――セイ――
【――星――】
夜は静かだった。暗く、冷たく、優しい空気が、私の肌を震わした。
寒い。クリスマス・イヴの街中は、人々の笑い声と暖かな光に満ちていた。遥か上空には、星々が私を監視している。白。橙。黄。水。白。
点々と散らばった色とりどりの瞳が、私を睨み、人々を見守る。
私は夜が嫌いだ。静かで、暗く、冷たく、何処までも優しい。寒さに震える指先は、微かな暖を求めて街へと向いた。
瞬く星々が、夜空の闇を隠す。
眩い点滅が、寒色の光が、冬の寒さを際立たせていた。
ああ――お星さま、どうか、私を救ってください。
そして――――神様、どうか、世界を滅ぼして。
【――正――】
私は常日頃から”正しさ”だけで生きてきた。正しく起きて、正しく身支度をして、正しく朝食を頂く。正しく正しく正しく――。
もう散々だ。だから私は家を出た。初めて、”正しく”ないことをした。それはとても快感だった。
ざまぁみろ、クソ野郎ども…!!!
心の中で呟いて、私は街へと駆け出したのだった。
しかし。街について、最初に見た景色に私は絶望した。
”正義”がそこにあった。正義を掲げた騎士団が、誰かをギロチンにかけていた。
悲鳴、怒号、号哭。地獄の音。死への切符が切られる。銀色が、光を反射しながら落ちる。拉げた音と共に首が宙を舞う。
世界に、希望なんてなかった。光があるはずがなかった。信じた私が馬鹿だったんだ。
【――制――】
あれから数日が経過し、今に至る。人々はもう、あの凄惨な出来事を忘れてしまったのだろうか。所詮は他人ということなのか。
それとも…人々はこの恐怖による制御、という環境に慣れてしまったのか。
わからない。ただわかることは、ここに優しさなどない。見せかけの笑顔で、明日を掴むために、お世辞を吐く。
私は路地裏を一人進む。すっかり埃塗れになった、元ドレスが、僅かな純白が、月明かりを跳ね返す。
けれど、この汚れのほうが、”人生”を実感できて嬉しかった。
火のついていない蝋燭と、湿ったマッチ箱を持って、私は次の居場所へと駆け出した。
沈む月を背に、ただ走り続ける。
遠くに見えるビル群の影は、それもまた、異なる抑制の形なのかもしれない。
【――青――】
目が覚めると、悠々と泳ぐ雲が私を慰めていた。体を起き上がらせて、自分が目的地に着いたことを確認し、もう一度寝転がる。
昨夜は無我夢中で走り続けたから、途中からの記憶がなかった。でもきっと、ここまで誰にも声をかけられたりはしていないのだろう。現に、ここには誰もいない。リンゴの一つもない。
群青の空が、青々とした公園の芝生とグラデーションを成す。地平線の彼方に見える海には、より一層暗い青が広がっていた。
ここで生まれたかったな。
叶うことのない願いを、変えることのできない後悔を抱えて、私は再び眠りについた。
ん……。
触れているものの感触が違うことに気づき、私の意識は急速に目の前の光景へと向いた。
「あれ………?」
自然と声が漏れた。
そこは、建物の中だった。1週間ぶりに、暖かさを感じた。
これが――これが、救いなんですね?お星さま。
【――性――】
その景色が、極楽じゃないことに気づくのは早かった。
誰かが駆けるような音が鳴り響き、そこには階段を上る人影が見えた。
起き上がろうとして、私の下半身が露わになっていることに気づく。
「いゃっ……!」
直ぐには状況が理解できず、脳内は白くなって、身体が固まった。
ようやく、「服を裂かれた」ことに気づいたとき、反射的に私はベッドから飛び降りた。
玄関を見つけ、走り出す。
お腹が鳴る。足が縺れる。そういえば何も食べてない。でも知ったこっちゃない。
人生で初めて迎えた、身体への危機。自分に向けられた欲。
駄目だとはわかっているけども、鼓動は早くなり、体は熱くなる。
あのまま逃げなければどうなっていただろう。相手の容姿は?想像は瞬く間に広がって、自分が半裸のまま走っていることも忘れたのだった。
【――生――】
生きなければ。それが、”破滅”を望んだ少女の、今の願望だった。
生き延びなければ。誰かが決めたわけでも、罰があるわけでもないけれど、生きることはまるで義務のように人生を縛る。
少女は大都市の大通り……付近の路地裏で倒れこんでいた。
空腹、恐怖、疲労。快感、興奮。
短時間でその全てを喰らい尽くした少女は、それでも生きようとしていた。踏ん張って、力を込めて、また立ち上がる。
その表情は、世界のだれよりも”生きて”いた。
皮肉にも、この世においては生きることが正しさなのだが。
【――臍――】
ビルの隙間にしゃがみ込んでから何分が経っただろう。
落ちていた段ボールに、石で文字を彫る。
『Help Me』
よし。ちょっと線が歪んでいる気もするけれど、読めるし大丈夫。
脚の前に看板を持って、下半身を隠す。
