第3話:ふつつか者ですが(C)
台所の後始末を済ませても更紗は泣き止まなかった。
三十分ほど経って、身体が泣き疲れるという肉体的な制止によってどうにか彼女は泣き止んだ。
「私、待ちました」
泣きはらした更紗が、目じりに残った涙を拭う。
「ずっと待ちました。兄さまのこと二年待ちました」
涙声で千里を責め立てる。
痛々しく充血した目には千里に対する恨みつらみが込められている。愛ゆえの憎しみというものなのか、枯れた喉から聞こえてくる恨み節は今にも生霊と化して千里を呪い殺してしまいそうな迫力があった。
「『半年後に会いにくる』って約束したではありませんか」
「ああ、憶えてる。もちろん憶えてるさ」
正確には『思い出した』だが、下手に正直に述べるとまた泣かれそうなので千里は適当に話を合わせる。
――約束、ね。そういえばそんな約束をしたかもしれない。
二年前の、冬と春の中間くらいの季節に思いを馳せる。
両親が海外赴任していた三年間、当時高校生だった箱根千里は親戚の家に居候させてもらっていた。
居候先には三人の家族が住んでいた。人のよさそうな夫婦と、その娘。小学校低学年のその女の子は千里を『兄さま』と呼び慕った。
高校卒業間際、両親が帰国したのを機に、千里は両親と共に箱根家に戻ることになった。
箱根家に帰る当日、女の子は母親と手を繋ぎながら「お別れしたくありません」と泣きべそをかいていた。妹同然に慕って、兄同然に慕われていた千里は胸が痛んだ。
――半年経ったらまた会いにくるさ。
泣きじゃくる女の子の頭をなでながら、千里は確かにあの日、そう約束した。
千里にとっては女の子を泣き止ませるための、その場しのぎの軽い口約束に過ぎなかった。年端もいかぬ小学生相手だから侮っていたというのもある。ところが彼女にとっては兄と交わした再会の証、かけがえのない約束だったのである。それこそ一人きりで特急列車とバスを乗り継いで、山奥の田舎からはるばる押しかけてくるくらいに。
よもやあの一言をここまで大事にしていたなんて、千里自身驚いていた。
「憶えていらっしゃったのなら、どうして約束を違えたのですか」
「忙しかったんだ、いろいろと。大学とかバイトとかさ」
詰め寄る更紗から逃れんと咄嗟に思いついた言い訳を並べるも、彼女は未だ納得しかねた面持ちをしている。いずれも自分との約束に比べたら取るに足らないものであると思っている様子である。千里は弱り果てた。
二年前のままの性格なら、彼女は納得できる答えを得るまで延々と追究(この場合は追及か)し続けるであろう。幼い顔立ちに似合わず、更紗は白黒はっきりつけないとすまない性分で、居候していた頃もたびたび千里を困らせていた。
大学の合間に酒屋のアルバイト。多忙な日々を送っているのは一応嘘ではない。
……二年前に交わした約束に関しては忘却の彼方であったが。
「もう二年も経ったのか。しばらく見ない間にずいぶんと大きく……なってないか、案外」
「二センチ伸びてます!」
頭をなでようとする手は更紗に払い除けられてしまった。
成長していることに気づいてもらえなかったうえ、幼い子どもに対応するような行為も癪に障ったらしい。機嫌を取ろうとしたはずが余計怒らせる結果となってしまった。
「兄さまもぜんぜん変わってないです。ずぼらでものぐさで能天気で無神経で軟派で」
仕返しとばかりに更紗は散々千里を罵った。自分の性分を端的かつ的確に言い表していたため、千里に反論の余地はなかった。むしろ自分のことをしっかり観察していることに感心すらしてしまった。
更紗は茶色のリュックサックに手を伸ばし、中から次々と荷物を取り出す。
普段着、寝巻き、歯ブラシ、櫛、教科書、ノート、筆記用具、文庫本、手のひらサイズの巾着袋、そして紫陽花柄のカバーを被せた枕。すべて取り出してみると、膨れていたリュックサックの容積その六割を枕が占めていた。唖然とする千里に更紗は「使い慣れた枕は遠出の必需品です」とまるで常識であるかのごとく言い張った。
「やっぱ俺の家に泊まるつもりなんだな」
当然です、と更紗は枕を抱きながら胸を張る。
「約束を果たしていただけなかったから自ら出向いたまでです」
「親御さんの許可は」
「了承済みです。もちろん、兄さまのご両親にも。どうぞ、母からの手土産です」
リュックサックの底から出した菓子箱を千里に差し出す。目的の品を見つけた更紗は再びリュックサックに荷物を詰めて、最後に紫陽花模様の枕で蓋をした。
果たして更紗の言い分を信じて菓子箱を受け取るべきか否か、千里は迷った。
家の電話が鳴る。千里が応答すると、折よくも相手は更紗の母親だった。
今日、更紗がそちらへ向かうということ、更紗の意向で千里『だけ』には秘密だったということ、無事娘は着いているか。そういったやり取りをした後に受話器を下ろすと、更紗が得意げな顔をして勝ち誇っていた。小さな身体に秘められた爆発的な行動力に千里は脱帽せざるを得なかった。
「納得していただけたでしょうか、兄さま。更紗とて今年で小学五年生。身勝手な振る舞いかそうでないかくらい心得ています。兄さまとの同居は互いの両親の合意の下なのです。ゴールデンウィークが終わるまでというのが不本意ですが、い、いずれはきっと」
更紗の頬が朱に染まるにしたがって声量が尻すぼみになっていく。
ここまで好かれれば男冥利に尽きる。
千里は肩をすくめた。