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同音異義語テーマ小説

――セイ――

作者: まっちゃ
掲載日:2026/09/08

【――星(セイ)――】

夜は静かだった。暗く、冷たく、優しい空気が、私の肌を震わした。

寒い。クリスマス・イヴの街中は、人々の笑い声と暖かな光に満ちていた。遥か上空には、星々が私を監視している。白。橙。黄。水。白。

点々と散らばった色とりどりの瞳が、私を睨み、人々を見守る。

私は夜が嫌いだ。静かで、暗く、冷たく、何処までも優しい。寒さに震える指先は、微かな暖を求めて街へと向いた。

瞬く星々が、夜空の闇を隠す。

眩い点滅が、寒色の光が、冬の寒さを際立たせていた。

ああ――お星さま、どうか、私を救ってください。

そして――――神様、どうか、世界を滅ぼして。


【――正(セイ)――】

私は常日頃から”正しさ”だけで生きてきた。正しく起きて、正しく身支度をして、正しく朝食を頂く。正しく正しく正しく――。

もう散々だ。だから私は家を出た。初めて、”正しく”ないことをした。それはとても快感だった。

ざまぁみろ、クソ野郎ども…!!!

心の中で呟いて、私は街へと駆け出したのだった。

しかし。街について、最初に見た景色に私は絶望した。

”正義”がそこにあった。正義を掲げた騎士団が、誰かをギロチンにかけていた。

悲鳴、怒号、号哭。地獄の音。死への切符が切られる。銀色が、光を反射しながら落ちる。拉げた音と共に首が宙を舞う。

世界に、希望なんてなかった。光があるはずがなかった。信じた私が馬鹿だったんだ。


【――制(セイ)――】

あれから数日が経過し、今に至る。人々はもう、あの凄惨な出来事を忘れてしまったのだろうか。所詮は他人ということなのか。

それとも…人々はこの恐怖による制御、という環境に慣れてしまったのか。

わからない。ただわかることは、ここに優しさなどない。見せかけの笑顔で、明日を掴むために、お世辞を吐く。

私は路地裏を一人進む。すっかり埃塗れになった、元ドレスが、僅かな純白が、月明かりを跳ね返す。

けれど、この汚れのほうが、”人生”を実感できて嬉しかった。

火のついていない蝋燭と、湿ったマッチ箱を持って、私は次の居場所へと駆け出した。

沈む月を背に、ただ走り続ける。

遠くに見えるビル群の影は、それもまた、異なる抑制の形なのかもしれない。


【――青(セイ)――】

目が覚めると、悠々と泳ぐ雲が私を慰めていた。体を起き上がらせて、自分が目的地に着いたことを確認し、もう一度寝転がる。

昨夜は無我夢中で走り続けたから、途中からの記憶がなかった。でもきっと、ここまで誰にも声をかけられたりはしていないのだろう。現に、ここには誰もいない。リンゴの一つもない。

