婚約破棄直前に婚約者と身体が入れ替わった件について
「……痛たた……。おいエレノア、無事か?」
激しい頭痛とともに、セシル・ヴェルディ公爵令息は目を覚ました。
夜会に向かう直前、屋敷の大階段で足をとられたエレノアを庇い、共に階段を転げ落ちたはずだった。
「……セシル……様?」
頭を押さえながら立ち上がった婚約者、エレノア・バーネット伯爵令嬢の声を聞いた瞬間、セシルの全身に悪寒が走った。
何故か自分の声が、頭の上から聞こえたのだ。
見上げると、そこには見慣れたはずの自分の顔があった。凛々しい眉を寄せ、呆然とこちらを見下ろしている。
慌てて自分の手元に目をやると、そこにあったのは細い指先と、レースがあしらわれたドレスの裾だった。
「なっ……なんだこれはっ!?」
「きゃああっ!?わ、わたしが二人……!?」
鏡を見るまでもなかった。二人の身体は、入れ替わっていたのだ。
「落ち着け!声が大きい!」
セシルは必死に声を抑えた。
今夜の夜会は、セシルにとって重大なターニングポイントになるはずだった。地味で愛嬌のないエレノアに婚約破棄を突きつけ、可憐で愛らしいソフィアとの婚約を発表する予定だったのだ。
しかし、この身体ではそれどころではない。
「……いいかエレノア。俺たちが『入れ替わった』などと言っても、こんな絵空事きっと誰も信じない。狂人扱いされて終わりだ」
「で、ですが……!」
「今夜の夜会は、お互いがお互いのフリをしてなんとか乗り切るぞ!」
こうして二人は、互いの身体と立場を偽ったまま、夜会へと足を踏み入れることになったのだった。
♢♢♢
無事に会場へと到着した二人は、周囲の不審を買わないよう、婚約者同士として腕を組んで一緒に入場した。
そして、入場口を抜けたところで自然に別れ、それぞれの役割を果たすことにする。
セシル(外見:エレノア)は、会場の壁際に移動して、壁の花を決め込もうとしていた。
(……ふん、エレノアのことだ。地味で友人も少ないだろうから、こうして突っ立っていれば誰にも話しかけられず、夜会をやり過ごせるだろう)
そう高を括っていたセシルだったが、予想は一瞬で裏切られる。
「あら、エレノア様!今夜のドレスも素敵ですわ」
「エレノア様、先日の勉強会で教えていただいた件、とても役に立ちました!」
次々と令嬢や貴族たちが声をかけてくるのだ。セシルは焦りながらも、エレノアの評判を落とさないよう必死に愛想笑いを浮かべてやり過ごす。
(な、なんだ……!?エレノアのやつ、こんなに顔が広くて慕われていたのか……!?)
エレノアは地味で大人しいのではなく、実は聡明で誠実だからこそ周囲に愛されているのだと知り、セシルは衝撃を受ける。
「こんばんは、エレノアさん。今夜もお美しいですね」
柔らかい声とともに、優しげな雰囲気を纏った眼鏡の青年が近づいてきた。
男の顔を見て、セシルは息を呑む。婚約破棄の準備にあたりエレノアの身辺調査を行った時、彼女と最近親しくしている男として挙がっていた、ギャレットだった。
「……ええ、こんばんは。ギャレット様」
セシルはあたりさわりのない返答を心がけるが、ギャレットは愛おしむような眼差しを向け、距離を詰めてくる。
「体調は大丈夫ですか?何かあればすぐ僕を頼ってくださいね……早く貴方が自由になって、僕の元へ来てくれる日を心待ちにしていますよ」
甘く優しい言葉と態度。エレノアへの好意を一切隠そうとしないギャレットに対し、セシルは愛想笑いを浮かべながらも、胸の奥が不快な不協和音を奏でるのを感じていた。
(……なんだなんだ、エレノアのやつ。俺と婚約破棄しても、もうちゃんと代わりがいるんじゃないか……)
なぜか面白くない。嫉妬にも似たモヤモヤとした感情が、セシルの心を支配していく。
一方その頃、会場の中央では——。
エレノア(外見:セシル)が、公爵子息としての重責を果たしていた。
夜会の主催者や主要な貴族たちへ挨拶に回り、セシルの立場に泥を塗らぬよう、完璧な立ち振る舞いを意識する。
(セシル様はいつも、こんなに大勢の重鎮たちを相手に、気を張って過ごされていたのね……)
セシルが日頃抱えている重圧と苦労を身をもって知ったエレノアは、彼に対する見方を改め始めていた。
挨拶が一通り終わり、ほっと一息つこうとした時。
「セシル様っ」
甘ったるい声とともに、桃色のレースを贅沢にあしらった愛らしいドレスに身を包んだ少女が滑り込んできた。
躊躇もなく彼の腕に自分の腕を絡め、胸を押し当てるかのように至近距離まで顔を近づけてくる。
(えっ……!?何……!?)
