ときが経つのは早いもので。
ヴェナートが天恵を拒む。
それはヴァリアス帝国の、この大陸の、調和と均衡を崩すことに繋がった。
各所で報告が上がるその問題に対し、ヴェナートは目を瞠るような采配をしたけれども、陰ではヴェナートへの不信感が露わになり、ことあるたびに糾弾する機会が設けられた。
それでも、ヴェナートは口を閉ざし続けた。なにを言われても、なにをされても、ヴェナートは動じもしなければ怒号することもなかった。ただされるがまま、曰く「望まれる」まま、聖国の天恵がない君臨者としての姿を演じ続けた。
「シオン……」
ヴェナートは、さまざまなことに疲れると、なんの連絡もなくシオンのもとにふらりと現われる。どこからともなく現われるので、シオンにつく侍女や女官をよく驚かせた。露台の窓から入ってくることなどしょっちゅうだ。庭でお茶をしていれば必ず現われた。そこにシオン以外の誰がいようともかまわない。
シオンは黙って、そんなヴェナートを受け入れ、ときには求められるまま身を差し出した。ただ寄り添うこともあれば、激しく求められることもある。日がな一日、政務を放り投げてシオンのところに居座ることもあった。言葉もなく、囁きすらなく、ただヴェナートは「シオン」とシオンを呼ぶ、それだけのこともあった。
ヴェナートが「シオン」と自分を呼ぶ声が好きだった。「シオン」と呼びながら伸ばしてくる腕が好きだった。見つめてくる瞳が好きだった。
シオンにはヴェナートの嫌いな部分など一つもなかった。
愛している。
ただ、それだけだった。
「失礼いたします。シオンさま、陛下がいらっしゃいませんでしたか?」
「あら、ガラン。今日はまだ見ないわよ。そろそろいらっしゃるとは思うけれど」
「そうですか……では、こちらにいらした折りに、お戻りくださいとご伝言をお願いできますでしょうか」
「いいわ。急ぎ?」
「はい。お願いいたします」
その日は、朝にヴェナートを送り出してから、シオンはヴェナートの訪れを受けていなかった。しかし宰相ガランまでヴェナートを捜しているということは、もしかしたら朝から政務に顔を出していないのかもしれない。
「ウィード。ウィード、いる?」
シオンは露台に出ると、欄干に手をかけて騎士を呼ぶ。そろそろヴェナートが来るであろう時間であったから、ヴェナートのそばに常に控えているウィードなら近くにいると思ったのだ。
シオンが呼んでから少しして、ウィードは皇族私有地の森から顔を出した。
「なんだ」
「ヴェナはどこ?」
「そこにいる」
「そこ?」
ウィードが促した先、森の奥から、ヴェナートがゆっくりとこちらに向かって歩いてきていた。シオンの視線に気づき、どうした、と小首を傾げている。
「ガランが捜しているわ。急ぐそうよ」
「ああ……まだ終わらせておらぬか」
「終わらせる?」
「立太子だ」
思わずきょとんとしてしまう。もうそんな時期だったのかと、わたしはなにも聞かされていないのだけれどもと、驚いた。
「サライが、皇太子になるのね?」
「そうして余の退位を促すつもりらしい。言われずとも退位してやるというのに」
「ヴェナ、それなら行かなくては。ヴェナが行かなくては始まらないわ」
「面倒だ」
「駄目よ。ヴェナはまだ皇帝なの。退位するつもりがあるなら、サライを導かなくては」
帝位から退くつもりがあるのは本気だろう。盛大な式典になっているだろうその場に、ただヴェナートは行きたくないだけだ。嫌そうな顔がそれを物語っている。
「余を退位させたいのなら、さっさと終わらせて余にそれを迫ればよい」
「待っているだけではなにも始まらないわ」
「いずれそうなるであろうことだ」
「もう……わかったわ、わたしも一緒に行きましょう。サライの晴れ姿だもの。見ておきたいわ」
「シオン」
「あなたがなにを言おうと、誰がなにを言おうと、これでもわたしはサライの母親よ」
「やめておけ。そなたは」
「わたしは悲劇の皇妃などではないわ」
噂されているのは知っている。囚われた奥宮の妃として、シオンが予想もしていなかった方向へと自分のことが転がっていくのを、シオンは複雑な気持ちで眺めていた。そうではないと言おうとするたび、それはヴェナートに阻止されたが、ヴェナートがシオンを想ってそうしていたのはわかっている。
だからこそ、そのおかしな噂は払拭すべきだ。
「ユマ、着替えるからお願い。あと、陛下のお召しものも用意してちょうだい。そうね……対になる礼装があったはずよ」
「はい、シオンさま」