暑い。陽光は遮れるけれど、コンクリートに染み付いた熱はなかなか消えない。破れたドレスの隙間から、私の腿を、尻を焦がす。
早く涼しい部屋で休みたい。
こんな世界に生んだ母が嫌い。こんな私を創った父が嫌い…。
いつかの教養の時間で学んだことを思い出す。『臍を噛む』。意味は…簡単にいえば”後悔”。それも、とても深い。
叶わない、無意味な後悔を、心の隅へと仕舞った。
【――凄――】
腿の痒さが落ち着いてきた夕暮れ時。何回か、人が目の前を通り過ぎた程度で、誰も手を差し伸べてはくれなかった。
形が、狂っていただけで、あいつらは私に”愛”を持っていたんだな、と痛感した。
ただそれも、形骸化したものなのかもしれないな。私にはわからないや。
空が暗くなる。頬が濡れる。空が光る。涙が落ちる。
雨風を凌げるものは何もない。仕方なく、看板を頭の上に掲げた。しゃがんでいるから覗かれることはない…と思う。
とにかく、早く誰かに温もりを貰いたかった。
寒い。凄然とした路地裏は、野良猫の溜まり場となっていた。彼らは体が小さいから、ちょっとした隙間で雨宿りをしているようだ。
濡れて透けた胸元には、痣が浮かんでいた。凄風の吹く都会に、救いは無かった。
【――婿――】
雷は静まった。夜の暗い街並みを、雨が濡らす。曇り空の隙間から、月が街に微笑みかける。
もう、死ぬのかもしれない――――。
いや…まだ、まだ死ねない。私にはやり遂げなければいけないことがあるんだ。そう易々と死んでいられない。
静かな決意を抱いた時、遠くから硬い音が聞こえた。
そっと顔を向けると、背の高い人がこっちに向かってきていた。
私の横まで来て、しゃがんで、顔の高さを揃えた。その顔は、どこかで見たことがある気がした。
「君、名前は?」
「寒かったでしょ?風呂沸いてるから先に入っておいで」
彼はそう言って、私を家に迎えた。暖をとれる安心感と、昨日の出来事での恐怖が脳内を駆け巡る。
玄関で立ちすくむ私に、彼は優しく微笑んだ。
「緊張しないで、未来のお嫁さん」
【――精――】
何日ぶりだろうか、お湯に浸かるというのは。
こんなに暖かかったっけ?こんなに幸せだったっけ?
冷え切った熱を、体温を、使い慣れないシャワーで温める。家にいたときは、付き添いの人がいたから、一人でいるということが違和感だった。けれど、それもすぐに、安堵に変わった。
自分の体を見られる心配もないし、気を遣う心配もない。さりげないセクハラもない。
やっと…やっと、私は”居場所”に出会えたのかもしれない。
風呂を出て、タオルで身体を拭いて気づく。着替えがない。仕方なく、タオルで身を包んでリビングルームへと向かった。
「え…っと……着替え、って…あり、ますか…?」
極度の緊張と羞恥心から、目も合わせず一方的に話しかけた。
彼は嫌な顔一つせず言った。
「ん?ああ、ごめんよ、買ってくるから待っててね」
そういうと彼は、風呂場へと向かった。
そっと後をつけると、籠の中から私の服を取り出していた。手元には紙とペン。
サイズ…のメモ、なのかな…?
やってもらうのに覗くのは良くない気がして、私は再びリビングへと戻った。
【――征――】
彼女の服全てのサイズと素材をメモした僕は、車に乗って店へと出かけた。一見するとただの変態かもしれない。僕もそう思う。だけど、異性の体なんてわからない僕にはこうするしかなかった。
路地裏で一人震えていた彼女は、それでもその瞳に熱を燈していた。
だから。だから、僕が守らなきゃいけない。僕が救わなきゃいけない。僕のものにしなきゃ――。
おっと、危ない。赤信号だって気づかなかった。横断歩道にかぶさっている気がするが、既に深夜。人通りは少ない。大丈夫だ。
でも、どうしようかなぁ。籠の中に入っていたのは、ぼろぼろのドレス1枚と上半身の下着だけ。下は何もわからない。それに、自分の服でもないから見た目も考えなければ…。
何より……こんな成人男性が少女用の服を購入するという行為が、店側からしたら恐怖だろう、ということだ。
知っている限り、一番いい店はこの街の外にある。久々の遠征だなぁ。音楽をかけて、自販機で炭酸飲料を買う。
いつか彼女を連れて、一緒にドライブをしよう。自然豊かな田舎に引っ越そう。そんな妄想が、僕の生きる希望となって、光を差していた。
【――井――】
天井を見上げる。暇だなぁ。寒いし、もう一回お風呂に入ろうかな。
それにしても、彼の顔をどこかで見たことがあるような気がしたのは……。
実際にあったことはない気がする。私の周りにいた人は彼ほど背が高くない。
じゃあ何かの写真?毎日新聞を読まされていたから、それで見たことがあったのかもしれない…。
私は必死に記憶の底から記事を持ってくる。これじゃない。これも違う。えーと……、これ、かな?
確か………いや…写真でもない…?