群青の空が、青々とした公園の芝生とグラデーションを成す。地平線の彼方に見える海には、より一層暗い青が広がっていた。

ここで生まれたかったな。

叶うことのない願いを、変えることのできない後悔を抱えて、私は再び眠りについた。


ん……。

触れているものの感触が違うことに気づき、私の意識は急速に目の前の光景へと向いた。

「あれ………?」

自然と声が漏れた。

そこは、建物の中だった。1週間ぶりに、暖かさを感じた。

これが――これが、救いなんですね?お星さま。


【――性(セイ)――】

その景色が、極楽じゃないことに気づくのは早かった。

誰かが駆けるような音が鳴り響き、そこには階段を上る人影が見えた。

起き上がろうとして、私の下半身が露わになっていることに気づく。

「いゃっ……!」

直ぐには状況が理解できず、脳内は白くなって、身体が固まった。

ようやく、「服を裂かれた」ことに気づいたとき、反射的に私はベッドから飛び降りた。

玄関を見つけ、走り出す。

お腹が鳴る。足が縺れる。そういえば何も食べてない。でも知ったこっちゃない。

人生で初めて迎えた、身体への危機。自分に向けられた欲。

駄目だとはわかっているけども、鼓動は早くなり、体は熱くなる。

あのまま逃げなければどうなっていただろう。相手の容姿は?想像は瞬く間に広がって、自分が半裸のまま走っていることも忘れたのだった。


【――生(セイ)――】

生きなければ。それが、”破滅”を望んだ少女の、今の願望だった。

生き延びなければ。誰かが決めたわけでも、罰があるわけでもないけれど、生きることはまるで義務のように人生を縛る。

少女は大都市の大通り……付近の路地裏で倒れこんでいた。

空腹、恐怖、疲労。快感、興奮。

短時間でその全てを喰らい尽くした少女は、それでも生きようとしていた。踏ん張って、力を込めて、また立ち上がる。

その表情は、世界のだれよりも”生きて”いた。

皮肉にも、この世においては生きることが正しさなのだが。


【――臍(セイ)――】

ビルの隙間にしゃがみ込んでから何分が経っただろう。

落ちていた段ボールに、石で文字を彫る。

『Help Me』

よし。ちょっと線が歪んでいる気もするけれど、読めるし大丈夫。

脚の前に看板を持って、下半身を隠す。

暑い。陽光は遮れるけれど、コンクリートに染み付いた熱はなかなか消えない。破れたドレスの隙間から、私の腿を、尻を焦がす。

早く涼しい部屋で休みたい。

こんな世界に生んだ母が嫌い。こんな私を創った父が嫌い…。

いつかの教養の時間で学んだことを思い出す。『臍を噛む』。意味は…簡単にいえば”後悔”。それも、とても深い。

叶わない、無意味な後悔を、心の隅へと仕舞った。


【――凄(セイ)――】

腿の痒さが落ち着いてきた夕暮れ時。何回か、人が目の前を通り過ぎた程度で、誰も手を差し伸べてはくれなかった。

形が、狂っていただけで、あいつらは私に”愛”を持っていたんだな、と痛感した。

ただそれも、形骸化したものなのかもしれないな。私にはわからないや。

空が暗くなる。頬が濡れる。空が光る。涙が落ちる。

雨風を凌げるものは何もない。仕方なく、看板を頭の上に掲げた。しゃがんでいるから覗かれることはない…と思う。

とにかく、早く誰かに温もりを貰いたかった。

寒い。凄然とした路地裏は、野良猫の溜まり場となっていた。彼らは体が小さいから、ちょっとした隙間で雨宿りをしているようだ。

濡れて透けた胸元には、痣が浮かんでいた。凄風の吹く都会に、救いは無かった。


【――婿(セイ)――】

雷は静まった。夜の暗い街並みを、雨が濡らす。曇り空の隙間から、月が街に微笑みかける。

もう、死ぬのかもしれない――――。

いや…まだ、まだ死ねない。私にはやり遂げなければいけないことがあるんだ。そう易々と死んでいられない。

静かな決意を抱いた時、遠くから硬い音が聞こえた。

そっと顔を向けると、背の高い人がこっちに向かってきていた。

私の横まで来て、しゃがんで、顔の高さを揃えた。その顔は、どこかで見たことがある気がした。

「君、名前は?」



「寒かったでしょ?風呂沸いてるから先に入っておいで」

彼はそう言って、私を家に迎えた。暖をとれる安心感と、昨日の出来事での恐怖が脳内を駆け巡る。

玄関で立ちすくむ私に、彼は優しく微笑んだ。

「緊張しないで、未来のお嫁さん」


【――精(セイ)――】

何日ぶりだろうか、お湯に浸かるというのは。

こんなに暖かかったっけ?こんなに幸せだったっけ?

冷え切った熱を、体温を、使い慣れないシャワーで温める。家にいたときは、付き添いの人がいたから、一人でいるということが違和感だった。けれど、それもすぐに、安堵に変わった。

自分の体を見られる心配もないし、気を遣う心配もない。さりげないセクハラもない。

やっと…やっと、私は”居場所”に出会えたのかもしれない。


風呂を出て、タオルで身体を拭いて気づく。着替えがない。仕方なく、タオルで身を包んでリビングルームへと向かった。

「え…っと……着替え、って…あり、ますか…?」

極度の緊張と羞恥心から、目も合わせず一方的に話しかけた。

彼は嫌な顔一つせず言った。

「ん?ああ、ごめんよ、買ってくるから待っててね」

そういうと彼は、風呂場へと向かった。

そっと後をつけると、籠の中から私の服を取り出していた。手元には紙とペン。

サイズ…のメモ、なのかな…?

やってもらうのに覗くのは良くない気がして、私は再びリビングへと戻った。


【――征(セイ)――】

彼女の服全てのサイズと素材をメモした僕は、車に乗って店へと出かけた。一見するとただの変態かもしれない。僕もそう思う。だけど、異性の体なんてわからない僕にはこうするしかなかった。

路地裏で一人震えていた彼女は、それでもその瞳に熱を燈していた。

だから。だから、僕が守らなきゃいけない。僕が救わなきゃいけない。僕のものにしなきゃ――。

おっと、危ない。赤信号だって気づかなかった。横断歩道にかぶさっている気がするが、既に深夜。人通りは少ない。大丈夫だ。

でも、どうしようかなぁ。籠の中に入っていたのは、ぼろぼろのドレス1枚と上半身の下着だけ。下は何もわからない。それに、自分の服でもないから見た目も考えなければ…。

何より……こんな成人男性が少女用の服を購入するという行為が、店側からしたら恐怖だろう、ということだ。

知っている限り、一番いい店はこの街の外にある。久々の遠征だなぁ。音楽をかけて、自販機で炭酸飲料を買う。

いつか彼女を連れて、一緒にドライブをしよう。自然豊かな田舎に引っ越そう。そんな妄想が、僕の生きる希望となって、光を差していた。


【――井(セイ)――】

天井を見上げる。暇だなぁ。寒いし、もう一回お風呂に入ろうかな。

それにしても、彼の顔をどこかで見たことがあるような気がしたのは……。

実際にあったことはない気がする。私の周りにいた人は彼ほど背が高くない。

じゃあ何かの写真?毎日新聞を読まされていたから、それで見たことがあったのかもしれない…。

私は必死に記憶の底から記事を持ってくる。これじゃない。これも違う。えーと……、これ、かな?

確か………いや…写真でもない…?