エレノアは思わず身を引こうとしたが、相手は一切気にする様子もなく、甘えた声で上着の袖を引いてきた。
「探しましたわ、セシル様!今夜もとっても素敵です」
目の前にいるのは、子爵令嬢・ソフィアだった。
名前と顔くらいは知っていたが、まともに会話をしたことはない。
あまりに不躾で馴れ馴れしい距離感に、エレノアは戸惑いを隠せなかった。
(な、なんなのこの失礼な令嬢は……!?セシル様とはどういうご関係なのかしら……?)
困惑するエレノアを余所に、ソフィアはちらりと会場の壁際に視線を向け、扇子で口元を隠しながら可憐さを装った嘲笑を浮かべた。
「ねえ、セシル様。あんな地味で愛嬌のないバーネット様なんて放っておいて、私とバルコニーでお話ししましょ?ね、いいでしょう?」
目の前で堂々と自分の悪口を叩かれ、エレノアは眉をひそめた。可憐な容姿とは裏腹な、滲み出る高慢さと他者への軽蔑。そして、セシルへのあからさまな媚び売り。
(この人……可愛らしい振る舞いをしているけれど、セシル様の地位や見た目に惹かれているだけで、セシル様ご自身のことなんて見ていないんじゃないかしら……?)
エレノアの心に、激しい違和感とセシルに対する強い心配が芽生えていた。
♢♢♢
なんとか各々の対応を終えた二人は、人目を避けるように会場奥の静かなバルコニーで合流した。
「エレノア……!」
「セシル様……っ!」
二人同時に口を開いたが、セシル(外見:エレノア)が先に焦ったように切り出した。
「おいエレノア!あのギャレットとかいう男は何だ!『早く貴方が自由になって僕の元へ来てほしい』などと、お前に親しく接していたぞ!まさかお前、あの男と……」
「違います!ギャレット様は時々お茶会でご一緒するだけで、私にそんなお気持ちがあるなんて知りませんでした!」
必死に否定するエレノア(外見:セシル)だったが、セシルは「俺の代わりがいるんじゃないか」とぶつぶつ言いながら、不機嫌そうに眉をひそめる。
そんなセシルの態度に、エレノアも胸の奥がチクリと痛んだ。そして、先ほど覚えた強い違和感を思い出して問いかける。
「それよりセシル様、あのソフィア様という方は一体どなたなのですか?挨拶もそこそこに腕を絡められて……それに、私のことを『地味で愛嬌がない』と酷い言い方で侮辱なさったのです!」
あからさまに自分の悪口を言われた不快感と、セシルに馴れ馴れしく触れていたソフィアへのモヤモヤを正直に伝えたエレノア。
しかし、ソフィアを可憐で純粋な少女と思っているセシルは、とっさに反論してしまった。
「なっ……彼女はいつも可憐で愛らしく、腕を絡めてくるのも親しみの表現なんだ!それに、君が地味で愛嬌がないのは、事実じゃないか!」
「……え?」
セシルの言葉に、エレノアは息を呑んだ。
(あのソフィア様を庇うのですか……?それに、私を地味で愛嬌がないって……)
セシルにとって自分は『地味な女』で、あの不躾なソフィアこそが『理想の可憐な女性』なのだと思い知らされ、エレノアの心に冷たい風が吹き抜ける。
怒りとショックが入り混じり、視界がじんわりと涙で滲んだ。
「……もう結構です。セシル様がそこまであの女性をお信じになるなら、私から申し上げることは何もありません!」
「あっ、おいエレノア……!」
エレノアは引き留めるセシルを置いて、そのまま一人で会場へ戻ってしまった。
「くそっ……言い過ぎたか……」
自分の軽率な発言を後悔しつつも、セシルも頭を冷やすために会場へと戻ったのだった。
♢♢♢
ショックを抱えたままエレノア(外見:セシル)が会場に戻ると、待ち構えていたかのように再びソフィアが滑り込んできた。
「セシル様ぁ、どこに行っていらしたの?探しましたわ!」
当たり前のように腕を絡めてくるソフィアを、エレノアは必死にあたりさわりのない態度でやり過ごす。
胸の奥では、やるせないモヤモヤが渦巻いていた。
(……セシル様は、こんな自分本位なお嬢様のどこが良いのかしら……)
自分の何がいけなかったのか、地味で愛嬌のない女と言われた言葉が胸を刺す。
落ち込むエレノアに、ソフィアは甘えた声で追い打ちをかけた。
「ねえ、セシル様。あの地味女との婚約破棄は、いつ発表なさるの?」
「……え?」
エレノアは耳を疑った。
今、この人は何と言ったのだろう。
「もう、忘れちゃったんですか?今日、あの女に婚約破棄を突きつけて、私との婚約を発表してくれる予定だったでしょう?」
無邪気な笑顔で放たれた残酷な言葉に、エレノアの頭の中が真っ白になった。
(婚約破棄……?セシル様が、今日、私に……?)