もし、記憶にいる”彼”と、この家の”彼”が同じなら。
この狭い狭い天国は、市井に潜む地獄と化す。そうなれば私は……
「あっ」
考え事に集中しすぎて気づかなかった。私はタオルのまま浴槽に浸かってしまった。
……彼が帰ってくるまで出れないや…
逆上せたのか恥ずかしさゆえか、鏡に映る私の顔は真っ赤になっていた。
タオルが透けて、うっすらと体のシルエットが見える。そして気づく。
鏡を留めている、四つ角の螺子。左下の、比較的新しいものであろう螺子。それは、時折赤く点滅していた。
【――整――】
【集落内連続死亡事件】。当時、毎日新聞の3ページ以上を占めていた、未解決事件。
被害を受けたのは、とある小さな農村だった。人口は100人弱。都会にも近いから、毎日トラックが通っていたらしい。
事件が起きたのは冬だった。村の長を務めていた人が、村の中央の畑で死んでいるのが発見された。
当時、死因は不明。今では他殺であることが判明している。体のほとんどは畑に埋まり、発見されたときには左足だけが飛び出ていたという。
翌日、今度は同じ農村に住んでいた老人が殺された。毒殺。
その翌日も、さらにその翌日も、誰かが殺された。方法は毎回変わっていった。刺殺、撲殺などの物理的な物。火災や毒ガスなどの、閉鎖的な空間での殺害。精神的に追いやった末の自殺もあった。
それが、100日程続いた。そう、全員が死ぬまで。
犯人と思しき、村の住人ではない死体も1度見つかった。けれど、今でも証拠はない。
でも、私は知っている。
兄が狂ったこと。あの冬、毎日どこかに出かけていたこと。帰宅するたび、私と出かけようとしたこと。
兄は我が家で一番背が高かった。毎日のようにトレーニングをしていたし、本気で世界を狙っていた。
でも、挫折した。立ち直れなかった。煙草、酒、ギャンブル。すべてに入り浸って、何かあるたびに暴力を振るった。
彼はある日、姿を消した。
「ちょっと心の整理してくる」とだけ書かれた紙を残して…。
【――誠――】
案の定、店員には疑われた。そりゃそうだ、成人男性が少女の服を買うなんて、常識的に可笑しいからな。幸い誤解は解けたし、通報には至らなかった。
店を出る時に睨まれたのが気がかりだが…良しとしよう。
あの店員のお陰で下部分のサイズも判明したわけだからな。良い。非常に良い。
細く繊細で、強く握れば折れてしまいそうな腕。
生まれたての小鹿のような足。それでいて肉付いた腿。
ドレス越しにもわかった胸の膨らみ。その全てが、車を加速させた。一瞬、”40”の標識が見えた気がするが…3倍速くらいは許容範囲だろう。
だがそれも長くは続かず。
曲がり角がうまくいかず、時速120キロの黒い獣は公園の花壇へと突っ込んだ。
エアバッグに包まれながら、僕は甘い香りに満たされていた。幸せだ。
良かった、彼女の下着を持ってきていて。あぁ、いい香りがする。事故ったのは面倒だが……ナンバープレートを外してさっさと逃げれば大丈夫だろう。公園の遊具は何個か壊れただけで特に被害はなさそうだしな。
僕はなんて誠実な人間なんだろうか。彼女のために命を懸けて衣服を買いに行くなんて。
僕以外、彼女の隣はありえないな。
【――穽――】
鍵の開く音に驚いて、尻を打つ。痛い…。
浴槽からあふれたお湯が、床を流れていく。カメラの視野はわからないけれど、四角になれそうな狭いスペースだけで湯に浸かっているからか、脚が痛くなってきた。
でも、浴槽から出るってことはカメラの前に裸を晒すことになる…。仕方ない、彼が来たら、タオルを出して貰おう…それですぐ、さっと出て、ドアを閉めて…よし、完璧。
脳内シミュレーションは100点中120点。浴室のドアが開く。
「服、買ってきたぞ………なんでタオルごと入ってるんだ?」
………想定外。いちいち恥ずかしがらせなくていいから…!タオルを……。
「ほいっ」
彼がタオルの束を投げる。
「へっ!?」
驚きのあまり、キャッチできず、自分の体のタオルごと湯に沈む。
あっ。
彼の視線の向く先を、一瞬で理解してしまう。私の…胸、股間。
結局はみんなそうなのか、私を助けてくれるわけじゃないのか。落とし穴に嵌ったような気分だった。
彼はニヤニヤしながら、何かを取り出した。私が見たことのないものだった。
薄くて、長方形に近い形で、右上には丸い何かがいくつかついている。
不意に、その丸が光る。困惑することしかできなかった。
え…?え………?撮影、だったりするの…?
