望まれぬこと。
後宮が開かれても、ヴェナートの態度が変わることはなかった。相も変わらず、時間に隙をみてはシオンの許を訪れ、戯れのように転寝をして、仕事へと戻っていく。シオンはなかなか床上げすることができず、入宮したという側妃とのお茶会など開けようもなく過ごしていたので、ヴェナートはそれを理由に側妃の許へ通っていないようだった。一度だけ遠回しに側妃の許へ行くよう進言してみたが、いやそうな顔をしただけでヴェナートは返事もしなかった。昼間にシオンの許へ訪れるヴェナートは、夜を側妃と過ごす、という気にはならないらしい。それはシオンに、少しばかりの喜びを与えた。
そして、シオンの手を離れて乳母に育てられている第一皇子サライは、すくすくと元気に育っている。ときおり見舞ってくれる息子の笑顔を見るたび、シオンは一度も逢っていないもうひとりの息子を思い出した。心配などされたくはないだろうが、たとえヴェナートと同じ道を選んで進んでいても、今ここにいないもうひとりの息子もシオンの子だ。多少の心配はある。サライと同じようにすくすくと育ってくれていますように、それがシオンの願いだ。
「天恵者であることを、否定しているようだ」
あるとき、ウィードが唐突に言った。
「なんのことだ」
もちろん疑問に思って問い返したのは、ヴェナートである。
「ルーフが赤い」
「白いところなど見たことがない」
「本来は白いと教えたはずだ」
「見たことがない」
ヴェナートとウィードのやり取りは、そばで聞いているとため息をつきたくなる。会話が成立していることが、とても不思議に思えてくるからだ。
「おまえ、まだ見たことがないのか」
「あれば言っている」
「……それが答えだ」
「意味がわからない」
「おまえは心配されている。同じように、離宮の皇子も心配されている」
「……ルーフに心配されようがされまいが、余になんの関係がある」
「おまえは天恵者だ」
ウィードの朝焼けの双眸が、じっと、なにかを待つかのようにヴェナートを映し出す。それでも、ヴェナートの表情は変わらない。
「余は只人だ」
ヴェナートは否定する。いくらウィードがその言葉を待っても、シオンがそうしているように、ヴェナートは自身に現われた天恵を否定し続けている。
「なぜ?」
「余はそう望まれた。今さら望まれぬことをする気はない」
「調和が乱れている。それを、放置するというのか」
「それが望まれたことであろう」
「悲鳴が聞こえるだろうに?」
「聞こえぬ」
ふいと、ヴェナートはウィードから視線を反らし、黙ってふたりの会話を聞いていたシオンのもとへと歩み寄ってくる。
このところずっと寝台のお世話になっているシオンは、背中にたくさんの枕を置いて身を預けている状態だ。今朝はいくらか調子もよくて散歩もしたが、昼食を過ぎると身体を支えていられなくなった。午後の休憩に訪れたヴェナートを迎えたときは、寝台を離れようとしてその前に寝室にヴェナートが入ってきたため、けっきょく寝台の上にいる。
ヴェナートは寝台にいるシオンのもとへくると、腰かけてシオンの頬に手のひらを伸ばしてきた。
「寝ろ」
「……無理だと思うけれど」
「ウィードのことなら気にするな。あれは、空気だ」
「それはひどいわ」
「それ以外の価値はない」
ヴェナートはウィードを、人として扱わないところがある。そばにいて当たり前だと思っているせいだろう。近くにあり過ぎると、人は、それが見えなくなってしまうこともあるのだ。
「ヴェナート、話を反らすな」
「なんの話だ」
「天恵」
「余には関係ない」
「離宮の皇子」
「そんなものは知らぬ」
「……それでいいのか、ヴェナート」
少しだけ、いつも無表情のウィードが、顔色を曇らせた。
だが、それでも、ヴェナートはウィードに向けた顔を、変えることはなかった。
「余は望まぬ。望まれぬことを、望むなど、無意味だ」
愛情、というものを、ヴェナートはよくわかっていると思う。愛さないのでも、愛せないのでもない、そういった感情を抱くことこそが、つらさや虚しさを生むのだとわかっている。
だからヴェナートは、シオンとの間に産まれたふたりめの皇子に、一切の愛情を向けようとしなかった。殺そうとしていたくらいだ、それは当然だろう。
「差別だと思わないのか」
「なにを」
「皇子には目をかけ、離宮の皇子には見向きもしない」
「世継ぎを育てろと言ったのはおまえだ」
「離宮の皇子も世継ぎだ」
「ふたりも要らぬ」
「同じ天恵者だ。皇帝国主の」
「ひとりで充分だ。こんな……忌々しい力など」
漸く、ヴェナートの無表情にも、僅かな変化が見られた。
握られた拳を見て、シオンはそっと、その拳を両手で包み込む。ちらりとヴェナートが視線を寄こしたが、なにも言わなかった。だからそのまま、ひんやりとしている拳を温かく包んだ。
「自覚はあるのか」
ウィードからの問いに、ヴェナートは目を細めた。
「その力の、その刻印の、及ぼす影響に、自覚があるのか」
「……そなたは余になにを求めている」
「おれは《天地の騎士》だ。おまえの、イディアードの、ディバインだ」
そのとき、ウィードの言葉になにを思ったのか、ヴェナートがひどく遠くを見るような目をして、ウィードを見つめた。
「ウィード・ディバイン。おまえがおれに、そう名づけただろう」
「……そなたはイデアの騎士だからな」
「違う。おまえが、おれに、そうなれと言ったんだ」
「そなたも可哀想な騎士だ。イデアがおらぬ今、余に、仕えねばならぬ」
「違う!」
珍しいウィードの怒声に、ハッと目を丸くしたのはシオンだけだ。声を荒げるウィードなど、誰も見たことがない。いや、ウィードを感情的にするのは、いつでもどんなときでも、ヴェナートただひとりだけだ。
「……そんな顔をするくせに、なぜ……なぜ」
ふと気づけば、ヴェナートは俯いていた。どんな顔をしているかなんてわかるはずもないのに、シオンには見えないなにかが、ウィードは見えているのだろう。
「イデアを殺したのは余だ」
「そうではないっ」
「同じことだ」
シオンが包んだ拳が、僅かに震えている。唇を噛むと、シオンは自ら身を寄せて、ヴェナートの背に寄り添った。
ウィードが悔しそうに舌打ちする。己れの心が、ヴェナートに届かないとわかったのだろう。けれどもそれも仕方のないことだと、思ったのだろう。
「天恵を認めろ、ヴェナート……でなければ、おまえは苦しいばかりだ」
「……それが、余の選んだ道だ」
「壊れることなど初めから望んでいたわけではないだろう!」
「望まれたのだ、余は。皆から、国から、すべてから」
ゆっくりと身体を揺らしたヴェナートが、寄り添ったシオンに応えるように、身を預けてくる。シオンの頭部に、己れの頭部をこつりと当て、長いため息をついた。
「なあ、シオン……余は、狂いを求められた」
ヴェナートは諦めてしまった。なにかに期待することを、なにかを求めることを、なにかが変わることを、すべてを諦めてしまった。
今ヴェナートにあるものは、当然だとされているものだけ。
「余には、そなたがおればよい」
伸びてきた腕に攫われて、シオンは抱き竦められる。戯れのように伸ばされたそれは、シオンを当たり前のように扱いながら、揺るぎない愛情を感じさせた。