最近のセシルから向けられていた冷淡な視線、会話の少なさ、そして先ほどソフィア様を庇った言葉。すべての点と点が繋がり、大きな絶望となって押し寄せてくる。
(そうだったのね……セシル様は最初から、私を捨てるおつもりだったのね……)
めまいがして、エレノアの膝がガクガクと震えた。
「……すまない、少し体調が悪くてね。風に当たってくる」
「えっ、セシル様!?」
ソフィアの引き留める声を振り切り、エレノアは逃げるように一人で会場を飛び出したのだった。
一方、エレノアと喧嘩別れをして壁際に戻ったセシル(外見:エレノア)の前には、ギャレットが待っていた。
「やあ、エレノアさん。顔色が優れませんね」
「……ええ、少し」
セシルはエレノアの評判を落とさないよう、適当に世間話をして相手をしていた。
だが、ギャレットは愛おしむような眼差しで距離を詰めてくると、声を潜めて語りかけてきた。
「……君が傷つかないために、あらかじめ伝えるべきか悩んだのですが……実は今日、ヴェルディ公爵令息が貴方に婚約破棄を告げる予定らしいんです」
「……な……なんだって……?」
自分がエレノアであることを忘れて、思わず目を見張るセシル。
動揺したセシルに対し、ギャレットはその辺の女性ならコロリといってしまいそうな、すべてを包み込むような甘い雰囲気を醸し出しながら、肩を抱くように寄り添ってきた。
「可哀想なエレノアさん。でも安心してください。あの男に捨てられても、僕が貴方を一生大切にします。だから僕の胸に飛び込んできてください」
(……な、なんだこいつは……!?エレノアのやつ、こんな胡散臭い男に落とされかけていたのか……!?)
目の前で繰り広げられるキザな言葉の数々に、セシルは強烈な苛立ちと激しいモヤモヤを覚える。だが次の瞬間、持ち前の鋭い頭脳が冷静さを取り戻した。
(……待てよ?なんでこいつが婚約破棄の件を知っているんだ……?)
セシルは全身に冷や汗が吹き出すのを感じた。
今夜の婚約破棄の予定は、自分とソフィアの二人しか知らないはずの極秘事項だ。エレノアや両親にさえまだ告げていなかった。
それなのに、なぜ無関係のはずのギャレットが知っている?
(まさか……!?)
ひとつの恐ろしい憶測が脳裏をよぎる。
「……申し訳ありません、ギャレット様。少し体調が悪いみたいで……」
「おや、大丈夫ですか?僕が付き添いましょう」
「いいえ!一人で休みたいのです!」
ギャレットの差し出す手を拒み、セシルは駆け出した。
自分がどれほど愚かだったか。そして、自分を心から心配し、真直ぐに向き合ってくれていたエレノアが今どんなに傷ついているか。
(エレノア……!どこにいるんだ、エレノア……っ!!)