私は落ちたタオルを掬い上げて、必死に体に巻き付ける。2枚、3枚巻きつけて、縛って、服を持って、身体も拭かずに走る。食べかけのパンを持って、服を抱えて、外に出る。
そろそろ、居場所を知りたい。
【――晴――】
夜の公園で一人、私はタオルを乾かしていた。
ん………眠い…
欠伸を嚙み殺して、横向きに転がっている黒い物体に寄りかかる。
誰かが来たらどうしよう。そんな不安が、時折甘い興奮となって、身体中を駆け回った。
何故なら、今は何も纏っていないからだ。
お邸のお嬢として育てられてきた私は、世界を知らない。
そして、穢れを知らなかった。だから、だからこそ今。こうして何も身に着けないことに快楽を覚え始めている。涼しい。誰も来るな。私の世界に来ないで。
でも、天国は幻だ。マッチを売っている少女が見た幻覚のように、楽しい時間など一瞬で終わってしまう。
昇り始めた朝日を見て、乾ききってないタオルで、身体のまだ濡れている部分を拭く。
買ってもらった服を着る。タオルとパンを持って、また移動を始めた。
廻る月は、陽は、今日もまた晴れていた。
【――省――】
帰ろうかな。
ふと、そう思った。
邸での生活を思うと足が竦む。でも、極限で命を繋いだ私なら、あの場所でも生きていけるのかもしれない。
……いやいや、何を考えてるんだ、私。
あの地獄に再び、しかも自ら乗り込むなんて……。
お星さま、どうか。勝手に家を飛び出して、勝手に命を危機にさらしている間抜けな少女を、救いに導いてください…。
神様、もしもあなたが、私に微笑みかけてくれるのであれば。あの獣を。穢れた兄を、天に召してください。
そして、私は今日までの行い全てを反省しています。
全て、私が悪かっただけなんです。だからどうか。どうか、見捨てないで。
「ふぅ……」
心の中に一通り思いを吐き出して、拾ったリュックに蝋燭と、湿ったマッチ箱を放り込む。
タオルをぐちゃぐちゃに詰めて、下着も仕舞う。涼しい。
世間一般的には到底受け入れられないかもしれない。
でももういいや。
私は、私を生きる。これまでの私は省略して、新しい”私”を。
――――――”星”を生きるんだ。
【――誓――】
私、改め”星”は、また同じ景色を見ていた。雷鳴は曇り空を裂き、墜ちる雨を照らし、冷たい水が私の肩を、頭を打ち付ける。
建物の隙間には猫が数匹丸まっていて、それは動いていなかった。暖を取っているのか、既に寒さで死んでしまったか。どちらにせよ、私はどっちもできない。
誰かを頼ることも、死ぬことも。
「でも―――」
誰にも聞こえない独り言は続く。
でも―――、果たして生きることが、本当にいいことなのか?それがまた、忌み嫌った”正しさ”なのではないか?死ぬことは救いなのかもわからないし、生きることが幸福とも思わない。生きるのはつらい。
寒いし、痛いし、難しい。
生きたくない。逝きたくない。いきたくない。
段々と睡魔が、私の脳内を支配し始めた頃、雨は既に止んでいた。まだ遥か彼方では雷鳴が響いていたが、すくなくともここは曇りだけになった。
そっと一息ついて、ビルの壁面に背を預け、リュックを下に敷いて、私は忍びよる魔をそっと抱き寄せた。
【――斉――】
『呪詛斉唱』。私の家系に伝わる、所謂”儀式”。具体的な効果は知らない。
ただ―――。
―――――終えた後は、何かが私を見ている。
母曰く、”コウマノ儀式”。コウマ…紅魔…降魔……どちらなのかは知らない。他に思い当たる”コウマ”はない。
『斉生流転』。我が家の家訓、だった。なんで『生々流転』じゃないんだろう、とずっと思っていた。
今、こうしてみれば、『皆が一緒に生きる』、『流れて転んで、それでも進む』みたいな意味なんだろうかとも思う。『皆が一緒に生きる』…でもそれは『皆が同じ道を同じように辿る』ことともいえる。
私だって、当たり前のように”正しさ”を強いられた。間違えれば殴られた。蹴られた。外に放置された。
その度に泣き喚き、夜中になって、ようやく使用人さんにお許しを乞う。相手の気分次第では、そのまま庭で夜を明かす。
使用人はいくら間違えても暴行を受けなかった。それどころか、私を性的に見てきた。幾度となく、行為を強制され、その度に逃げ続けた。
家訓なんて、人の思いなんて、所詮はそんなものなのだ。うわべだけの、正しさを。世間体だけを見て、裏では毒を吐く。
少し歩き続けて、私は深く繁った森へと出た。
葉は静かに擦れ、一斉に音楽を奏でる。私を歓迎しているみたいに。
【――菁――】
青々と繁る木の葉は、憂鬱な私の心を覆うように蠢いた。
風が吹けば、数枚葉が舞って、幻想的な風景を描く。陽光は菁い影を地に生みだして、枯れ墜ちた葉が、枝が、殺風景な地面を彩った。
とても美しかった。雨風を凌ぐのは難しそうだけれど、しばらくはここで過ごせるかもしれない。
もっと、もっと見ていたい。そう思った私は、あの頃の私のような、一切の穢れを知らない服を躍らせながら森の奥へと歩みを進めた。
何分経っただろう。素晴らしい。疲れた。
そこには、放棄された、小さな公園があった。いくつかの小さな遊具が並び、最低限の段は取れそうなスペースもあった。
錆びていて、欠けていて、汚れている。美しい。
褪せた赤色が、光を跳ね返さない銀色が、どこまでも愛おしく、美しかった。
【――勢――】
何度目だろう、この轟音を聞くのは。
でも今日は、いつもより遥かに強く感じた。葉に当たり、跳ね返り、地面に落ちて、染みていく。
雨が落ちるその過程を眺め、私は空腹に襲われる。
顔を外に出し、雨水を口に入れようとする。なかなか思うようには落ちてこず、目に入ったからやめた。
昨日は私を歓迎した森は、部外者を威嚇するように吠え続けた。
空が一層暗くなると、雨の勢力は弱まった。曇り征く空には、月の灯がぼやけていた。
明日は誰が、空を支配するんだろう。雨水。陽光。乱雲。落雷。暗嵐。暴雪。
収まらない衝動に身を任せ、外に出る。まだ生き生きとしている葉を毟り、口に入れる。一口。不味い。
硬いし、味がない。苦みしかない。栄養なんてあるはずない。それでも、腹は満たされた。脳が、そう錯覚した。
明日は何か、何でもいいから飲みたい。喉が悲鳴を上げている。
そういえば…こんな奥地に公園があったということは、かつてはこの地域も栄えていたのだろうか。
人々の思いが舞って、大勢の人間が過ごしていたのだろうか。
文字のない言葉を木々は話す。それは私にはわからないけれど、きっと、かつてのこの地について教えてくれているんだろうな、とは思った。
【――盛――】
今っていつだっけ?