もし、記憶にいる”彼”と、この家の”彼”が同じなら。

この狭い狭い天国は、市井に潜む地獄と化す。そうなれば私は……

「あっ」

考え事に集中しすぎて気づかなかった。私はタオルのまま浴槽に浸かってしまった。

……彼が帰ってくるまで出れないや…

逆上せたのか恥ずかしさゆえか、鏡に映る私の顔は真っ赤になっていた。

タオルが透けて、うっすらと体のシルエットが見える。そして気づく。

鏡を留めている、四つ角の螺子。左下の、比較的新しいものであろう螺子。それは、時折赤く点滅していた。


【――整(セイ)――】

【集落内連続死亡事件】。当時、毎日新聞の3ページ以上を占めていた、未解決事件。

被害を受けたのは、とある小さな農村だった。人口は100人弱。都会にも近いから、毎日トラックが通っていたらしい。

事件が起きたのは冬だった。村の長を務めていた人が、村の中央の畑で死んでいるのが発見された。

当時、死因は不明。今では他殺であることが判明している。体のほとんどは畑に埋まり、発見されたときには左足だけが飛び出ていたという。

翌日、今度は同じ農村に住んでいた老人が殺された。毒殺。

その翌日も、さらにその翌日も、誰かが殺された。方法は毎回変わっていった。刺殺、撲殺などの物理的な物。火災や毒ガスなどの、閉鎖的な空間での殺害。精神的に追いやった末の自殺もあった。

それが、100日程続いた。そう、全員が死ぬまで。

犯人と思しき、村の住人ではない死体も1度見つかった。けれど、今でも証拠はない。

でも、私は知っている。

兄が狂ったこと。あの冬、毎日どこかに出かけていたこと。帰宅するたび、私と出かけようとしたこと。

兄は我が家で一番背が高かった。毎日のようにトレーニングをしていたし、本気で世界を狙っていた。

でも、挫折した。立ち直れなかった。煙草、酒、ギャンブル。すべてに入り浸って、何かあるたびに暴力を振るった。

彼はある日、姿を消した。

「ちょっと心の整理してくる」とだけ書かれた紙を残して…。


【――誠(セイ)――】

案の定、店員には疑われた。そりゃそうだ、成人男性が少女の服を買うなんて、常識的に可笑しいからな。幸い誤解は解けたし、通報には至らなかった。

店を出る時に睨まれたのが気がかりだが…良しとしよう。

あの店員のお陰で下部分のサイズも判明したわけだからな。良い。非常に良い。

細く繊細で、強く握れば折れてしまいそうな腕。

生まれたての小鹿のような足。それでいて肉付いた腿。

ドレス越しにもわかった胸の膨らみ。その全てが、車を加速させた。一瞬、”40”の標識が見えた気がするが…3倍速くらいは許容範囲だろう。

だがそれも長くは続かず。

曲がり角がうまくいかず、時速120キロの黒い獣は公園の花壇へと突っ込んだ。

エアバッグに包まれながら、僕は甘い香りに満たされていた。幸せだ。

良かった、彼女の下着を持ってきていて。あぁ、いい香りがする。事故ったのは面倒だが……ナンバープレートを外してさっさと逃げれば大丈夫だろう。公園の遊具は何個か壊れただけで特に被害はなさそうだしな。

僕はなんて誠実な人間なんだろうか。彼女のために命を懸けて衣服を買いに行くなんて。

僕以外、彼女の隣はありえないな。


【――穽(セイ)――】

鍵の開く音に驚いて、尻を打つ。痛い…。

浴槽からあふれたお湯が、床を流れていく。カメラの視野はわからないけれど、四角になれそうな狭いスペースだけで湯に浸かっているからか、脚が痛くなってきた。

でも、浴槽から出るってことはカメラの前に裸を晒すことになる…。仕方ない、彼が来たら、タオルを出して貰おう…それですぐ、さっと出て、ドアを閉めて…よし、完璧。

脳内シミュレーションは100点中120点。浴室のドアが開く。

「服、買ってきたぞ………なんでタオルごと入ってるんだ?」

………想定外。いちいち恥ずかしがらせなくていいから…!タオルを……。

「ほいっ」

彼がタオルの束を投げる。

「へっ!?」

驚きのあまり、キャッチできず、自分の体のタオルごと湯に沈む。

あっ。

彼の視線の向く先を、一瞬で理解してしまう。私の…胸、股間。

結局はみんなそうなのか、私を助けてくれるわけじゃないのか。落とし穴に嵌ったような気分だった。

彼はニヤニヤしながら、何かを取り出した。私が見たことのないものだった。

薄くて、長方形に近い形で、右上には丸い何かがいくつかついている。

不意に、その丸が光る。困惑することしかできなかった。

え…?え………?撮影、だったりするの…?