セシルは自分の愚行を激しく後悔しながら、エレノアの元へと必死に走り出した。
♢♢♢
月明かりが照らす夜の庭園。セシルは、ベンチで肩を震わせて泣いているエレノアを見つけた。
「エレノア……!」
「……セシル様……」
エレノアは涙で濡れた瞳を上げると、切ない声で呟いた。
「私と……婚約破棄なさるおつもりだったのですね?ソフィア様からお聞きしました……」
「なっ……!?」
まさか本人にまで話が伝わっているとは思わず、セシルは血の気が引いた。
「ち、違うんだエレノア!確かに俺は愚かにもそんなことを考えていた!だが、それは君の本当の素晴らしさに気づいていなかったからで……!俺が全面的に愚かだったんだ、申し訳ない!」
必死に頭を下げて弁解するセシル。
「あと、実は婚約破棄の件で分かったことが……」
そして、婚約破棄に関する真相についても話そうとした時。
「……ふふ、これで二人ともイチコロね」
「ああ、僕の可愛いソフィア。君の演技は見事だったよ」
庭園にある大きなオブジェの裏から、コソコソとした忍び笑いが聞こえてきた。
セシルは咄嗟に「シーッ」と唇に指を当て、エレノアの手を引いて陰に隠れ、息をひそめた。
木々の隙間から見えたのは、抱き合うソフィアとギャレットの姿だった。
「あの馬鹿なセシル様ったら、私がちょっと甘えただけで鼻の下を伸ばして。婚約破棄の後は、公爵家の財産をたっぷり吐き出させて捨てるだけだわ!」
「はは、エレノアもだよ。僕がちょっと優しくしただけでコロッと騙されてね。バーネット家の資産を奪ったら、君と二人で贅沢三昧だ」
月明かりの下、二人はこれまで隠していた醜い本性を隠そうともせず、下品な高笑いを響かせていた。
そして、そのまま深く甘い口づけを交わす。
「やっぱり……か」
木の陰でセシルが呟いた。
「え……?セシル様、ご存知だったのですか?」
驚いて目を丸くするエレノアに、セシルは苦い表情で声をひそめる。
「ギャレットのやつが、俺とソフィアしか知らないはずの婚約破棄の話を知っていたんだ。まさか裏で繋がっていたどころか、最初から恋人同士で俺たちを騙していたとはな……」
ただの協力関係ではなく、最初から二人が恋人同士であり、自分たちを都合の良い金づるとして踊らせていたという真相。
あまりに身勝手で汚らわしい邪心に、エレノアは絶句して息を呑んだ。
そして次の瞬間、セシルが勢いよく陰から躍り出た。
「お前たちの醜い企みは、すべて聞かせてもらったぞ!!」
「……は?」
突然現れたエレノアが、男らしく大声で怒鳴り込んできたため、ソフィアとギャレットは呆気にとられて「え?」と間抜けな顔を見合わせた。
「婚約の話など、ソフィアともギャレットとも金輪際あり得ん!こんな下品で汚い奴らに騙されていた俺がバカだった!」
セシルは、今自分の外見がエレノアであることを忘れて、肩を震わせながら吐き捨てた。
二人が混乱して言葉を失っていると、後ろからゆっくりと歩み出たエレノアが、仕切り直すように公爵としての威厳に満ちた冷ややかな視線を二人に向けた。
「……エレノアの言う通りだ」
エレノアは凛とした立ち振る舞いでセシルの隣に立つと、重厚な低い声で二人に引導を渡した。
「今後、俺やエレノア、そしてヴェルディ公爵家とバーネット伯爵家に関わろうとするな。……もしこれ以上浅ましい真似をしてみろ。お前たち二人とその家系が、二度と社交界に姿を現せなくなると思え」
本物の公爵以上の圧迫感と冷徹な通告に、ソフィアとギャレットは顔面を蒼白にさせ、ガタガタと震え上がった。
♢♢♢
ソフィアとギャレットが逃げるように去っていった後、静まり返った庭園に、セシルの盛大なため息が響き渡った。
そして、セシルはエレノアの前で深々と頭を下げた。
「エレノア……本当に、本当に申し訳なかった!あんな醜い奴らの口車に乗せられて、君を深く傷つけた!どんな罵倒でも受ける。頼むから……俺を許してくれとは言わないが、挽回のチャンスをくれないだろうか……っ!」
自分の外見をしたエレノアを見上げ、エレノアの可憐な身体で必死に謝り倒すセシル。その真剣すぎる姿に、エレノアは毒気を抜かれたようにクスッと小さく微笑んだ。
「……セシル様。頭をお上げください。……まあ、すべてを帳消しにしてお許しする、とは申し上げられませんけれど」
「う……そ、そうだよな……」
「ですが、二人にあそこまで怒ってくださったこと、そしてご自身の過ちを素直に認めて謝ってくださったことは……嬉しかったですわ」