冬に家を出た気もするし、夏だった気もする。
長い間街に隠れていたような気もするし、数日間だけだった気もする。
間違いなく言えることは、この森に四季は無い。
昨夜、近くの町で盗んできた小麦製品を数個、大きな葉に盛り付ける。数日は寿命が延びた。
祭りで賑わってたから、たぶん誰にもバレていないだろうな。久しぶりに見たな、熱気盛んな町の光景を。耳を澄ませば、掛け声が聞こえてくる、気がする。
1つの袋を開け、齧る。袋には『クロワッサン』と書かれていたが、たぶん違う。バターの味が濃いし、全然ふわふわしてない。私の知るクロワッサンじゃない。甘いけどしょっぱい。美味しい。
貪るように『クロワッサン』を平らげた私は、二つ目に手を伸ばし、もう片方の掌で押さえつける。
今食べては来週は生きていない。それはもう、これまでの生活で嫌になるほどに知っている。
次は何処に行こうかな。
森には何もなく、ただ静寂があった。
風が吹くと頭上が騒がしく、雨は騒音で、晴れていれば静寂。曇っていると鳥が喚く。夜には虫が声を奏でる。
近くに落ちていた枝を拾い上げ、立てて、手を放す。左向きに倒れた棒を見て、リュックにご飯を入れて、枝が向いた先——月が沈みゆく方向に歩き始めた。
脚はもう、疲れを、声を発さなかった。
【――声――】
眠い。口から間抜けな声が漏れる。欠伸。
灰色の硬い道を、高く聳える建物を横目に歩き続けた。
幸か不幸か、まだ汚れを知らない服を着ていたから、誰も私に手を差し伸べてはくれなかった。
住宅街————。人の声で溢れ、鴉が啼き、塵が散乱している。
笑い声は外まで響き、アルコールの臭いが充満し、誰かが叫ぶ。
しばらく歩いていると、頭上から耳を劈くような、鋭い高音が響いた。
近くの民家から短い悲鳴が聞こえた。
電線は地に垂れて、家は崩れ、電柱が倒れる。
揺れてる。地震。
いつぶりだろうか、ここまで揺れるのは。
ヒビの入った硬い道に座り込む。私の前を人々が走り去る。
音が震えてる。悲鳴。振り返ると、海が怒声をあげていた。
あ、津波———。
頭ではわかっていたけれど、その怒りを前に脚は震え、立ち上がることができなかった。
「死にたいのかお前!!!」
誰かが叫び、私の袖に汚れをつける。
引き裂かないで――そう願ったのも束の間、私の体が宙を舞った。
一瞬の静寂を経て、私の腹が、生温い布に衝突する。
揺れ。
さっきとは違う、安堵を感じる揺れ。ようやく気づく。
背負われてる。きっと、私を助けるために。
【――請――】
揺れる温もりにしがみつきながら、私はあの頃を思い出していた。
――――――――――――
「早く起きろ、星」
父が静かに言う。
「ん………」
ふわぁ…と欠伸が出る。
それを見た父の表情は、いつにもまして険しかった。
「欠伸、ねぇ……」
新聞を床に放り投げ、椅子から立ち上がった。
私の頬をつねり、一発殴る。
今日は、何回殴られるのかな……。
――――――――――――
「大丈夫、か?意識は、あるか…?」
呼吸を荒くして、私を背負ったまま問う。
大丈夫、そういうと、優しい温もりは再び速度を上げた。
ふと、私は気づく。この人なら――――。
私の願いを、乞うてもいいのかもしれない。
【――西――】
私たちは陽を追いかけて、ただひたすらに、動き続けた。
いつしか、私は彼女の横で走っていた。私たちの背を、月が照らして。世界の終わりのような大災害なのに、何故だか暖かかった。
もう何度転んだかわからない。自分のリュックがどこにあるのかわからない。
この先に何があるのかわからない。向かう先に幸せがあるとは限らない。
それでも私たちは、月に背くように、ただ西へと向かった。
お星さま……私は、この世界が大嫌いです。美しくて、穢れてる。血が、汗が、涙が溢れ、肉は傷つき、肌が抉れ、骨が砕ける。でも。私はこの世界が大好きです。汚れてて、綺麗。皆が、自分のために動き、社会が形成される。だから―――――。
―――世界は滅ぼさないでください、私を生かしてください。
【――清――】
「はぁ…………はぁ………」
頭から、身体から汗を垂らす彼女は、地面にへたり込み、ただ空を眺めていた。
上下する肩が、彼女の疲労を証明し、私は嬉しくなった。
私はもう何十分も、寝たふりをしていた。彼女に背負って欲しかった。安心する背中に、私を乗せてほしかった。
彼女は休憩が終わるたびに、私を背負って歩いた。いつかの時間に、彼女は自分のことを「人間じゃない」と嗤った。
だから人より体力があるし、人に避けられていると。
だから私は笑った。「じゃあ同類だね」
私は彼女の仲間でなければいけなかった。彼女の心を支えなければいけなかった。
でも、この人生で彼女に会う機会はなかった。牢獄に住んでたから。
同時に、彼女は私を救ってくれなかった。来てくれなかった。だから独りだった。
心が淀んでいくのを感じる。
でももう止まれなかった。宛先のない憎悪が、今は只、彼女に向いていた。