私は落ちたタオルを掬い上げて、必死に体に巻き付ける。2枚、3枚巻きつけて、縛って、服を持って、身体も拭かずに走る。食べかけのパンを持って、服を抱えて、外に出る。

そろそろ、居場所を知りたい。


【――晴(セイ)――】

夜の公園で一人、私はタオルを乾かしていた。

ん………眠い…

欠伸を嚙み殺して、横向きに転がっている黒い物体に寄りかかる。

誰かが来たらどうしよう。そんな不安が、時折甘い興奮となって、身体中を駆け回った。

何故なら、今は何も纏っていないからだ。

お邸のお嬢として育てられてきた私は、世界を知らない。

そして、穢れを知らなかった。だから、だからこそ今。こうして何も身に着けないことに快楽を覚え始めている。涼しい。誰も来るな。私の世界に来ないで。

でも、天国は幻だ。マッチを売っている少女が見た幻覚のように、楽しい時間など一瞬で終わってしまう。

昇り始めた朝日を見て、乾ききってないタオルで、身体のまだ濡れている部分を拭く。

買ってもらった服を着る。タオルとパンを持って、また移動を始めた。

廻る月は、陽は、今日もまた晴れていた。


【――省(セイ)――】

帰ろうかな。

ふと、そう思った。

邸での生活を思うと足が竦む。でも、極限で命を繋いだ私なら、あの場所でも生きていけるのかもしれない。

……いやいや、何を考えてるんだ、私。

あの地獄に再び、しかも自ら乗り込むなんて……。

お星さま、どうか。勝手に家を飛び出して、勝手に命を危機にさらしている間抜けな少女を、救いに導いてください…。

神様、もしもあなたが、私に微笑みかけてくれるのであれば。あの獣を。穢れた兄を、天に召してください。

そして、私は今日までの行い全てを反省しています。

全て、私が悪かっただけなんです。だからどうか。どうか、見捨てないで。


「ふぅ……」

心の中に一通り思いを吐き出して、拾ったリュックに蝋燭と、湿ったマッチ箱を放り込む。

タオルをぐちゃぐちゃに詰めて、下着も仕舞う。涼しい。

世間一般的には到底受け入れられないかもしれない。

でももういいや。

私は、私を生きる。これまでの私は省略して、新しい”私”を。


――――――”星(セイ)”を生きるんだ。


【――誓(セイ)――】

私、改め”星(セイ)”は、また同じ景色を見ていた。雷鳴は曇り空を裂き、墜ちる雨を照らし、冷たい水が私の肩を、頭を打ち付ける。

建物の隙間には猫が数匹丸まっていて、それは動いていなかった。暖を取っているのか、既に寒さで死んでしまったか。どちらにせよ、私はどっちもできない。

誰かを頼ることも、死ぬことも。

「でも―――」

誰にも聞こえない独り言は続く。

でも―――、果たして生きることが、本当にいいことなのか?それがまた、忌み嫌った”正しさ”なのではないか?死ぬことは救いなのかもわからないし、生きることが幸福とも思わない。生きるのはつらい。

寒いし、痛いし、難しい。

生きたくない。逝きたくない。いきたくない。

段々と睡魔が、私の脳内を支配し始めた頃、雨は既に止んでいた。まだ遥か彼方では雷鳴が響いていたが、すくなくともここは曇りだけになった。

そっと一息ついて、ビルの壁面に背を預け、リュックを下に敷いて、私は忍びよる魔をそっと抱き寄せた。


【――斉(セイ)――】

『呪詛斉唱』。私の家系に伝わる、所謂”儀式”。具体的な効果は知らない。

ただ―――。

―――――終えた後は、何かが私を見ている。

母曰く、”コウマノ儀式”。コウマ…紅魔…降魔……どちらなのかは知らない。他に思い当たる”コウマ”はない。

『斉生流転』。我が家の家訓、だった。なんで『生々流転』じゃないんだろう、とずっと思っていた。

今、こうしてみれば、『皆が一緒に生きる』、『流れて転んで、それでも進む』みたいな意味なんだろうかとも思う。『皆が一緒に生きる』…でもそれは『皆が同じ道を同じように辿る』ことともいえる。

私だって、当たり前のように”正しさ”を強いられた。間違えれば殴られた。蹴られた。外に放置された。

その度に泣き喚き、夜中になって、ようやく使用人さんにお許しを乞う。相手の気分次第では、そのまま庭で夜を明かす。

使用人はいくら間違えても暴行を受けなかった。それどころか、私を性的に見てきた。幾度となく、行為を強制され、その度に逃げ続けた。

家訓なんて、人の思いなんて、所詮はそんなものなのだ。うわべだけの、正しさを。世間体だけを見て、裏では毒を吐く。


少し歩き続けて、私は深く繁った森へと出た。

葉は静かに擦れ、一斉に音楽を奏でる。私を歓迎しているみたいに。


【――菁(セイ)――】

青々と繁る木の葉は、憂鬱な私の心を覆うように蠢いた。

風が吹けば、数枚葉が舞って、幻想的な風景を描く。陽光は菁(あお)い影を地に生みだして、枯れ墜ちた葉が、枝が、殺風景な地面を彩った。

とても美しかった。雨風を凌ぐのは難しそうだけれど、しばらくはここで過ごせるかもしれない。

もっと、もっと見ていたい。そう思った私は、あの頃の私のような、一切の穢れを知らない服を躍らせながら森の奥へと歩みを進めた。


何分経っただろう。素晴らしい。疲れた。

そこには、放棄された、小さな公園があった。いくつかの小さな遊具が並び、最低限の段は取れそうなスペースもあった。

錆びていて、欠けていて、汚れている。美しい。

褪せた赤色が、光を跳ね返さない銀色が、どこまでも愛おしく、美しかった。


【――勢(セイ)――】

何度目だろう、この轟音を聞くのは。

でも今日は、いつもより遥かに強く感じた。葉に当たり、跳ね返り、地面に落ちて、染みていく。

雨が落ちるその過程を眺め、私は空腹に襲われる。

顔を外に出し、雨水を口に入れようとする。なかなか思うようには落ちてこず、目に入ったからやめた。

昨日は私を歓迎した森は、部外者を威嚇するように吠え続けた。

空が一層暗くなると、雨の勢力は弱まった。曇り征く空には、月の灯がぼやけていた。

明日は誰が、空を支配するんだろう。雨水。陽光。乱雲。落雷。暗嵐。暴雪。

収まらない衝動に身を任せ、外に出る。まだ生き生きとしている葉を毟り、口に入れる。一口。不味い。

硬いし、味がない。苦みしかない。栄養なんてあるはずない。それでも、腹は満たされた。脳が、そう錯覚した。

明日は何か、何でもいいから飲みたい。喉が悲鳴を上げている。

そういえば…こんな奥地に公園があったということは、かつてはこの地域も栄えていたのだろうか。

人々の思いが舞って、大勢の人間が過ごしていたのだろうか。

文字のない言葉を木々は話す。それは私にはわからないけれど、きっと、かつてのこの地について教えてくれているんだろうな、とは思った。


【――盛(セイ)――】

今っていつだっけ?