エレノアは優しく目を細め、夜風に吹かれながら月を見上げた。
「……ふふ、何だか不思議ですね。幼い頃、初めて婚約者としてお会いした日のことを思い出しました」
「幼い頃……?」
「ええ。十年前、ヴェルディ公爵家のお屋敷でお会いした時です。当時のセシル様は、幼いながらも威厳があって、大人びていて……私、緊張のあまり一言もしゃべれなかったのです。セシル様は覚えていますか?」
セシルはハッとして、自身の記憶を掘り起こした。
「ああ……覚えている。あの時の君は、真っ白なドレスを着ていて、まるで繊細なガラス細工みたいに綺麗だった。……だが、俺は公爵家の跡取りとしての重圧でいっぱいいっぱいで、君にどう接していいか分からず、素っ気ない態度をとってしまったんだ」
「いいえ、私の方こそ……セシル様の隣にふさわしい妻になりたくて、必死で勉強や社交の修練に没頭するあまり、セシル様のお心をしっかりみる余裕を失っていたのです」
エレノアが伏し目がちに明かした告白に、セシルは息を呑み、己の胸に手を当ててしんみりと呟いた。
「そうだったのか……。俺はそんな君を、俺に興味がなく冷淡なのだと思い込んでしまっていた。そして、分かりやすく甘えてくるソフィアの態度を愛嬌だと錯覚して靡いてしまったんだ。……俺は、本当に愚かだった」
セシルは深く悔いるように瞳を伏せ、エレノアを真っ直ぐに見つめ直した。
「エレノアが当たり前のようにずっと隣にいてくれたから、君の本当の姿を、努力を、何も見ようとしていなかったんだ。……今日、君になって初めて知ったよ。君がただ大人しいだけじゃなく、どれほど聡明で、周囲の人々から慕われているかのということを。俺の知らないところで、君はたくさんの人に愛される素敵な女性になっていたんだな」
セシルの真摯で温かい言葉に、エレノアは胸が熱くなり、頬をぽっと赤く染めた。
「セシル様……。私の方こそ、申し訳ありませんでした。セシル様が冷たい方だなんて、私の思い込みでしたわ。今日、セシル様として社交界を回って……セシル様がどれほど大きな重圧を背負い、どれほど血の滲むような努力で公爵家を支えられているかを知りました。セシル様は、本当はとてもお優しくて、誰よりも努力家なお方です」
「エレノア……」
「これからは……お互いをもっと知っていければと思います。今度は、偽りのない本当の私たちとして」
二人を包む空気が、甘く優しいものへと変わっていく。お互いに互いの立場を経験したからこそ、今まで見えていなかった相手の苦労、信念、そして魅力を知ることができたのだ。
「ああ……ありがとう、エレノア。俺は二度と君を離さない。俺が、君を世界一幸せにしてみせる!」
感極まったセシルは、思わずエレノアの手を握り締め、一歩踏み出した。
——その時。
「わっ……!?」
セシルの着ていたドレスの裾が、庭園の敷石の出っ張りに引っかかった。
「キャッ!セシル様!?」
バランスを崩したセシルが、目の前にいたエレノアに向かって倒れ込む。
咄嗟に受け止めようと手を伸ばして抱きついた二人の額が、ゴッチャン!!と、凄まじい音を立てて激しく衝突した。
「「いたあああっ!?」」
その瞬間、夜空に眩い光が弾け、二人を優しく包み込んだ。
「痛たた……頭が割れるかと思った……」
額を押さえながらうずくまるセシル。視界がクリアになり目の前を見ると、そこには美しいドレスを見に纏ったエレノアが、同じように涙目になって額を押さえていた。
「うう……痛いです、セシル様……って、あら?」
エレノアが自分の手を見つめる。細く繊細な見慣れた自分の手だ。声も本来の高い声に戻っている。
「エレノア……!戻った……!俺たち、元に戻ったんだ!」
「はい……!よかったです……!」
ほっと安堵した瞬間、お互いの顔を見合わせ、二人は同時に吹き出した。
公爵令息と伯爵令嬢が、夜の庭園で額を赤くして地べたに座り込んでいるなど、あまりにも不格好で、けれど愛おしい光景だった。
セシルは立ち上がると、エレノアに向かって優しく手を差し伸べた。
「さあ、手をどうぞ!俺の可愛い婚約者殿」
「ふふ、ありがとうございます。私の大好きなセシル様」
エレノアがその手を取ると、セシルはそのままぐっと引き寄せ、彼女をしっかりと抱きとめた。
災難から始まった『入れ替わり』だったが、それは二人の冷めていた関係を溶かし、本物の愛を芽生えさせる最高の奇跡となった。
月明かりの下、二人は笑い合いながら、温かなぬくもりを確かめ合うのだった。




