第7話:彼女は逢瀬のつもりでも
壁には余所行きの服がハンガーにかけられている。
黒と白の色使いが上品な、更紗に似合いそうな落ち着いたデザインのワンピース。傍らには青い花のアクセサリーがあしらわれた帽子と、同じく花柄のポーチが置かれており、すぐにでも外出できる準備が整えられていた。雨さえ降っていなければ。
念願の『檜扇苑』に兄と一緒に行ける。昨夜から興奮していた更紗は出鼻をくじかれて心底落ち込んでいた。独りでビー玉やおはじきで遊んでいる姿が余計にそれを際立たせ、千里を哀れませた。
「今日は巡り合わせが悪かったんだろう。きっと明日は晴れるさ」
「では、明日晴れなかったら」
「あさって晴れる」
「そのまた明日もその明日も、ゴールデンウィーク中ずっと晴れなかったら」
悲壮感を帯びた更紗の声。
「二人で雨がっぱ着ていくか」
千里が笑い飛ばす。いつまでも晴れないのではないか不安でたまらなかった更紗も、千里の冗談につられてくすりと笑みをこぼした。
「兄さま。雨が上がったら、必ずですよ」
「心配性だな。なんなら指きりでもするか」
「えっ」
千里に小指を差し出され、更紗は戸惑いの色をあらわにする。
彼女の自尊心が許さなかったのだ。指きりなどという、いかにも幼稚な約束の仕方を。
腕を出したり引っ込めたり、更紗は逡巡を繰り返す。
二度三度そうした後、ようやく更紗は自分の小指を千里の小指に絡めた。いかに高く築いた自尊心であろうとも、兄の前では瓦礫同然であった。
更紗にとって千里との日々は有限なのである。一日千秋の想いであった故、ゴールデンウィークすら刹那と感じるほど。七歳から九歳までの年月を共に過ごした兄なのだからそう感じるのも当然である。
更紗を慰めた後、朝食を済ませて居間のソファでくつろいでいると、千里の携帯電話がカノンのメロディを奏でだした。
携帯電話を手に取ると、画面にはまたしても『占部卯月』の表示。
通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てる。陽気な彼女の声がすぐに聞こえてきた。
「やぁやぁ、箱根くん。今暇かな?」
「忙しくて猫の手も借りたいぜ」
ソファに寝転がる千里はデザートのプリンを食べながら応答する。
「やっぱりそっちも暴風雨でてんやわんやなわけ?」
「ああ。てんやわんやで大忙しだ」
底に溜まったカラメルをひとさじ掬って口に含む。
「ふーん。イイナズケとなると忙殺の日々なんだろうねぇ」
「許婚の件はもう忘れてくれ。俺の負けでいいからさ」
携帯電話を両手で覆い隠し、小声になる千里。適当にいなそうとしたつもりが、卯月の方が一枚上手であった。
「なんかウチのアパートさー、暴風のせいで停電しちゃったみたいなの。修理しようにも、嵐が過ぎるまではにっちもさっちもいかないって、工事の人に言われちゃって困ってさ。明日には復旧するみたいだから、一日だけ箱根くんの家に泊めてくれないかな。猫の手はないけど犬の手なら持ち合わせてるよ」
電話越しに彼女の飼い犬・勇丸の荒い息づかいが聞こえてくる。
窓の外に目をやる。
天は分厚い雲に覆われ、世界は薄暗い。
横殴りの雨が窓を絶え間なく打ち、庭に植えられた木々が強風によって体をしならせている。嵐は見境なく地上を蹂躙している。雨脚は時間を経ていくごとに勢いを増している。テレビを点けると、暴風雨でめちゃくちゃにかき混ぜられる街の有様が映されていた。
「俺は構わないが、そういう頼みごとって普通、同性に頼むもんじゃないか」
「箱根くんとは性別を超越した友情を感じるのだよ」
「光栄極まりないな」
卯月が茶目っ気たっぷりにウインクを決めているのが電話越しにも伝わった。胸焼けがした千里はカラメルを掬っていたスプーンをテーブルに置いた。
通話を終えた千里は「やれやれ、都合のいい性格してるな」とぼやきながら立ち上がり、「ちょっと車使わせてもらうぞ」と母親に告げてから車のキーを手にする。
「兄さま、このような嵐の中、何処へ行かれるのですか。更紗もお供いたします」
玄関で靴紐を結ぶ千里の背中に更紗が従う。
昨日の出来事を顧みた千里は、顎に手を当てて目を閉じ逡巡する。それから更紗を手招きした。どうせ今晩、箱根家に泊まるのだ。遅かれ早かれ彼女とあの犬とは対面する羽目になる、という結論に至って。
助手席に更紗が座るのを確認してからキーを差してエンジンを吹かせる。ギアをPからRとNを経由してDまで入れると、二人の乗る軽四自動車はゆっくりと前進を始めた。
