ゆるされない。
その日はなにか波乱が起こるような、そんな前触れなんてなかった。いつもの寧日、そう思っていた。
「シオン義姉さん」
と、呼ばれて、シオン妃は眺めていた庭園から視線を背後へと向ける。
「イディアード殿下……」
「イデアでいいですよ、義姉さん」
夫の弟、第二皇子のイディアードだ。イデア、と皆から愛称で呼ばれ、誰よりも愛されて育った心優しき青年である。
「隣、いいですか?」
「……ええ」
この時間は執務中であるはずだが、と思いながらも、シオンは座っていた石椅子の隣を空ける。腰を落ち着かせたイデアは、それまでシオンがそうしていたように、淡い笑みを浮かべながら庭園を見やった。
「兄さんとは、どうですか」
「……どう、とは?」
「上手くいっているか、ということです。兄さんはちょっと冷たいところがあるから……みんな心配しているんですよ」
傍目からはどう見えているのか知らないが、イデアの言葉を解釈するなら、よい関係が築かれているとは思い難いようだ。
「だいじょうぶですよ」
「本当に?」
「ええ」
「……僕らの心配は無用って、そういうことかな」
「心配されるようなことはありませんもの」
どんな心配をされていようとも、それはシオンには無意味なことだ。だが、それをいくら口にしても、おそらくは誰も信じない。こうしてイデアがわざわざ訊いてくるくらいには、夫たる皇太子ヴェナートの態度は常に酷薄だ。
「義姉さんは、兄さんが好きですか?」
「お慕いしております」
「それは本当に信じてもいい言葉ですか?」
「なにをお疑いですの? わたしは望まれて、望んで、嫁いだというのに」
くすくすと笑えば、疑いの眼差しをシオンに向けていたイデアが、しばし沈黙して見つめてくる。
「義姉さん」
「はい」
「僕は、兄さんに嫌われています」
知っている。けれども、不器用な夫は、それでも愛している。忌み嫌いながら、それでも家族を、愛しているのだ。
「わかっているんです。僕が、みんなの愛を兄さんから奪ったから……僕が皇帝国主の天恵を持っているから……だから兄さんは、僕が嫌いなんです。でも僕は、兄さんが好きです」
それも知っている。この兄弟の因縁は、どうしたって修正できるものではないことも、シオンは知っている。
皇帝国主の天恵。
それはこの聖国、ヴァリアス帝国の皇帝となるために必要となる、神の恩寵。
世界の調和と均衡を司り、柱となる、大きな力。
イデアに与えられ、ヴェナートには与えられなかったもの。
今はヴェナートが担っているものの、いずれはイデアがその座に就き、皇帝となるだろう証。
「こんなもの……僕は要らなかった」
イデアは右手で左腕を強く握り、そこにある天恵の刻印に顔をしかめた。
その刻印があるから、イデアは誰よりも愛されて、皆に祝福されて育った。だがそれは、イデアにとって重圧であっただろう。刻印のないヴェナートが、イデアとは逆に、蔑まされて育ったのだ。それを目の当たりにして、平然としていられるイデアではない。
だからヴェナートは、心を閉ざした。兄を庇おうとする弟に、背を向けた。それがヴェナートの愛し方だった。
ヴェナートの愛し方は、イデアには理解できないだろう。シオンにだって、理解できない。それでも、そんなヴェナートだから、シオンは惹かれた。
「あなたを苦しめたいわけではないのよ、あの人は」
苦しめたくないから、心を閉ざし、背を向ける。それは無関心であって欲しいと、そういう願いだ。
「けれどあなたは、苦しいのね」
イデアはヴェナートの願いを受け入れたくないらしい。自ら苦しむ選択をし、それでもなお、ヴェナートの背を追い続けたいのだろう。
わからなくはない。
「あの人を愛しているのね」
シオンが愛しているように、イデアもまた、兄として愛している。
歯痒いことだ、と思った。
想い合っているのに、その想いを伝えられず、伝えることを許されない。
「知らなかったんですか、義姉さん。僕は、兄さんを愛していますよ」
ふっと微笑んで言ったイデアに、シオンも微笑んだ。
「知っているわ」
伝え合い、素直に想い合うことができたなら、なにもかも変わっていただろう。
たとえばそう、ヴェナートが狂う未来なんて、こない。
イデアがこれから迎える未来なんて、こない。
「義姉さんにだけでも言えて、よかった」
立ち上がったイデアが、両腕を天へと伸ばし、グッと背を反らせて息を深く吸い込む。吐き出しながら腕を下ろすと、シオンを振り返った。
「お別れです、義姉さん」
シオンは目を細めて、寂しそうに微笑む義弟を見つめる。
「わたしはあなたを止められない。あの人のことも」
「仕方のないことです。これが僕の……いえ、僕らの運命なのでしょう。けれど僕は、兄さんを諦めるつもりはないですよ」
「あの人を連れていくの?」
「僕だけ、なんて……寂しいじゃないですか」
だから許してくださいね、とイデアは言った。シオンは微笑んで、首を左右に振った。
「いいのよ。わたしはあの人についていくだけ。仕方のない人たちだわ」
「……巻き込んですみません、義姉さん」
「謝る必要なんてないわ。だってわたしは……あの人の妻ですもの」
だからいいの、と繰り返すと、イデアは困ったように笑った。
「敵わないなぁ、シオン義姉さんには」
そう言って、イデアはシオンに背を向ける。
「では、僕はお先に。あちらで待っていますね」
ばいばい、と後ろ背にシオンへ手を振りながら、誰からも愛される飄々とした義弟は立ち去った。
その背中が深い緑の自然に紛れると、シオンも座っていた椅子を離れる。頬を撫でる風も、身体を包む陽光も、いつになく優しかった。穏やかな日だった。
それが嵐の前の静けさ、というものだったのかもしれない。
その日の夜。
皇帝の証たる天恵を与えられていた第二皇子イディアードは、死んだ。
亡骸の傍らにいたということから、皇太子ヴェナートにその嫌疑がかけられたのは言うまでもない。しかしイディアードの死の真相はヴェナートから語られることなく、明かされることはなかった。
ただひとり、シオンを除いては。
「ヴェナ……」
「……イデアが死んだ」
「聞いたわ」
「そなたも巻き込まれたな」
「それでいいのよ」
「……そうか」
シオンのもとに戻ってきたヴェナートは血塗れだった。けれども、確かに、その手のひらは赤く染まっていなかった。
「……シオン」
「はい」
「余は、狂わねばならぬらしい」
「……では、わたしも狂いましょう」
血に汚れていないヴェナートの手のひらを、シオンは両手で包み込んだ。
「だから、泣いていいのよ、ヴェナ」
「…………」
「悲しいわね、ヴェナ」
「…………」
「寂しくなるわね、ヴェナ」
「……シオン」
手のひらを握り返されると、強い力で引き寄せられた。鼻を突く血の匂いよりも、その腕の力に、シオンは酔う。
「シオン……シオン」
誰にも、シオン以外に見せることのない姿に、シオンはイデアの死の真相を知る。
「ヴェナ……っ」
悲しいと、寂しいと、泣くことを許されない夫のために、涙した。