第2話:ふつつか者ですが(B)
「ひゃっ」
居間に上がるなり、更紗は短い悲鳴を上げた。
恐るおそる足を上げた更紗の靴下には、茶色い粘体がこびりついていた。最初は気味悪がっていた更紗も、隣にプリンのカップが転がっているのを見つけて正体を察し胸をなでおろす。それから犯人と疑わしき千里をにらみつけた。
「どうしてプリンが床にこぼれているのですか」
「玄関に出ようとしたときうっかりこぼしたのさ。悪い悪い」
「うっかり、ですか。なら何故片付けないのです。それ以前に、食べ物を直接床に置くとはどういう了見ですか。座布団も人が座るためのものであって枕として使うものではありません」
ぴしゃりと言い放ってから、更紗は二つに折られた座布団を元に戻しテーブルの下に敷く。千里が恐るおそる彼女の顔を覗くと眉間のしわが若干増えていた。
更紗がリュックサックを床に下ろす。かなり物を詰め込んでいるらしい。下ろしたときにどさり、と重量感のある音がした。服の両肩にはストラップの跡がくっきりと残っていた。リュックサックの中身と、これから起こるであろう展開を千里はなんとなく予想できてしまった。
「ぞうきんを貸していただけますか」
「確か台所の足元の棚、だっけか」
千里のおぼろげな記憶を頼りに更紗は台所へと赴く。
彼女はまた「兄さま」と千里を呼んだ。
「汚れた食器がシンクに浸かったままではないですか」
「おふくろはメシを食べてすぐ出かけたんだ」
「なら兄さまがやるべきでしょう。昼寝をしている暇があるのなら孝行のひとつでもしたらどうです」
「……もっともなお言葉で」
容赦の無い指摘に参った千里は寝癖だらけの頭を掻く。
シンクの前に立った更紗は袖をまくってスポンジと洗剤を手にする。
「俺がやるよ。更紗は――」
「結構です。兄さまに任せていられません」
――ずぼらなのは昔から変わらないんだから。私がいないと兄さまはすぐ駄目になってしまうんだもん。やっぱり兄さまには私がついていないと。さびしかったとか、そういうわけじゃなくて。
千里に対する文句(知らずしらずもらしてしまった本音も)をぶつくさこぼしながら、更紗はせっせと食器を洗いだす。ハの字に曲がった眉は未だ元に戻らない。
更紗の手の動きに合わせてシンクがみるみる泡立っていく。更紗が強い使命感を帯びて一生懸命に食器洗いをするので、千里はプリンがこぼれたままであるのを言いそびれた。
「兄さま!」
プリンを片付けようと千里が屈んだのを、寝そべろうとしたのと勘違いしたのだろう。更紗が声を荒らげたそのとき、力んだ手から泡まみれの皿が一枚こぼれ落ちた。
つるり。更紗の小さな手から飛び出す純白の大皿。
飛び出して、それから地球の物理法則に導かれるまま地面へと落下する。二人の視線がその行方を追う。更紗の反射神経が肉体に効果を発揮するよりも先に皿は床に落ち、音を立てて砕け散った。更紗が目を硬く閉じてすくみ上がった。
部屋が静まり返る。
更紗の足元には割れた皿。粉々になったそれはもはや本来の役目を果たせなくなったので『皿』というよりも『陶器の破片』と表現した方がより適切である。悲しくも、こうなってしまってはもはや後の祭り。
陶器の破片が散らばる床を見つめる更紗は呆然と硬直している。想定外の出来事に直面して脳の働きが追いついていない様子だった。千里もこの静寂を破ってはならないと本能で感じ取っており、微動だにしない。
数秒後、すべてを理解した更紗は表情をくしゃっと潰し、声を殺して大粒の涙を流した。肩を上下させ、とめどなく流した。
悔しさを隠そうと、更紗はうつむいて歯を食いしばり肩を震わせる。
「わ、私が兄さまをお助けしないといけないのに」
陶器の破片が涙に沈む。
気立てが良く生真面目でしっかり者。大人顔負けの賢さの持ち主。
しかしその実、おっちょこちょいで泣き虫な小学校五年生の女の子であることを千里は知っている。
更紗はさめざめと泣く。
二年ぶりに再会した更紗に、千里の知る二年前の彼女の輪郭が一致した。