彼女は只開けるしかないのだ。私からの手紙を。毒が、ナイフが、爆発物が入ってるかもしれなくとも。
黒塗りになった宛名が、住所が、世界には飛び交っていることを、私は気づいていた。
人々はそれをヒボウチュウショウと呼んだ。発信元の人間が、逆に手紙に溺れてることもあるし、有名な人は動作の一つで手紙が飛んでくる。
サァ……と、水の流れのような、草が風に吹かれたような、そんな音が聞こえた。
私は目覚めた。目が覚めたふりをした。近くには橋が架かり、川が流れていた。橋は壊れていた。
穢れた世界に流れるこの小さな川が、今は愛おしくて、腹が立った。
【――棲――】
廃棄された段ボールを、ただひたすらに集め続けた。日が暮れたら合流して、簡易的な住居を作る約束をしていた。
まだ太陽は、西を眺めていた。暑さは無くて、心地よい朝だった。
遠くに見える繁華街は廃れていて、腐った蔦が、建物を覆い尽くしていた。
塵捨場に散らばった段ボールは、黴が生えているものや、湿気って歪んだものもあったが、片っ端から拾い集めた。
頭上に陽が昇ったころに、私は繁華街へと向かった。
少し長い道のりだったけれど、あの日、町から都市へと走った私には、短く感じた。
私を囲むように聳え立つ建物どもは、その全てが、崩れ、腐り、蔦が生い茂っていた。
硝子の破片が、崩れた石材の破片が、倒れ朽ちた扉が、道に倒れ、落ちていたけれど、靴を得た私には些細なものだった。
ふと入った店には、まだ電気が通っていた。天井に吊るされた、洒落た照明が、淡く弱く、暖かな橙色で床を、私を照らした。
幾つかの建物から、使えそうな素材を拝借した。朽ちた木の板。濡れた段ボール。欠け落ちたタイル。
気づけば、床には私の影が落ちるようになっていた。背後では、燃え盛る太陽が、私に微笑みかけていた。動かない時計を見て、そろそろ戻ろうと思った。
【――蜻――】
最近、日が暮れるまでの時間が早くなった気がする。
紅く染まった空に、何羽かの鴉が飛んでいて、その下には、黄金に輝く芒が広がっていた。
赤蜻蛉が、機械的に飛び続けていた。蟋蟀の鳴き声が、薄暗くなった空に、微かに浮き出た月に挨拶をしていた。
およそ一日ぶりに出会った彼女には、やはり疲労は見えなかった。
今朝見たときには青々と繁っていたその雑木林は、紅に、橙に、黄金に色づいて、舞い落ちる枯葉の焦げ茶色が、地面に生え残った少しの緑が、ただの景色を芸術に昇華させている。
景色に見惚れていて止めていた手を、また動かす。
ようやく簡易住居ができたとき、既に星々は私を見つめていた。
壊れた橋のすぐ近くで、段ボールに包まれて、私たちは眠りについた。
目が覚めたときには、既に彼女は外にいた。
彼女の影は、彼女のほぼ真下に形を成して、私は今が昼頃だと分かった。
つい最近まで、この時間帯は地獄のようだったけれども、今は心地よい暑さだった。
風が吹いて、段ボールの中に一瞬、残留した。
爽やかな秋の空気は、朱く色づいた秋の匂いを私たちの棲み処に齎した。
燦燦たる陽光が、川で釣りをしている彼女を照らした。それは、スポットライトのようだった。
こんな小さな川じゃ、魚もいないだろうに。私がそう思った直後に、彼女は「4匹目ぇ!」と小魚を釣り上げた。
【――醒――】
目が、醒めた。暖かい空気が肺に流れ、苦しい煙草の臭いが鼻を突く。
呼吸が乱れてることに気づいた。頭がまだ、景色を認識していなかった。理解を拒んでいた。
綺麗に磨かれた窓には、青ざめた私の姿が映っていて、そして、夜だった。
深々と降る雪が、秋を拒絶し、”夢”であったと自覚させた。
再び、寝転がる。あの時確かに感じていた、無機質な段ボールの感触が、まだ背中に残っていた。けれど、それはすぐに柔い毛布に飲み込まれた。
ふわっとした布団に物足りなさを感じ、私は起き上がる。
部屋には娯楽がなくて、でも部屋を出たくなかった。兄が、父が、母が、使用人が、その全てが怖かった。彼らは私を好いている。歪んだ想いで。
痕の付いた首が、脚に残る痣が、膨らんだ胸に浮かぶ口吻の痕が、それを物語っていた。きっと、まだ私も知らない傷跡が残っているんだろうなと思った。
ドアに鍵をかけ、耳を当てる。心臓の鼓動と、自分の息の音の中、確かに声は聞こえた。
「それで? 星は本当に死んだのか」
「わたくしのことを疑っていらっしゃいますの?」
一瞬の沈黙。胸に、熱が宿った気がした。
「…いや、そうじゃない。今朝見たとき……あいつが寝返りを打った気がしたんだ」
「で、ですが……! わたくしは間違いなく飲ませましたわ!!」
再び静寂が流れた。私は決意をした。
ソファが軋む音がした。誰かが振り返ったのだろうか。
「本当か? リリア」
「ええ、本当のことでございます。間違いなくお母様は毒を飲ませ、星様は2週間以上全く動いておりません。これは私も見ておりますので、間違いありません」
使用人の声が聞こえた。彼女も敵だった。
私の手が、鍵を開けた。ドアノブに手をかけた。音を立てないように、母の部屋へ向かった。
