第0話:ふつつか者ですが(E)
少女は床に両膝を立てると、三つ指をついて頭を下げた。
「兄さま。ふつつか者ですが、更紗をどうぞよろしくお願いいたします」
更紗――そう名乗った幼い少女は、三つ指ついた姿勢を保ったまま微動だにせず『兄さま』の返事を待っている。小学五年生の女の子がそのような作法を心得ていることに『兄さま』はどこか他人事みたいに感心していた。
おかっぱ頭の小柄な少女が大人の礼儀作法をがんばって真似る姿は、雛人形のようなかわいらしさがあった。
恭しく頭を下げる更紗を前にして『兄さま』は逡巡する。
どう返事をしたらこの状況を打開できるか、彼は先ほどから延々と考えあぐねていた。下手に前向きな返事をしてしまったら最後、それを何の口実に使われるかわかったものではない故に、どうしても言葉を選んでしまう。
「……まぁ、そう畏まるなよ。お互い気心の知れた兄妹みたいなものなんだからさ。ところで更紗、喉は渇かないか。ちょうどコーラが冷えてるんだが」
あれだけ泣けば喉も渇いたんじゃないか?
と茶化しそうになった自身の口を『兄さま』は慌てて押さえる。
「コーラ、ですか」
更紗は眉をひそめる。
「緑茶はありませんか」
「ああ、もちろんあるさ。それじゃあ居間に下りてお茶にしようか。更紗の持ってきた茶請けもあることだしな」
「はい……では、そういたします」
もっと気の利いた口説き文句を期待していたのだろう。歯切れの悪い返事をする更紗の背中を彼が強引に押して、二人は部屋を後にした。
廊下を歩くさなか、更紗が急に方向転換して彼の方へと詰め寄る。爪先立ちになり、華奢な腕を彼の首元へと伸ばし、内側に折れ曲がっていた襟を丁寧に正した。身なりの整った『兄さま』を見て、更紗は満足げに微笑んだ。
「やはり兄さまには更紗がいないといけませんね」
言葉の裏に隠された嬉しさを隠しきれていなかった。
これではまるで嫁入りだ。
彼も苦笑する。
――二年間疎遠だった更紗は今日、何の前触れもなく彼のもとに押しかけてきた。
時刻は現在より一時間ほどさかのぼる。