ほんとうは。
ようこそおいでくださいました。
中編予定ですが、それでも楽しんでいただければ幸いです。
*シリーズ中のネタばれが含まれます。ご注意ください。
狂っていく皇太子と、それでも妃は、共に在ることを選んだ。
だってわたしの夫だから。
だってわたしの唯一だから。
だってわたしの、愛した人だから。
「そなたは変わっている」
「そうかしら……そうかもしれないわね。だってあなたを愛しているのだもの」
「本当に、変わった女だ」
いずれ狂うと、その自覚のある皇太子が、己れを愛しているという妃に、呆れたように笑う。笑われた妃も、笑い返した。だって仕方ないでしょう、と。
「嫁いでしまったのだもの」
「離縁するか?」
「無理よ。わたしはあなたを愛しているもの。あなたを愛すると決めた日から、わたしはあなただけの妃になったの」
「ばかな女だ」
「あなたに言われたくないわ。それに……知っているもの」
妃は、ふと目線を下げ、腕に抱いた幼いわが子を見つめる。産まれたばかりのわが子は、明日にも、乳母に預けられることになる。一緒に寝起きできるは、今夜が最後だ。
「あなたが本当は、とても家族を愛していると、わたしは知っているの」
こうして親子一緒にいられるのも、今夜が最後。
「だからわたしはあなたを選ぶわ、ヴェナート」
もう一度、月明かりを背にした皇太子に、目線を戻す。夫たる皇太子は、気難しい顔をしたまま妃を見つめ返してきた。
「……余は狂うぞ」
「わたしもいずれ狂うのでしょうね」
「そなたは……ふん、余に怯えるただの小娘よ」
「怯えてなんていないわ。愛しているもの」
「余は愛など信じぬ」
「そうね。けれど、本当は家族をとても愛している」
妃は「ふふ」と微笑み、腕の中ですやすやと眠るわが子を揺らす。皇太子の視線が、そのわが子へと注がれた。
「忌々しい……」
呟かれた言葉に、妃は笑みを深める。
「天邪鬼ね」
忌々しいと、そう思うのはわが子の存在ではないくせに。
「なにか言ったか?」
「わたしは幸せだと、そう言ったのよ」
「余に嫁がされて、そなたは不憫なことよ」
「それでも、わたしは幸せなのよ」
誰かの唯一になるということが、どれほどの喜びとなるか、それは皇太子も知ることだ。
「ふん……小賢しい娘だ」
そう言いながら、皇太子は妃の頤に手を伸ばし、唇を奪う。乱暴なくせに、その手も唇も優しくて、妃は身体から力を抜くと皇太子を受け入れた。
「サライと一緒に眠れるのは今夜が最後よ」
「……ああ」
「もうひとりの子とも、きっと今夜が最後……朝までいてくださる?」
「この腕には抱けぬ」
皇太子はそれだけ言うと、上着を脱いで、寝台の上にいた妃の隣に滑り込んでくる。身体を横にすると、わが子を真ん中にして、丸ごと抱きしめられた。
「もうひとりには名づけるな」
「……なぜ?」
「余がこれから強いることのために」
「そう……それは寂しいわね」
妃は、そっと腹部に手を添える。ふたりめのわが子には、とても可哀想なことをしてしまう。けれども、それが妃の選んだ道だった。
「今なら引き返せる」
皇太子は言った。
「余と離縁すれば、な」
皮肉げな笑みを浮かべている夫に、妃は苦笑した。
「もう無理よ」
愛しているのだから、と繰り返せば、そのときだけ、皇太子は夫らしく悲しげな笑みを見せた。
「後悔するぞ。今、このときでなければ、余はもうそなたを手放せぬ。余には、そなたしか残らぬのだからな」
「それでいいのよ。わたしにだって、あなたしか残らないのだもの」
選んだことを後悔することはない。
「あなたこそ、後悔するかもしれないわね。わたしという女を、妃にしてしまって」
言い返すと、皇太子は唇を歪めた。
「後悔させてみろ、シオン」
それは挑みだ。妃は、肩を震わせて笑った。
「あなたを愛しているわ、ヴェナート」
手のひらを伸ばして頬を撫でれば、僅かばかり、皇太子は身を寄せてきた。
「……そうか」
一言呟き、頬に添えた手のひらに、目を閉じて口づけする。まるで祈るような、願うようなその姿に、妃は身を寄せた。
*シリーズにあります【仮初の皇帝、偽りの騎士。】の主人公サリヴァンの、両親の物語になっています。
楽しんでいただければ幸いです。