窓を少し開けて、ベランダへ裸足のまま出た。
冷たく硬い感触が、しばらく触れていた土の温度とは、感触とは違って歩きづらかった。
ここは3階で、彼らが集っているのは2階の大広間だと思うから、私は2階を経由することができなかった。
高く積もった雪を目がけて、私は飛び出した。視界が歪み、刹那、景色は白一色となった。
このまま冷やされていたかったけれど、そうしている暇はないから、私は1階の窓を開けた。ここは鍵が壊れているから、開くのは容易だった。
【――世――】
世界は、静寂に包まれていた。
目醒めたときとはまた違う、荒く乱れた呼吸が、私の鼓動が、この世界に響く、唯一の音だった。
状況にはそぐわない程に冷静な頭で、私は思った。
私は、厭世家だったのかもしれないな。いや……厭邸家だったのかもしれない。でも、私にとっての世界は邸だけに留まっていたのだから、結局、厭世家が一番合う気がする。
目の前には、赤黒い流体がカーペットに染みていた。図体は大きな、父の体が床に寝ていた。
寝息は立てていなかった。
その奥には、二人が、あの日見た”青”よりも顔を青くして、肩を寄せ合っていた。
片方は私の顔を、もう片方は私の手を見ていた。
足にまで液体が流れてきて、私はようやく目の前の光景を理解できた。ああ、そっか。刺したんだ。
手にはナイフが握られていて、それはきっと、1階のキッチンから持ってきたのだろうな、と思った。
何故だか、見えて居る景色全てが、映画のような空想上のものに思えていた。
けれども、長く悶えて天に召した……いや、地獄に落ちた巨体を、私はちゃんと見ていた。特等席で。
世界は、賑やかだった。
窓の外から、赤と青の、鬱陶しいほどに眩しい光が差し込んで、サイレン音が響いて、だけど、それはこの邸に近づくことはなく、去っていった。
あの日、私は家を飛び出したからわかっていた。この邸は、世間的にも厭われていて、誰もが嫌っていることを。
だから、警察も関わらないようにしているんだと。
それはきっと、父が最後に残した、私への希望だったのかもしれないな。
【――製――】
父と母は、私を創った。
汚く乱れた交わりを経て、私は産まれた。
目を劈くような、ただ磨かれただけの白い邸。血を飲んだように紅い、埃の一つもない絨毯。
殆どの窓ガラスには装飾が施され、一部はステンド硝子となって、部屋を照らす。
天井にはシャンデリアが吊るされて、蝋燭が淡く灯を満たしていた。
誰かに作られた空間で、私は怪物どもに創られた。
穢れた営みを経て、”私”が製造された。でも今は、何も恨んでいなかった。だって、もういないのだから。
怪物は、もういないのだ。少なくとも、私にとっての。
私は外に出た。
外に広がる陽光は眩しく、しかし、寒かった。
あの日裸足で駆けだした道をたどって、聖夜の街へとたどり着いた。誰かの悲鳴。あぁ、懐かしい。
結局、正義が何なのかわからなかった。彼らは、彼らにとって正しいことをしてるだけに過ぎなくて、でもそれは、私には正しくなかった。
またしばらくすれば、この街には笑い声が響き、優雅な聖夜を過ごすのだろうな、と感じたのを、今でも覚えている。
湿ったマッチ箱を拾って、短い蝋燭を抱えて、汚れを知らないドレスを纏って、靴を履いて、都市へと走った。
夢の中の話だったのかもしれないけれど、都市には兄がいて、でも今の私には敵わないだろう。
あの数日で経験した、身体への危機は、今も尚甘く纏わりついて。されど、それが私には心地よかった。
【――眚――】
雷鳴が響き、暗雲を稲妻が切り裂いた。轟々と降り続ける雨は相変わらず、並ぶビル群を殴っていた。
窓ガラスに反射した雷は青白くて、暗雲は黒くて、それが綺麗だった。雨は私の肩を、頭を、胸を打ち付けて、隙間に寝転がった野良猫たちが、光の宿っていない瞳で私を見つめた。白く濁った眼の奥には、微かに紫紺が見えた。
黒猫で、だけど背中は羽のように、翼のように白くなっている。誰かが描いた模様のような、不自然な完成度。黄金に輝く眼が、紫紺に堕ちた眼が、私の意識を掴んで離さなかった。
暫く見つめ合っていると、不意に猫が歩きだした。
ビルの隙間を縫うように、狭い道を歩いた。昔からいい身体をしているといわれていたが、これほどまでに自分のスタイルを恨んだことはなかった。豊満な膨らみが壁に擦れるたび、息が漏れた。
猫は、私とは一定の距離を保っていた。それは1ミリもズレることなく、私が抜け出すまで続いた。
そこは、晴れていた。
草が生い茂り、花が咲き、木々が茂り、鳥が囀り、水が流れ、太陽が微笑む。
極楽浄土————。
何処からか出てきた薄い煙が地を這った。煙を、鮮やかな灯が照らした。スポットライトだった。
晴れていたわけじゃなかった。ただの、劇場だ。誰にも気づかれず、私は着席していた。猫は椅子の下に潜っていった。