冬に家を出た気もするし、夏だった気もする。

長い間街に隠れていたような気もするし、数日間だけだった気もする。

間違いなく言えることは、この森に四季は無い。


昨夜、近くの町で盗んできた小麦製品を数個、大きな葉に盛り付ける。数日は寿命が延びた。

祭りで賑わってたから、たぶん誰にもバレていないだろうな。久しぶりに見たな、熱気盛んな町の光景を。耳を澄ませば、掛け声が聞こえてくる、気がする。

1つの袋を開け、齧る。袋には『クロワッサン』と書かれていたが、たぶん違う。バターの味が濃いし、全然ふわふわしてない。私の知るクロワッサンじゃない。甘いけどしょっぱい。美味しい。

貪るように『クロワッサン』を平らげた私は、二つ目に手を伸ばし、もう片方の掌で押さえつける。

今食べては来週は生きていない。それはもう、これまでの生活で嫌になるほどに知っている。

次は何処に行こうかな。

森には何もなく、ただ静寂があった。

風が吹くと頭上が騒がしく、雨は騒音で、晴れていれば静寂。曇っていると鳥が喚く。夜には虫が声を奏でる。

近くに落ちていた枝を拾い上げ、立てて、手を放す。左向きに倒れた棒を見て、リュックにご飯を入れて、枝が向いた先——月が沈みゆく方向に歩き始めた。

脚はもう、疲れを、声を発さなかった。


【――声(セイ)――】

眠い。口から間抜けな声が漏れる。欠伸。

灰色の硬い道を、高く聳える建物を横目に歩き続けた。

幸か不幸か、まだ汚れを知らない服を着ていたから、誰も私に手を差し伸べてはくれなかった。

住宅街————。人の声で溢れ、鴉が啼き、塵(ゴミ)が散乱している。

笑い声は外まで響き、アルコールの臭いが充満し、誰かが叫ぶ。

しばらく歩いていると、頭上から耳を劈くような、鋭い高音が響いた。

近くの民家から短い悲鳴が聞こえた。

電線は地に垂れて、家は崩れ、電柱が倒れる。

揺れてる。地震。

いつぶりだろうか、ここまで揺れるのは。

ヒビの入った硬い道に座り込む。私の前を人々が走り去る。

音が震えてる。悲鳴。振り返ると、海が怒声をあげていた。

あ、津波———。

頭ではわかっていたけれど、その怒りを前に脚は震え、立ち上がることができなかった。

「死にたいのかお前!!!」

誰かが叫び、私の袖に汚れをつける。

引き裂かないで――そう願ったのも束の間、私の体が宙を舞った。

一瞬の静寂を経て、私の腹が、生温い布に衝突する。

揺れ。

さっきとは違う、安堵を感じる揺れ。ようやく気づく。

背負われてる。きっと、私を助けるために。


【――請(セイ)――】

揺れる温もりにしがみつきながら、私はあの頃を思い出していた。

――――――――――――

「早く起きろ、星(セイ)」

父が静かに言う。

「ん………」

ふわぁ…と欠伸が出る。

それを見た父の表情は、いつにもまして険しかった。

「欠伸、ねぇ……」

新聞を床に放り投げ、椅子から立ち上がった。

私の頬をつねり、一発殴る。

今日は、何回殴られるのかな……。

――――――――――――

「大丈夫、か?意識は、あるか…?」

呼吸を荒くして、私を背負ったまま問う。

大丈夫、そういうと、優しい温もりは再び速度を上げた。

ふと、私は気づく。この人なら――――。

私の願いを、乞うてもいいのかもしれない。


【――西(セイ)――】

私たちは陽を追いかけて、ただひたすらに、動き続けた。

いつしか、私は彼女の横で走っていた。私たちの背を、月が照らして。世界の終わりのような大災害なのに、何故だか暖かかった。

もう何度転んだかわからない。自分のリュックがどこにあるのかわからない。

この先に何があるのかわからない。向かう先に幸せがあるとは限らない。

それでも私たちは、月に背くように、ただ西へと向かった。

お星さま……私は、この世界が大嫌いです。美しくて、穢れてる。血が、汗が、涙が溢れ、肉は傷つき、肌が抉れ、骨が砕ける。でも。私はこの世界が大好きです。汚れてて、綺麗。皆が、自分のために動き、社会が形成される。だから―――――。