自宅の車庫を出ると外の世界は水煙にかすんでいた。
「兄さまと二人きりのドライブ、ですね」
荒れ狂う天候とは裏腹に、ハンドルを握る千里の隣で更紗が胸を弾ませる。悲しみに打ちひしがれる自分を慰めるためのマシロ様のはからいだ、と先ほどから無邪気にはしゃいでいる。
更紗の幸せに満ち溢れた笑みも数分後には無残に打ち砕かれるのであろうこと、そして己に降り注ぐ災難を想像して、千里は恐ろしさやら申し訳なさやらでいっぱいになりながらアクセルを踏んだ。
水溜りを弾きながら千里の駆る軽四自動車は嵐の中を突っ切る。
フロントガラスに叩きつけられる無数の雨粒。せわしなく左右して雨粒を一掃するワイパー。狭く薄暗い車内で、ラジオが道路の渋滞と鉄道の運休情報を垂れ流している。
行き先は未だ告げられずにいる。兄といられるなら行き先など何処でも構わないのか、更紗は何の疑問も抱かないまま大人しく助手席に座っている。
「車を運転なさる兄さま、とても凛々しいです」
やはり女性は車を所有する男性に憧れるのか。
千里は頭の中でアルバイトの給料と大学の奨学金返済、そして自動車の価格の入り組んだ足し引きを繰り返すも、むなしくなって中断した。彼にとってマイカーはまだまだ縁遠い。
「そういえば更紗、ゴールデンウィーク中ずっと俺の家に泊まるつもりらしいが、友達と遊ぶ予定はなかったのか」
「一番の友達の『みなもちゃん』に昆虫採集をしようと誘われました。ですが私には兄さまのお目付け役という大事な役目がありますから」
「俺のお目付け役なら仕方ないな」
「はい。みなもちゃんにも納得してもらいました」
茶化したつもりが更紗は至極真面目に頷いてしまった。
大切な友達を独占してしまい、あまつさえ持て余し気味であることを、千里は会ったことのない『みなも』という少女に心の中で謝罪した。
横風にあおられながらも上手い具合にハンドルを操る。赤信号での停車中、傘を正面にかざして向かい風の中を行軍する人たちが何人も目に入った。
交差点を直進してアルバイト先である酒屋の前を通り過ぎようとしたとき、雨ざらしの店長が必死の形相で看板を抱きかかえているのを見つけてしまった。今にも吹き飛びそうな『準備中』の立て看板を死に物狂いで支えている。今度は店長に対して心の中で謝罪しつつアクセルを強め、その勇姿をサイドミラーで見送った。
住宅地の狭い路地に入ってナビに従うまま進んだ末、千里の軽四自動車は一軒のアパートの前で停車した。
ナビと卯月の告げた場所が正しければ、ここが卯月の住むアパートである。
家賃月三万程度と見込める二階建ての古びたアパートは、いずれの部屋の窓にも明かりが点っていない。
千里がポケットの携帯電話に手を伸ばそうとしたとき、アパートの前で何かが動いているのが目に入った。雨にかすむ世界に目を凝らすと、ポニーテールの少女と一匹の犬だと判明した。
アパートの前には桃色の傘を差す卯月が秋田犬の勇丸を従えて待ち構えており、千里の車に向かって嬉しそうに何度も跳ねながら手を振っていた。その拍子に傘が逆さにめくれても、足元の水溜りがはじけても、彼女は平然と手を振っていた。
「やっほー。ありがと箱根くん」
運転席の前まで駆け寄ってきた卯月が窓から車内に首を突っ込ませてくる。アゴやポニーテールの先から雨水がしたたってきて千里は渋面を浮かべる。全身水浸しにもかかわらず卯月は屈託のない顔をしていた。
「いやはや今朝はびっくりしましたわ。目が覚めて部屋の明かりを点けようとしてもぜんぜん点かないんだもの。テレビもトースターも冷蔵庫もだんまり決め込んでるもんだから慌ててブレーカーを確認しにいったらさ、丁度大家さんが玄関の前にいて停電してるのを教えてくれたのさ」
「災難だったな。とにかくとっとと後ろに乗りな。お前の犬びしょぬれじゃないか」
卯月の隣で勇丸が雨にも負けず立っている。硬い体毛が雨粒を跳ね返すも、許容量はとっくに超えており険しい顔をしている。
「同じくびしょぬれの私も心配しなよ。この大粒の雨、冷たいのに加えて痛いのよね。ドドドドッて降ってきて。おや、更紗ちゃんも迎えにきてくれたんだ。嬉しいなー。私の名前憶えてる? ウヅキだよ、占部卯月。んでもって、この子は相棒の勇丸」
「わん」
名前を呼ばれて秋田犬――勇丸が挨拶代わりに吠える。
更紗の顔面から血の気が引いた。