この世界の残酷なこと。
モルティエ・ウェル・メルエイラはその日、爵位の降格を言い渡された。若き皇帝からの一方的な宣言で、侯爵から伯爵へと貴族位を落としたのである。モルティエはそれを享受した。それだけで済まされたのは奇跡にも近しかった。
ただ、モルティエには思うことがあった。
「なぜ、そこまでなさるのですか」
モルティエは項垂れつつも、全身で、両腕にしっかりと抱きしめた赤子を護る。モルティエに一方的な宣言をした若き皇帝、ヴェナートは、そんなモルティエに一瞥をくれることもない。そっぽを向いたまま、こちらに意識を向けようともしない。
「産まれたばかりの殿下には、なんの罪も、ございませんでしょうに」
モルティエが腕に抱く赤子は、先日、皇妃シオンが産み落とした第二皇子だ。シオンの面影をそのまま写したかのような、愛らしい皇子である。
「赤子に罪はないと、陛下も御承知でありましょうや」
泣きもしなければ笑いもせず、ただあるがままにおとなしく呼吸する赤子には、誰だって手を差し伸べたくなるだろう。その誕生を、誰だって喜ばしいと思うだろう。
だが、そんな雰囲気に包まれることなく、第二皇子の誕生には緊張が走った。
「二つと要らぬ」
漸くモルティエに意識を向けたヴェナートは、しかしそっぽを向いたままモルティエを見ることはない。
「要らぬとて、陛下のご子息でありましょうや」
「要らぬものは要らぬ」
ヴェナートとの会話は平行線を辿る。
己れの息子で、ヴァリアス帝国の第二皇子でもあるというのに、いったいどうしてそれを要らぬと言えるのか、モルティエにはわからない。
モルティエには現在、息子と娘がひとりずついる。可愛くて仕方のないわが子たちだ。自分によく似た息子と、妻によく似た娘、産まれたときはとても喜んだものだ。
それなのに、同じ父親という立場にあるはずのヴェナートには、それがない。
理由は明白だ。
「殿下に、皇帝国主の天恵があるとて、それは殿下が真に陛下のお世継ぎであることでありましょうや」
「サライだけで充分だ」
「だとしても」
「うるさい。余は、要らぬと言っているのだ」
「陛下!」
「いい加減にしろ、モルティエ。爵位を剥奪されたいのか」
産まれたばかりの第二皇子を庇い建したという罪で、降格を宣言されたばかりの身だが、剥奪というのはもはや、モルティエには効力がない。もともとモルティエの一族は生粋の貴族ではなく、先代の時分に腕を買われて爵位を与えられているのだ。降格も剥奪も、さして変わらない。恐れるところではない。
「貴族位など返還いたしましょう。それで陛下が考えを改めてくださるのなら、これほど嬉しく思うことはございません」
子殺しをしようというヴェナートの、その意思を挫けるのならと、そう思っての言葉は、しかしヴェナートには通じなかった。
「つまらんな」
ただ一言そう呟き、あっさりと前言を撤回してしまう。考えを改めるほどの価値もないと、そう言っているようなものだ。
「なぜ…っ…なぜですか、陛下」
悔しい。ヴェナートにわかってもらえないことが、生命の誕生を喜んでもらえないことが、悔しくて悲しい。
ヴェナートの御世になって一年、万全ではなくとも順調に国は動いた。ヴェナートに皇帝国主の天恵がなく、その刻印を身に宿していなくとも、ヴェナートは確かに皇帝国主で、間違いなく賢帝だ。
だのに、なぜ。
なぜ。
産まれたばかりの第二皇子に皇帝国主の天恵が、その刻印が受け継がれたことを、どうしてここまで拒絶するのだろう。
「この御子は、あなたさまの…っ…シオン皇妃さまの、御子でしょうや」
なんであれ、己れの子であるのに、どうして拒絶するのだろう。
「サライ殿下と同じく、ただひとりの、御子でしょうや……っ」
産まれたばかりの子に罪はない。その業は子のものではない。それはヴェナートも身をもって知っていることだろうに、どうしてそれをわが子にまで背負わせようとするのだろう。
「……モルティエ」
ふと、ヴェナートに呼ばれる。悔しくて俯かせていた顔を上げれば、ヴェナートの視線を正面から受け止めることになった。
「余は、望まぬ。余が望まれなかったようにな」
碧い双眸は、その言葉に、すべての心を注いでいた。
「だから要らぬのだ、それは」
陰った双眸に、モルティエははっと、瞠目する。同時に、じわじわと、深い悲しみが込み上げてきた。
「陛下……っ」
「余には言えぬ」
許せ、と。
口にはできない代わりに、ヴェナートの双眸は語る。
それを言えないヴェナートは、モルティエの目から逃れるように背を向けると、上着の裾を捌いて部屋を出ていった。
「なんという…っ…ことだ」
この世界の無常を嘆きたい。
素直な心を曝すことも、吐き出すことも、思うことさえも圧し殺されてきたせいで、もっとも救われなければならない人が、許されないことを強いられる。
なんという残酷さだろう。
この世界は、この国は、残酷なことを彼に強いる。
「殿下……どうか、恨まないでください。嘆かないでください。あのお方は、そう生きるよう、強いられているのです。ですからどうか……どうか」
願わくは、この残酷な世界が、永久ではないことを。
いつか必ず、報われることを。
幸、多からんことを。
モルティエには、それを祈り、願うことしかできない。
「メルエイラ候……いえ、メルエイラ伯」
あるじが立ち去っても残っていた側近、今や宰相となったガランが、心配げな声でモルティエを呼ぶ。跪いていたモルティエは、ゆっくり立ち上がると腕の第二皇子を抱え直し、ガランを見据えた。
「アークノイル宰相……どうか貴殿だけは、あのお方と共に在ってください」
「……メルエイラ伯」
「わたしには、やることがあります。わたしにしか、できぬでしょう。ですから……っ」
この想いを理解して欲しい。
誰も、不幸など願ってはいないのだ。
「わたしは、ヴェナートさまと共に在るだけです。シオン妃殿下が、そうお決めになられたように」
モルティエの言葉を聞き届けたガランは、そう言って深く頭を下げると、ヴェナートがそうしたように部屋を出て行った。
ひとり残ったモルティエは、腕の第二皇子を緩やかに揺らしながら見つめ、その心を決める。
「あなたを猊下の御許へ、お連れいたします」
それがこの世界の残酷なことを、終わらせると信じて。
*このあとモルティエはなにをしたか。
【仮初めの皇帝、偽りの騎士。】の番外編『Plus extra : 聖王の眷属。』を読んでいただければ、おわかりになるかと思います。