―――世界は滅ぼさないでください、私を生かしてください。


【――清(セイ)――】

「はぁ…………はぁ………」

頭から、身体から汗を垂らす彼女は、地面にへたり込み、ただ空を眺めていた。

上下する肩が、彼女の疲労を証明し、私は嬉しくなった。

私はもう何十分も、寝たふりをしていた。彼女に背負って欲しかった。安心する背中に、私を乗せてほしかった。

彼女は休憩が終わるたびに、私を背負って歩いた。いつかの時間に、彼女は自分のことを「人間じゃない」と嗤った。

だから人より体力があるし、人に避けられていると。

だから私は笑った。「じゃあ同類だね」

私は彼女の仲間でなければいけなかった。彼女の心を支えなければいけなかった。

でも、この人生で彼女に会う機会はなかった。牢獄(やしき)に住んでたから。

同時に、彼女は私を救ってくれなかった。来てくれなかった。だから独りだった。

心が淀んでいくのを感じる。

でももう止まれなかった。宛先のない憎悪が、今は只、彼女に向いていた。

彼女は只開けるしかないのだ。私からの手紙を。毒が、ナイフが、爆発物が入ってるかもしれなくとも。

黒塗りになった宛名が、住所が、世界には飛び交っていることを、私は気づいていた。

人々はそれをヒボウチュウショウと呼んだ。発信元の人間が、逆に手紙に溺れてることもあるし、有名な人は動作の一つで手紙が飛んでくる。

サァ……と、水の流れのような、草が風に吹かれたような、そんな音が聞こえた。

私は目覚めた。目が覚めたふりをした。近くには橋が架かり、川が流れていた。橋は壊れていた。

穢れた世界に流れるこの小さな川が、今は愛おしくて、腹が立った。


【――棲(セイ)――】

廃棄された段ボールを、ただひたすらに集め続けた。日が暮れたら合流して、簡易的な住居を作る約束をしていた。

まだ太陽は、西を眺めていた。暑さは無くて、心地よい朝だった。

遠くに見える繁華街は廃れていて、腐った蔦が、建物を覆い尽くしていた。

塵捨場(ごみすてば)に散らばった段ボールは、黴が生えているものや、湿気って歪んだものもあったが、片っ端から拾い集めた。

頭上に陽が昇ったころに、私は繁華街へと向かった。

少し長い道のりだったけれど、あの日、町から都市へと走った私には、短く感じた。

私を囲むように聳え立つ建物どもは、その全てが、崩れ、腐り、蔦が生い茂っていた。

硝子の破片が、崩れた石材の破片が、倒れ朽ちた扉が、道に倒れ、落ちていたけれど、靴を得た私には些細なものだった。

ふと入った店には、まだ電気が通っていた。天井に吊るされた、洒落た照明が、淡く弱く、暖かな橙色で床を、私を照らした。

幾つかの建物から、使えそうな素材を拝借した。朽ちた木の板。濡れた段ボール。欠け落ちたタイル。

気づけば、床には私の影が落ちるようになっていた。背後では、燃え盛る太陽が、私に微笑みかけていた。動かない時計を見て、そろそろ戻ろうと思った。


【――蜻(セイ)――】

最近、日が暮れるまでの時間が早くなった気がする。

紅く染まった空に、何羽かの鴉が飛んでいて、その下には、黄金に輝く芒が広がっていた。

赤蜻蛉が、機械的に飛び続けていた。蟋蟀の鳴き声が、薄暗くなった空に、微かに浮き出た月に挨拶をしていた。

およそ一日ぶりに出会った彼女には、やはり疲労は見えなかった。

今朝見たときには青々と繁っていたその雑木林は、紅に、橙に、黄金(こがね)に色づいて、舞い落ちる枯葉の焦げ茶色が、地面に生え残った少しの緑が、ただの景色を芸術に昇華させている。