「ウィード、手伝ってちょうだい。まずはヴェナをこちらに連れて来て。それからヴェナを着替えさせて」
いたるところに葉っぱをくっつけているヴェナートを着替えさせるついで、どうせなら噂が噂でしかないものとなるように、シオンはまず衣装から印象つける方法を取る。
ウィードが嫌そうなヴェナートを引っ張って露台から入ってくると、シオンはユマに用意してもらった礼装に着替えるべく先に寝室に入る。久しぶりの礼装だが感慨に耽る暇もなく、ぱっぱと着替えてしまって戻ると、ウィードがヴェナートの上着を脱がそうと躍起になっていた。
「諦めが悪いわ、ヴェナ」
「行きたくない」
「わたしは着替えたわ。あとはあなたよ」
「行きたくないと言っている」
「あなたはいつも白いものをお召しだから、上着を変えるだけでいいのよ? 面倒なんてどこにもないわ」
「シオン」
「さあヴェナ、わたしは息子の晴れ姿を見たいだけなの。見るだけだもの、いいでしょう?」
上着を脱がされまいと抵抗していたヴェナートが、ぴたりとその抵抗をやめる。じっとシオンを見つめると、ふと、その瞳が和らいだ。
「……あれは、そなたに似ている」
「あら、そうなの? この頃あの子も忙しいみたいで、わたし、滅多に逢えなくなってしまったのよ。サライはわたしに似ているの?」
「似ておる……そなたに似てよかった。疎まれずに済む」
「……わたしは、あなたに似て欲しかったと、思うのだけれど」
「やめておけ」
式典の場に行くことを観念したわけではなさそうだが、動きが止まったヴェナートにこれは幸いと、ウィードが上着を脱がせる。そのままでいろよ、という無言の懇願があったので、シオンはヴェナートが着替え終えるまでその瞳を見つめ続けた。恥ずかしくはなかった。むしろ見惚れた。シオンにとってヴェナートは、どこまでも愛する人だ。いつ見ても惚れ惚れする。
「行ってもいいぞ」
と、ウィードが言うまで見つめ合った結果、ヴェナートは勝手に着替えを終わらせられていた。嫌そうで不服そうな顔が、うんざりとした手つきで、金糸と銀糸のみの装飾が施された鮮やかな上着を摘まむ。式典の際にはこういった衣装を身にまとうのだが、夜会でもなんでも、その手の行事には少ししか顔を出さないヴェナートは、もちろんその衣装を長く着ていることもない。
シオンは微笑んだ。
「素敵ね、ヴェナ」
「…………」
「見て。わたしと対になるのよ。これに袖を通したのは久しぶり……あなたと並んで歩くのも、とても久しぶりだわ」
公式的な場に、シオンはあまり出ない。産後からずっと、体調が思わしくないせいだ。無理をするなとヴェナートに止められ、医師からも無理はいけないと言われている。だからこれまで、側妃とのお茶会さえも、数えるほどしか開いていない。
「つくづく、そなたは変わっている」
「そうかしら」
「余の隣など、そなた以外は並ぼうともせぬ。嬉しそうなのはそなただけだ」
「わたしはいつでもヴェナの隣にいるわ。いたいのよ」
「シオン」
「はい」
それはそっと、気遣うように、伸ばされた腕がシオンの腰を引き寄せる。
「無理はするな」
すがるような仕草がいとしい。共に狂おうと言ったくせに、それでもシオンを護ろうとする姿がいとしい。
「あなたがいるもの」
そう微笑んで、シオンはヴェナートと歩きだした。
皇子が立太子する式典の場は、シオンも本来なら立ち合うべきものだったようで、ただヴェナートがシオンには伝える必要がないと差し止めていたようだった。
皇帝、皇妃、揃っての登場に、式典を始められずに困っていた者たちは初め驚いていたが、ヴェナートがシオンを護るように歩いている姿や、シオンがヴェナートに寄り添って歩く姿にも、驚かされたようだった。控えていた皇子サライも、驚きながら、しかし嬉しそうに笑い、お久しぶりですね母上と、そばに寄って来た。
「来ていただけるなんて、嬉しいです」
「随分と大きくなったわね、サライ……なんだかわたし、一気に老けたように思うわ」
「母上はいつまでもお若く、お美しいですよ」
ついこの間まで赤子だったのに、いつのまにか息子は大きく成長していく。ときが経つのは早いものだ。
この場にはいない、いや、公式的にも存在しないことになっているふたりめの息子も、こんなふうに育っているだろうか。
立太子の式典は、おもにヴェナートのせいで始まりが遅れたが、その後は滞りなく進む。
ヴァディーダの名を冠した息子は、それはもう華々しく、揃った上位貴族たちを期待させていた。