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語られることなく、伝えられることなく。





 執務中であるはずの夫、皇帝となったヴェナートがふらりと姿を見せたとき、シオンは寝室で休んでいた。産後の経過が悪く、どうも体調が思わしくなかったからだ。


「シオン」


 ふらりと現われたヴェナートは、どこか心あらずで、しかしシオンを呼びながらきちんとした足取りでシオンのもとへ来ると、寝台に腰かけた。


「お忙しいのではなくて?」

「それなりだ」

「そう。こんな時間に、いったいどうしたの?」

「……シオン」

「はい」

「側妃が送られてくる」


 一瞬、シオンは息を詰める。だがすぐに気を取り直した。


「では、後宮が開くのですね」


 ヴェナートは皇帝だ。すでに世継ぎたる第一皇子サライがいても、それとは関係なく、政治的なものが絡んだ縁談がくる。今までシオンしかいなかったことのほうがおかしい。それはシオンもわかっていた。


「いやか」

「よい気はもちろんしません。けれど、必要なことなのでしょう?」

「そうだな……」


 面倒だ。ヴェナートはそう小さく呟いて、後ろに倒れる。ちょうどそこにはシオンに膝があって、枕にされた。


「ヴェナ?」

「疲れた……眠らせろ」


 ごろりと、無造作に寝転がったヴェナートは、シオンが上着の心配をしても動かず、むしろ心配するなら自分にしろと言い、強引に眠る体勢に入った。


「上着が……ヴェナ、お脱ぎになって。皺になるわ」

「眠らせろと言っている」

「それはかまいません。けれど、また仕事に戻られるのでしょう? 皺だらけの上着なんて」

「うるさい」


 もう黙れ、と急に身体を起こしたヴェナートは、シオンの口を手のひらで覆い隠すとそのまま押し倒してくる。一緒になって寝台に寝転がってしまった。


「ヴェナート……わたしが病人だとわかっていて?」

「だから黙れと言っている。いいから眠らせろ。疲れた」


 これ以上は喋らせてくれるなと、ヴェナートはシオンの胸元に顔を埋めてしまうと動かなくなる。

 疲れているというのは本当だろう。シオンが諦めておとなしくしていると、すぐに寝息が聞こえてくる。


「……今日もまた、叩かれたのね」


 シオンはそっと手を伸ばし、ヴェナートの淡い金の髪を梳く。眠っているときだけは歳相応の顔をする夫は、シオンの少しばかり豊かな胸に満足している様子だ。


「妃殿下」

「……ガラン、そっとしておいてくださる?」


 来ていることには気づいていたが、ヴェナートが空気で存在を抹消させていたガランは、寝室の手前でずっとヴェナートの様子にやきもきしていた。漸く声をかけられる、と思ったのだろうが、シオンにはヴェナートの眠りを妨げる気がない。素っ気なくすると、ガランは肩を落としてすごすごと姿を奥に引っ込めた。

 これで、ヴェナートの眠りを妨げられるとしたら、その者はシオンだけになる。


 そう、思ったのだけれども。


「一緒に眠るなよ」


 ヴェナートの眠りに引き摺られてうとうととしていたら、無理やりそれを起こす声に引っ張られる。


「……あなた」


 ヴェナートを気遣わない声にムッとしながら、シオンはゆっくりと身体を起こした。勝手に窓を開け、欄干に腰かけた青年を、睨むように見つめる。


「ウィード」


 艶やかに反射する濃い金の髪、嘲笑うような朝焼けの双眸、それは笑うことも忘れた壊れた人形のように、ただそっと静かにこちらを見ている。

 その青年はウィード。

 本名は知らない。皆が彼をウィードと呼ぶ。だからシオンもウィードと呼んでいる。ただ、いつも壊れた人形のようだと、思う。


「なにか、用かしら?」

「一緒に眠るな、と言った。その耳は飾りか」


 ウィードの声は、眠るヴェナートに気遣いがない。それはシオンを不愉快にさせたが、それ以上に、ウィードがシオンの前に現われるという珍しい事態に、かなり驚かせられる。


「ヴェナが起きてしまうわ。声を抑えて」

「必要ない。眠れと言ったのはおれだ」

「……あなたが?」

「そんな顔でうろちょろされると、困るからな」


 ヴェナートの寝不足を指摘したウィードは、その身分は近衛騎士だが、ヴェナートの目や耳になることもしばしばある。いつからヴェナートがそばに置き始めたのか、それはシオンの知るところではないが、随分と長くいるようで、シオンやガラン以外に唯一ヴェナートの状態を把握できる騎士だ。