景色に見惚れていて止めていた手を、また動かす。

ようやく簡易住居ができたとき、既に星々は私を見つめていた。

壊れた橋のすぐ近くで、段ボールに包まれて、私たちは眠りについた。

目が覚めたときには、既に彼女は外にいた。

彼女の影は、彼女のほぼ真下に形を成して、私は今が昼頃だと分かった。

つい最近まで、この時間帯は地獄のようだったけれども、今は心地よい暑さだった。

風が吹いて、段ボールの中に一瞬、残留した。

爽やかな秋の空気は、朱く色づいた秋の匂いを私たちの棲み処に齎した。

燦燦たる陽光が、川で釣りをしている彼女を照らした。それは、スポットライトのようだった。

こんな小さな川じゃ、魚もいないだろうに。私がそう思った直後に、彼女は「4匹目ぇ!」と小魚を釣り上げた。


【――醒(セイ)――】

目が、醒めた。暖かい空気が肺に流れ、苦しい煙草の臭いが鼻を突く。

呼吸が乱れてることに気づいた。頭がまだ、景色を認識していなかった。理解を拒んでいた。

綺麗に磨かれた窓には、青ざめた私の姿が映っていて、そして、夜だった。

深々と降る雪が、秋を拒絶し、”夢”であったと自覚させた。

再び、寝転がる。あの時確かに感じていた、無機質な段ボールの感触が、まだ背中に残っていた。けれど、それはすぐに柔い毛布に飲み込まれた。

ふわっとした布団に物足りなさを感じ、私は起き上がる。

部屋には娯楽がなくて、でも部屋を出たくなかった。兄が、父が、母が、使用人が、その全てが怖かった。彼らは私を好いている。歪んだ想いで。

痕の付いた首が、脚に残る痣が、膨らんだ胸に浮かぶ口吻の痕が、それを物語っていた。きっと、まだ私も知らない傷跡が残っているんだろうなと思った。

ドアに鍵をかけ、耳を当てる。心臓の鼓動と、自分の息の音の中、確かに声は聞こえた。

「それで? 星(ほし)は本当に死んだのか」

「わたくしのことを疑っていらっしゃいますの?」

一瞬の沈黙。胸に、熱が宿った気がした。

「…いや、そうじゃない。今朝見たとき……あいつが寝返りを打った気がしたんだ」

「で、ですが……! わたくしは間違いなく飲ませましたわ!!」

再び静寂が流れた。私は決意をした。

ソファが軋む音がした。誰かが振り返ったのだろうか。

「本当か? リリア」

「ええ、本当のことでございます。間違いなくお母様は毒を飲ませ、星(ほし)様は2週間以上全く動いておりません。これは私も見ておりますので、間違いありません」

使用人の声が聞こえた。彼女も敵だった。

私の手が、鍵を開けた。ドアノブに手をかけた。音を立てないように、母の部屋へ向かった。

窓を少し開けて、ベランダへ裸足のまま出た。

冷たく硬い感触が、しばらく触れていた土の温度とは、感触とは違って歩きづらかった。

ここは3階で、彼らが集っているのは2階の大広間だと思うから、私は2階を経由することができなかった。

高く積もった雪を目がけて、私は飛び出した。視界が歪み、刹那、景色は白一色となった。

このまま冷やされていたかったけれど、そうしている暇はないから、私は1階の窓を開けた。ここは鍵が壊れているから、開くのは容易だった。


【――世(セイ)――】

世界は、静寂に包まれていた。

目醒めたときとはまた違う、荒く乱れた呼吸が、私の鼓動が、この世界に響く、唯一の音だった。

状況にはそぐわない程に冷静な頭で、私は思った。

私は、厭世家だったのかもしれないな。いや……厭邸家だったのかもしれない。でも、私にとっての世界は邸だけに留まっていたのだから、結局、厭世家が一番合う気がする。

目の前には、赤黒い流体がカーペットに染みていた。図体は大きな、父の体が床に寝ていた。

寝息は立てていなかった。

その奥には、二人が、あの日見た”青”よりも顔を青くして、肩を寄せ合っていた。

片方は私の顔を、もう片方は私の手を見ていた。

足にまで液体が流れてきて、私はようやく目の前の光景を理解できた。ああ、そっか。刺したんだ。

手にはナイフが握られていて、それはきっと、1階のキッチンから持ってきたのだろうな、と思った。

何故だか、見えて居る景色全てが、映画のような空想上のものに思えていた。

けれども、長く悶えて天に召した……いや、地獄に落ちた巨体を、私はちゃんと見ていた。特等席で。

世界は、賑やかだった。

窓の外から、赤と青の、鬱陶しいほどに眩しい光が差し込んで、サイレン音が響いて、だけど、それはこの邸に近づくことはなく、去っていった。

あの日、私は家を飛び出したからわかっていた。この邸は、世間的にも厭われていて、誰もが嫌っていることを。

だから、警察も関わらないようにしているんだと。

それはきっと、父が最後に残した、私への希望だったのかもしれないな。


【――製(セイ)――】

父と母は、私を創った。

汚く乱れた交わりを経て、私は産まれた。

目を劈くような、ただ磨かれただけの白い邸。血を飲んだように紅い、埃の一つもない絨毯。

殆どの窓ガラスには装飾が施され、一部はステンド硝子となって、部屋を照らす。

天井にはシャンデリアが吊るされて、蝋燭が淡く灯を満たしていた。

誰かに作られた空間で、私は怪物どもに創られた。

穢れた営みを経て、”私”が製造された。でも今は、何も恨んでいなかった。だって、もういないのだから。

怪物は、もういないのだ。少なくとも、私にとっての。

私は外に出た。

外に広がる陽光は眩しく、しかし、寒かった。

あの日裸足で駆けだした道をたどって、聖夜の街へとたどり着いた。誰かの悲鳴。あぁ、懐かしい。

結局、正義が何なのかわからなかった。彼らは、彼らにとって正しいことをしてるだけに過ぎなくて、でもそれは、私には正しくなかった。

またしばらくすれば、この街には笑い声が響き、優雅な聖夜を過ごすのだろうな、と感じたのを、今でも覚えている。

湿ったマッチ箱を拾って、短い蝋燭を抱えて、汚れを知らないドレスを纏って、靴を履いて、都市へと走った。

夢の中の話だったのかもしれないけれど、都市には兄がいて、でも今の私には敵わないだろう。

あの数日で経験した、身体への危機は、今も尚甘く纏わりついて。されど、それが私には心地よかった。


【――眚(セイ)――】

雷鳴が響き、暗雲を稲妻が切り裂いた。轟々と降り続ける雨は相変わらず、並ぶビル群を殴っていた。

窓ガラスに反射した雷は青白くて、暗雲は黒くて、それが綺麗だった。雨は私の肩を、頭を、胸を打ち付けて、隙間に寝転がった野良猫たちが、光の宿っていない瞳で私を見つめた。白く濁った眼の奥には、微かに紫紺が見えた。

黒猫で、だけど背中は羽のように、翼のように白くなっている。誰かが描いた模様のような、不自然な完成度。黄金に輝く眼が、紫紺に堕ちた眼が、私の意識を掴んで離さなかった。

暫く見つめ合っていると、不意に猫が歩きだした。

ビルの隙間を縫うように、狭い道を歩いた。昔からいい身体をしているといわれていたが、これほどまでに自分のスタイルを恨んだことはなかった。豊満な膨らみが壁に擦れるたび、息が漏れた。

猫は、私とは一定の距離を保っていた。それは1ミリもズレることなく、私が抜け出すまで続いた。

そこは、晴れていた。

草が生い茂り、花が咲き、木々が茂り、鳥が囀り、水が流れ、太陽が微笑む。

極楽浄土————。

何処からか出てきた薄い煙が地を這った。煙を、鮮やかな灯が照らした。スポットライトだった。

晴れていたわけじゃなかった。ただの、劇場だ。誰にも気づかれず、私は着席していた。猫は椅子の下に潜っていった。

劇団は、”視えない世界”という作品を演じていた。主人公は目が不自由で、それを理由に虐められて。でも、主人公は魔法使いの一族だったがゆえに、禍を齎して復讐する――バッドエンドのストーリー。

胸が痛んだ。まるで、私のことを言っているみたいで。


【――所為(セイ)――】 

劇場を出た私は、ただ猫についていった。

暗い森を抜け、公園に転がった、壊れた遊具を横目に、夜通し歩いた。

ドレスは脱いで、抱えて歩いた。今日は暑いから、下着で歩くのは心地よかった。

猫はそんな変化も気にせずに、時折こちらを振り返って、歩いていた。

途中で、誰かとすれ違ったけれど、誰も私が見えていなかった。きっと、私が怪物の間に生まれたからだ。全部、あいつらの所為だ。

猫の背に広がった翼模様が、羽ばたいたように見えた。この猫は、誰の所為で眼が濁ったのだろう。私の呪い、なのかもしれない。呪詛斉唱——。呪いを降ろす儀式———。昨夜、邸の図書館で見た情報がフラッシュバックする。

「ごめんね………」

消え入りそうな声で、思わず謝った。猫は、静かに啼いた。

私なんかを生んだ所為で。私が生まれてきちゃった所為で。私を拒んだ所為で。私を愛した所為で。

私は、今日も生きなきゃいけなかった。


【――聖(セイ)――】

夜の森は、ただ怖かった。

木が騒めき、空が捻れ、地は揺らぐ。木菟の啼声、蟋蟀の唄声、蝙蝠の羽音。川の叫び、草の訴え、花の怒号。黒鳥(からす)の泣声、鈴虫の歌声、大神(おおかみ)の足音。

毛繕いを終えた猫は、その背に着いた模様が、本当に翼となっていた。

猫はそっと私に近づいて、腿の上で寝息を立てた。張り詰めた翼が胸をくすぐって、恐怖を打ち消した。

ふふっ、と思わず笑いが漏れて、猫の背を撫でた。いつかと同じように、私は睡魔を抱きしめて、深い森へ愛を伝えた。

小鳥の囀り、猫の欠伸、蜻蛉の羽音。

爽やかな朝だった。

蝉の唱。蛙の声。

騒がしい森だった。

狼の遠吠え。

素晴らしい世界だ。

ここが、私にとっての――――

――――本当の、居場所?

聖域——。

ここで育ちたかったなぁ。「臍を噛む」——意味は…なんだっけ?

清々しい程に爽やかな雨に打たれて、私の体が浄化されて。

ドレスが純白になって、下着からは汗が消えた。

猫が、私を見つめていた。ずぶ濡れになった下着は、ほぼ着用していないのと同じだったけれど、ここには愛おしい動物しかいないから気にならなかった。

雲の間から差した一縷の光が、私を照らした。猫が足元で、翼を広げた。

世界で一番、神聖な空間だった。


【――逝(セイ)――】

日記を閉じて、私は立ち上がった。

懐かしいなぁ。もう、何十年たっただろう。世界はループして、また同じ歴史を繰り返している。

飼っていた猫は、翼の猫は、いつだったか不思議な空間へと逝ってしまった。

あれからいろいろなことがあった。私も一人、娘を授かった。

波打ち際の白いお邸に、私と、娘——月(ツキ)は暮らしている。

もう一人で出かけれるくらいに成長した我が子を、もう十分に歩けなくなった私はいつも羨ましいと思う。

月の兄——誠(マコト)は、この冬、毎日のようにどこかに出かけている。

私は殺風景な白い部屋で、ベッドに寝転がった。

穢れのない白い服を纏った彼女らが部屋に来る。私は眼を閉じる。


――星(セイ)、17時22分逝去――


【――狌(セイ)――】

月(あたし)は今日も、近くの店で菓子パンを買って、病院へ向かった。

もう15にもなったってのに、母さんはいつも心配してくる。兄ちゃんはどっか行っちゃうし…。

今日は何の話をしようか。そう思って、部屋の前に来て、いつもよりも騒がしいことに気づく。

看護婦さんたちの声が聞こえる。嘘、だよね………?母さん?

肩が上下する。呼吸が荒くなる。足が震える。何も描かれていない扉に、壁に、大きな獣が見えた。

””死””を纏う獣が、私に牙を見せる。短い悲鳴が漏れる。

あたしは菓子パンを放り投げて、邸(いえ)へと走った。

ごめんなさい、母さん…あたしは…。

涙が溢れる。視界がぼやけて、歪んで、嗚咽が漏れる。

呼吸が苦しくて、でも止まっちゃいけない気がして、せめて母さんに感謝を伝えたくて、頭の中が絡まって、何もわからなかった。

小石を踏んで、血が流れ出す。いつの間にか靴が脱げていたみたいだけれど、気にしていられなかった。

血を、涙を流して、ぐちゃぐちゃの顔のまま走り続けた。

邸につくなり、あたしは泣き叫んだ。階段を駆け上がって、兄さんの部屋に侵入した。誰もいなかった。

母さんの部屋に入った。すごく整っていて、でも引き出しの中はぐちゃぐちゃで、そんなところが好きだった。


【――歳(セイ)――】

あれから、4年がたった。兄は連続殺人事件の犯人として捕まった。あたしは何も持たず家を出た。

クリスマス・イヴの町は賑わっていて、星々があたしを見つめていて。

あたしは夜が嫌いだ。静かで、暗く、冷たく、何処までも優しい。寒さに震える指先は、微かな暖を求めて街へと向いた。

瞬く星々が、夜空の闇を隠す。

眩い点滅が、寒色の光が、冬の寒さを際立たせていた。

お星さま―――どうか、この世界に幸せを恵んでください。

――セイ――

《完》

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