劇団は、”視えない世界”という作品を演じていた。主人公は目が不自由で、それを理由に虐められて。でも、主人公は魔法使いの一族だったがゆえに、禍を齎して復讐する――バッドエンドのストーリー。
胸が痛んだ。まるで、私のことを言っているみたいで。
【――所為――】
劇場を出た私は、ただ猫についていった。
暗い森を抜け、公園に転がった、壊れた遊具を横目に、夜通し歩いた。
ドレスは脱いで、抱えて歩いた。今日は暑いから、下着で歩くのは心地よかった。
猫はそんな変化も気にせずに、時折こちらを振り返って、歩いていた。
途中で、誰かとすれ違ったけれど、誰も私が見えていなかった。きっと、私が怪物の間に生まれたからだ。全部、あいつらの所為だ。
猫の背に広がった翼模様が、羽ばたいたように見えた。この猫は、誰の所為で眼が濁ったのだろう。私の呪い、なのかもしれない。呪詛斉唱——。呪いを降ろす儀式———。昨夜、邸の図書館で見た情報がフラッシュバックする。
「ごめんね………」
消え入りそうな声で、思わず謝った。猫は、静かに啼いた。
私なんかを生んだ所為で。私が生まれてきちゃった所為で。私を拒んだ所為で。私を愛した所為で。
私は、今日も生きなきゃいけなかった。
【――聖――】
夜の森は、ただ怖かった。
木が騒めき、空が捻れ、地は揺らぐ。木菟の啼声、蟋蟀の唄声、蝙蝠の羽音。川の叫び、草の訴え、花の怒号。黒鳥の泣声、鈴虫の歌声、大神の足音。
毛繕いを終えた猫は、その背に着いた模様が、本当に翼となっていた。
猫はそっと私に近づいて、腿の上で寝息を立てた。張り詰めた翼が胸をくすぐって、恐怖を打ち消した。
ふふっ、と思わず笑いが漏れて、猫の背を撫でた。いつかと同じように、私は睡魔を抱きしめて、深い森へ愛を伝えた。
小鳥の囀り、猫の欠伸、蜻蛉の羽音。
爽やかな朝だった。
蝉の唱。蛙の声。
騒がしい森だった。
狼の遠吠え。
素晴らしい世界だ。
ここが、私にとっての――――
――――本当の、居場所?
聖域——。
ここで育ちたかったなぁ。「臍を噛む」——意味は…なんだっけ?
清々しい程に爽やかな雨に打たれて、私の体が浄化されて。
ドレスが純白になって、下着からは汗が消えた。
猫が、私を見つめていた。ずぶ濡れになった下着は、ほぼ着用していないのと同じだったけれど、ここには愛おしい動物しかいないから気にならなかった。
雲の間から差した一縷の光が、私を照らした。猫が足元で、翼を広げた。
世界で一番、神聖な空間だった。
【――逝――】
日記を閉じて、私は立ち上がった。
懐かしいなぁ。もう、何十年たっただろう。世界はループして、また同じ歴史を繰り返している。
飼っていた猫は、翼の猫は、いつだったか不思議な空間へと逝ってしまった。
あれからいろいろなことがあった。私も一人、娘を授かった。
波打ち際の白いお邸に、私と、娘——月は暮らしている。
もう一人で出かけれるくらいに成長した我が子を、もう十分に歩けなくなった私はいつも羨ましいと思う。
月の兄——誠は、この冬、毎日のようにどこかに出かけている。
私は殺風景な白い部屋で、ベッドに寝転がった。
穢れのない白い服を纏った彼女らが部屋に来る。私は眼を閉じる。
――星、17時22分逝去――
【――狌――】
月は今日も、近くの店で菓子パンを買って、病院へ向かった。
もう15にもなったってのに、母さんはいつも心配してくる。兄ちゃんはどっか行っちゃうし…。
今日は何の話をしようか。そう思って、部屋の前に来て、いつもよりも騒がしいことに気づく。
看護婦さんたちの声が聞こえる。嘘、だよね………?母さん?
肩が上下する。呼吸が荒くなる。足が震える。何も描かれていない扉に、壁に、大きな獣が見えた。
””死””を纏う獣が、私に牙を見せる。短い悲鳴が漏れる。
あたしは菓子パンを放り投げて、邸へと走った。
ごめんなさい、母さん…あたしは…。
涙が溢れる。視界がぼやけて、歪んで、嗚咽が漏れる。
呼吸が苦しくて、でも止まっちゃいけない気がして、せめて母さんに感謝を伝えたくて、頭の中が絡まって、何もわからなかった。
小石を踏んで、血が流れ出す。いつの間にか靴が脱げていたみたいだけれど、気にしていられなかった。
血を、涙を流して、ぐちゃぐちゃの顔のまま走り続けた。
邸につくなり、あたしは泣き叫んだ。階段を駆け上がって、兄さんの部屋に侵入した。誰もいなかった。
母さんの部屋に入った。すごく整っていて、でも引き出しの中はぐちゃぐちゃで、そんなところが好きだった。
【――歳――】
あれから、4年がたった。兄は連続殺人事件の犯人として捕まった。あたしは何も持たず家を出た。
クリスマス・イヴの町は賑わっていて、星々があたしを見つめていて。
あたしは夜が嫌いだ。静かで、暗く、冷たく、何処までも優しい。寒さに震える指先は、微かな暖を求めて街へと向いた。
瞬く星々が、夜空の闇を隠す。
眩い点滅が、寒色の光が、冬の寒さを際立たせていた。
お星さま―――どうか、この世界に幸せを恵んでください。
――セイ――
《完》