「……よほどひどく、当てられたのね」


 いつもはシオンに話しかけもしないウィードが、わざわざ姿を見せてそれを教えてくるほどに、ヴェナートは糾弾されたのかもしれない。


「サリエ・ヴァラディン」

「え……?」

「サリヴァン、と……名づけられたぞ」


 僅かばかり呆けたシオンは、ハッと息を呑む。


「あの子が……?」


 つい最近まで、この身に宿していた命。産み落としてのち、逢うことも許されぬまま、連れ去られてしまったわが子。第二皇子として、育てられていくはずだった息子。


「サリヴァン、と……いうの、ね」

「殺そうとしただろう」


 グッと、シオンは顎を引く。言葉に詰まって、思わずウィードを見つめてしまった。


「貴族はそれを叩いた。サライのほかに、皇帝国主の天恵を持つ皇子だ、当然だな」


 シオンは眉をひそめて俯くと、強く拳を握った。


「……言い訳をさせてくれるかしら」

「おれに言っても意味はない」


 拳が震える。身体が慄く。

 ヴェナートが選んだこと、シオンが口を噤んだこと、それらは罪だ。罪だとわかっていながら、それでもなお前へ進んでいる。そこに後悔はない。


 けれども。


「それでも、誰も聞くことがなくても、一度でいいから言わせてちょうだい」


 ただの自己満足、身勝手な都合であっても、罪の意識に苛まれて心が挫けそうになることを許して欲しい。

 子殺しをしようとした、その事実は覆せないものだけれども。


「なんだ?」


 聞いてくれるらしいウィードに、シオンは息を震わせる。


「サライの左腕に、あの子の右腕に、刻印は出た。それはまるで、ヴェナとイデアと、同じなのよ」

「……なんだと?」


 大げさではないかというほどに瞠目したウィードに、シオンは空笑いする。


「ヴェナから聞かされなかったのかしら?」

「聞いてない。おい、その言葉の意味、わかっているのか」

「もちろんよ。なぜなら、イデアの左腕に刻印があったように、ヴェナの右腕にも、刻印があるもの」


 それは誰も知らない事実。シオンだけが知る、真実。


「ヴェナートにはないとされていたはずだ。本人もそう言っている。いったいどういうことだ」


 ウィードにも知らないことがあるのだと思うと、なんだか不思議だ。ヴェナートの傍らで、あらゆる情報を握っているはずのウィードも、さすがにヴェナート自身のことは知るに難しいことだったのだろう。


 腰かけていた欄干から身体を離し、歩み寄って来たウィードは、壊れた人形にしては珍しく混乱したような顔をしていた。


「説明しろ、シオン。それは、いったいどういうことだ」

「ルーフの花よ」

「? それは刻印の模様だろう?」

「赤く、咲くの」


 国花たるルーフの花は、白く咲く。それは誰でも知っていることだ。そして、白くしか咲かないルーフの花が、まれに、赤く咲くこともあると、誰もが知っている。


 本来は白くしか咲かないルーフの花が、赤く色づくとき。


「……そういえば」

「なにか思い当たるかしら?」

「ヴェナートが通る道には、赤いルーフしか咲かない」

「それを、ヴェナが起こしている事象だと、誰もが信じないだけよ」


 白いものが、赤く染まるその事象を、人々は「天恵者の身を案じての、天地からのお告げ」だと言う。ルーフの花は、天恵者を心配して、その身を染めて注意を促すとされているのだ。


