。


 果たして夜中になると、嵐は昼間よりも激しさを増していた。家は断続的に揺れ、風の吹きすさぶ音が家の中まで聞こえてきていた。

 家の軋む音で千里は目を覚ました。

 寝ぼけ眼をこすりながらソファから身を起こす。

 真っ暗闇の中、アナログ時計の蓄光素材の針が深夜の一時を指している。

 有事に備えて懐中電灯とラジオを備え、千里は居間で寝ていた。二階の自室は卯月に貸している。

 ベッドに比べてソファはやはり寝心地が悪く、背伸びした千里は身体を何度も左右に捻らせる。その動作のついでに、薄暗い部屋の様子を見渡した。

 風は強いものの、窓はヒビひとつ入っていないし、雨漏りも見当たらない。

 顔を洗おうと廊下に出ると、卯月と出くわした。

 卯月は玄関で寝そべる勇丸に寄り添っていた。

「健気な子だね」

「飼い犬は飼い主に似るって聞いたんだがな」

「違う違う。更紗ちゃんのことだって」

 なるほど、と千里は頷いて同意する。

 閉鎖的な村社会で暮らしていたためか、更紗は今時珍しい、奥ゆかしい少女である。絶滅危惧種として保護対象に指定されるべき乙女である。

「水臭いなぁ、箱根くん。あんなかわいい『イイナズケ』がいるなら教えてくれたってよかったのに」

「がっかりしたか?」

 卯月はまぶたを閉じて天井を仰ぎ見、数秒間考え込む。

「ほんのほんのちょっとだけ」

 何故か、そのとき見せた彼女のウインクが千里にはとても魅力的に映った。

 『イイナズケ』の仕返しでからかったつもりが、逆に千里自身が不意を衝かれる形となってしまった。小突こうとして手痛い返り討ちに遭う、割に合わない奇襲であった。

「ふーむ、更紗ちゃんに『姉さま』と呼ばせる手段はないものか……」

「そっちの意味での『がっかり』かよ。こんな男前が目の前にいながら」

「男前より可憐な少女の方が好みなのさ、私は」

 返り討ちはまさかの二段構えで、二度目の攻撃も千里に精神的打撃を与えた。

 卯月らしいと言えば卯月らしい。

 千里は、ポニーテールを解いた彼女に一瞬でもときめいてひどく損をしたと思えてしまった。

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