口内のクラスター
赤くどぎつい初秋の斜陽が、カーテンの無い教室の窓列の席へ容赦なく、強靭な負のインパクトを断続的に送り込んでくる。その最窓側の席に物理川、その横には親友のNが座っている。
六限目は世界史の授業。元より二人にとって興味のかけらも無い科目だ。なので始まるともうすぐに眠気覚ましも兼ね、Nは物理川に話しかけていた。
<ああ、眠い。今更レンコンでも無いだろう> <なんだ、レンコンって?•••ああ、リンカーンの事か> <お前、眠くないのか?> <残念、俺は虫歯が痛くってズキズキすんだよ> <ぷっ、どんだけチョコ食ってんだよ。その内俺のオカンみたく糖尿になるぞ>
Nは天下りの知識をひけらかした。だが物理川は更に声を落とし真顔になって応答する。<俺、興味ある事には偏執的でね。調べたのさ、もちAIでね> <何を?> <くおぅら~!おい、そこ、何くっちゃべってんた?>
教壇上からスキンヘッドの盛年教師、悪沢の濁声が二人を捉えた。<問答無用、お前ら廊下に立ってこの時間終わるまで頭、冷やして来い!>
要するに本日のヒストリー•シアターから強制退場させられた形だが、二人にも悪沢にも悪い事ではなかった。今は一斉に授業の始まったばかりだから、他クラスの担任や仲間たちから冷かされる事もない。そこで廊下に出るや早速二人は、何の遠慮もせず教室でしていた話の続きを再開したのだ。
<口の中のクラスター行列Cをさ> <クラスター行列?> Nはまた始まったかと思ったが手遅れだった。<口内のネットワーク理論さ。俺の虫歯はすぐにも抜けてしまうんだろうが、おババやおジジと違い歯周病じゃないから歯槽骨は残るはずだ。て言うと、俺の考えたクラスター行列C(0=<C=<1)は1からやや減って、口内にリンク(歯)を張る余地が少し増えるという事さ> <なんだ、それ?> <口内に柔軟性が出るという事だよ> <何だ、それって結局、治療すんのが面倒だから屁理屈言ってるだけじゃね?>
<お前にも似たような経験あんだろ?> Nは始め何を馬鹿なと思ったが、ふと自分の親父の哀しげな顔が脳裏に浮かんできた。<そういや親父、つい最近、投資で大損したとかこぼしてたっけ>
物理川は我が意を得たり、とばかり言葉を繋げた。<それだよ、それ!お前の父ちゃんは市場全体が熱狂し全員が買っている状態、つまりC(ij)=1の時、もはや新しい資金の入る余地が無く、ラプラシアンのエネルギー伝達の止まった瞬間に買ってしまったんだよ。そしてお決まりで止まった瞬間、相転移つまり大暴落が起こった、という訳さ>
もちろんNには何の事か、分からない。<おい、しったかブッダになるなよ。大体、ラプラシアンってなんだよ?> <そうか、そこから説明しなきゃね。ラプラシアンLはD-Aで求められる行列さ。だからAもDも行列でAを隣接行列、Dを次数行列というんだ。この際だからそれぞれを定義しとくと、まず隣接行列Aというのは、i 行j列の行列A(ij)の成分iとj、つまり点i とjが隣接している時A(ij)=1、隣接していない時A(ij)=0にする。次に次数行列Dは、やはりi 行j列の行列D(ij)の成分i とjが等しい時、D(ij)=D(ii)=d(i)、等しくない時D(ij)=0とする。但しd(i)は点iの次数(iから出ている線の本数)、最後にクラスター行列Cは、i とj間に線を結ぶ余地のある時とない時を、それぞれC(ij)=0、C(ij)=1とするように決める。細かいことはいいけど、そのLに俺の考案したクラスター行列Cを作用させる事で(C•L)可塑性の限界や構造的剛性を浮き彫りに出来るのさ> <ちょっと何、言ってるのかわからん> Nがとぼけた。だが物理川は全く意に介さず話を進めた。<ああ作用させると言ったって、LもCも行列なんだから成分ごとで積を作るんだ。だからC•Lはアダマール積を想定してるね。•••ま、数学的な事はいいけど、要はC(ij)は情報の渋滞、満員御礼の指標になる。だからお前の好きな<ふぉふぉふぉ>はまさにC(ij)=0で、総入れ歯しなきゃなんも食えなくなる>
<だからそれがどうしたっていうんだよ?> <通常のLだけじゃ俺の歯がこれからも急速に抜けていくのか、お前の父ちゃんが破産しちまうのか、今の接続状態しか分からないんだよ。けどな、C•Lを見ることで、負のポテンシャルも可視化されていくんだよ> < 可視化?> <そ、だよ。平たく言やあ、お前のその前歯がいかに強そうでも、株価の絶対に上がりそうな買いが入っても、その時ネットワーク内のCijがΣCij=1なら、もうそれ以上強く高くなる事は出来ないんだよ。それ以上の負荷に耐えられないんだな。だからその余裕ない歯や投資のネットワークに外乱uが入ると、システムはバイパスを作れず崩壊してしまう、という話さ> <ふ~む。確かに最もらしい話ではあるけどさ>
<いや、そうなんだよ。ちなみに何でも良いけど、系に属するLの最小固有値を計算すれば、そのネットワーク内の歯が投資が、どれだけ硬直しているかを数値化出来るんだ> <分かったよ。でもさぁお前、歯もそうだがその性格、ASD性を先にどうにかした方がいいんじゃね?> <気の効いた事、いうじゃん> <だって皆んな知ってるぜ。天知る、地知る、人知る、我知るで知らぬは本人ばかりなりってね>
Nのついこぼした本音で怒るかと思いきや、物理川は全く意に介さず、言葉は更にカスケード状となって溢れてきた。
<ああ俺の場合、小さい頃脳内シナプスの刈り込みが不十分だったせいで、皆んながΣC(ij)=0•5くらいで脳内ネットワークが適度に未飽和なのに、俺のはそれが1で外的ショックに対し極めて弱いのさ。だからちょっとした事でも気になって苦しいんだ。つまりいくらAを調整しようとしても、Lの有用性が全く発揮されず、情報の全体的統合が妨げられてるんだ>
Nはここで物理川の能面のような表情を、しげしげとのぞき込んだ。ところが物理川の方は他人が自分の事をどう思っているかなど、さらさら眼中には無かった。それゆえスッと背伸びして教室の壁時計をにらみ、授業時間がまだ三分の一程残っているのを確認すると、安心したように話しの続きを展開していった。
<ところでNよ、三日前の物理の授業で[干渉縞実験]をやっただろ?> Nもそれはすぐに思い出した。<ああ、あれか?> <そうだ、あれだよ。•••C行列はスリット(制約)の動的な影として機能するんだ。例えば干渉縞のピーク(ハブ候補)に(ノード)点が発生し成長してC(ij)=1に達すると、その領域の波の伝播(拡散)がLにより制限される、するとエネルギー(歯の痛み)は必然的にC(ij)=0の領域、[干渉縞の次のピーク](隣りの歯)へと押し流されるんだ。•••考えてみりