第4話:ふつつか者ですが(D)
「わかった。降参だよ」
観念した千里は両手を挙げて敗北を認めた。
「当初の予定では兄さまのお家から通える学校に転校するつもりでしたが、父と母に反対されてしまいました」
更紗は心底残念がる。
あわよくば箱根家に永住する算段だったらしい。傍から聞けば無謀でしかない計画でも、本人は至極真剣で、まるで五分の勝算があったかのようにさらりと言ってのけて千里を恐れおののかせた。
「更紗は俺が恋しかったんだな」
意地悪っぽくからかうと、更紗の顔が耳まで真っ赤になる。
「自惚れないでください! 私はた、ただ、兄さまが約束を違えたのが許せなかっただけです。約束は命に代えてでも果たすべきなのです。だから、べ、別に兄さまのことが恋しかったわけではぜんぜんぜんぜんないのです!」
枕やらティッシュ箱やらプリンのカップやら、逆上した更紗は周りのものを手当たり次第千里めがけて投げつける。テレビのリモコンを振りかざしたところで生命の危機を感じた千里は、たまらず尻尾を巻いて二階の自室に逃げ込んだ。
自室の扉を閉めると、千里はほっと息をつく。
一途なところは昔から変わらない。一途過ぎて、時折理性を失うところも。
服の袖で額の汗を拭う。
部屋の扉がノックされ、わずかに開いた隙間から更紗が顔だけをひょっこり覗かせる。
「お見苦しい姿を晒してしまいました」
ゆでだこめいていた顔はすっかり冷めている。兄を前に取り乱してしまったせいで、今度は逆に意気消沈していた。
「さすが、女子ソフトボールクラブのエースは伊達じゃない」
「からかわないでください」
「散々罵ってくれたお返しだ」
「軽口は相変わらずですね」
「けど嬉しいよ。約束をすっぽかした俺のためにたった一人で旅してくれたなんて」
「兄さま」
頬に両手を添え、更紗はうっとりと表情をとろけさせる。千里は頭をなでようとした右手を慌てて引っ込めた。
利発で大人ぶっていて、子供として扱われることを何よりも嫌う更紗。皮肉にも、そういう態度がかえって千里の目に幼く映ってしまうことを彼女は知らない。上っ面だけ上品な振る舞いをしていても、人生経験が圧倒的に不足しているためどうしても垢抜けず、真似事の範疇から抜け出せていない。
もっとも、そこが更紗のチャームポイントだった。
千里はこっそり、ほくそ笑む。うっかり口に出してしまおうものなら、次はゴルフクラブないし致死の危険のある凶器で殴打されるのは確実だ。更紗は小学校のソフトボールクラブに所属しているため、投てきと鈍器の扱いには長けていた。
――兄さま、ご本を読んでください。
――兄さま、お食事の用意が整いました。
――兄さま、算数を教えてください。
――兄さま、キャッチボールのお相手をしてください。
千里が更紗の家に居候していたとき、更紗は片時も彼のそばを離れなかった。『兄さま』が彼女の口癖であった。二年間ほったらかしていたとはいえ、かわいいかわいい妹であるのには間違いない。
そんな最愛の妹が二年の時を経て今日、何の前触れもなく押しかけてきたとき、千里は戸惑いを隠せなかった。
決して更紗の来訪を迷惑がったわけではない。自分に会わんがため、家族に告げず家を出てきた可能性を危惧したのだ。目的を遂行する際に周りが見えなくなるのは千里もよく知っている。両親の許可が下りているのを確認できた今、ゴールデンウィークの間だけ箱根家に泊まるくらいなら大歓迎であった。
「ここが兄さまの部屋ですか」
千里の自室に上がるなり、更紗は顔をしかめる。そして辺りを細かに観察し始めた。
勉強机や本棚のみならず、事件現場の刑事よろしくベッドの下や窓枠に積もった埃など、隅々にいたるまで検分する。
観察だけでは飽き足らず、脱ぎ散らかしてある上着をハンガーにかけ、乱れたベッドのシーツをかけ直し、散乱している雑誌を本棚にしまいだす。途中、水着姿の女優が表紙を飾る漫画雑誌を手にとって「破廉恥です」と顔を赤らめ、薄目になりながら本棚に放り込んでいた。
散らかった物をあらかた片付けた後、
「雑然とした部屋です」
予想通り、容赦ない評価を下した。
「自堕落極まりないです」
「男の部屋なんて大体こうなる宿命なんだよ」
「宿命以前に兄さまの生活態度が原因でしょう。プリンしかり部屋しかり」
千里をねめつける。未だプリンの恨みは晴れていないようである。
「やはり兄さまには私がついていないといけないことがわかりました」
こほん、と咳払い。
いきなり結論付けられて千里は目を白黒させる。更紗の望む展開に無理矢理持ち込まれようとしているのが露骨にわかり、嫌な予感がした。
「兄さまのお母さまからも『息子のことをよろしくね』と任されました。任されたからには、しっかりとお役目を果たさねばなりません。なので」
更紗は床に両膝を立てると、三つ指をついて頭を下げた。
「兄さま。ふつつか者ですが、更紗をどうぞよろしくお願いいたします」
このままだと平安時代さながら、三日泊まれば婚姻成立と勘違いされかねない。ゴールデンウィークならば三日どころか一週間は泊まれる。
頭を下げながら、更紗は期待を込めた瞳で千里の様子をちらりちらりと窺っている。
千里は弱り果てた。
以上が一時間前の出来事である。