「そしてヴェナは、ルーフの花が本来は白いと、知らなかったそうよ」


 ヴェナートは幼い頃から、赤いルーフの花しか見たことがなかったという。白く咲くのだという事実を、それが当たり前だということから、誰もヴェナートに教えなかったのだ。


「いつ、それに気づいた」

「ヴェナの右腕に、刻印が現われたときよ」

「それはいつだ。おれは知らないぞ」

「イデアが死する、直前のことよ」

「……最近だと?」

「だからイデアは死んだの。ヴェナの愛を、永遠に自分のものにするために」


 愕然としたように、ウィードはシオンを見つめてくる。いつでも淡々とし、機械人形のようなウィードのそれは、そんな姿など一度も見たことがなかったシオンを不思議にさせる。


「……おれが駆けつけたとき、イディアードはすでに死んでいた」

「あなたまで、ヴェナがイデアを殺したと言うの?」

「違う。真実がわからなくなった。ヴェナートの真意も、イディアードの真意も、まるでわからなかった。ふたりは、周りは犬猿の仲だというが、そんな姿など誰にも一度も見せたことがない。周りが勝手に噂立てていることだ。だからふたりになにかが起こるなど、あり得なかった」

「けれど、実際には、起きたわ。イデアは死んだ。本当に、ひどい人よ」

「どういうことだ。いったいなにがイディアードを……」

「わからないの?」


 シオンよりずっと近くで、いつもヴェナートを見ていたくせに、意外にもウィードの目は節穴だ。


「だからヴェナは、あの子を……サリヴァンを殺そうと思ったのよ。自分たちのように狂わせるくらいなら、今ここで消えてしまったほうが、幸せだもの」

「……それが、子殺しをしようとしたことへの、言い訳か」

「ヴェナを狂わせ、イデアを狂わせ、人を振り回す……そんな天恵があるから、ヴェナが、苦しむのよ……っ」


 皇帝国主の天恵が、どれほどその影響力をもたらすことか。天恵がない、刻印がない、只人である、そんな当たり前のことが異質とされ、異分子とされ、異形とされるこの王城で、ヴェナートは生きていくしかなかった。どれほどつらかったことだろう。どれほど悲しかったことだろう。只人であることは当然なのに、それを許されない環境の中で生きるしかなかったヴェナートに、いったいなにができただろう。


「ヴェナは、平穏を、望んだのよ……っ」

「……それは知っている」

「多くの重圧を背負いながら、それでもなお、ヴェナは皇族であろうとした…っ…仕方ないわ、皇族だもの、それ以外のなに者にもなれない。けれどそれが、ヴェナを、苦しめるの……っ」


 今はただ静かに眠るヴェナートに、シオンはよりいっそう身を寄せる。シオンが身を起こしていたことで肌寒かったのか、応えるようにヴェナートはシオンを引き寄せた。


「どうするつもりだ、シオン」

「これは罪よ」

「罪?」

「そう、この国の罪。だから言わない。ヴェナも、きっと、永遠に口を噤むでしょう」

「それこそが罪だとしても、か?」

「噤むわ」


 けして、誰にも、言わない。教えてなるものか。その苦しみも知らず、つらさも悲しさも知らぬ者たちに、幸せを与えるつもりはシオンにはない。それが罪となっても、これはシオンが選んだことだ。


 ヴェナートが皇帝国主の天恵授受者であること、それはシオンと、ウィードだけが知る。

 誰にも語られることなく、伝えられることなく、幕は閉じられるだろう。


 それでいい。

 その道を生きることが、ヴェナートとシオンの、狂ったことへの答えだ。


「ウィード」

「……なんだ」

「あなたとガランだけは、信じて」

「なにを?」

「ヴェナが家族を愛しているということを」


 ヴェナートとシオンを狂わせているのは、国という組織。

 ここで生きるしかない者たちの、それは必然たる道筋。


「語られることのない真実が、確かに存在したということを」


 懇願するようにウィードに言うと、ウィードは数秒ほど口を閉ざし、そののちゆっくりと息をついた。







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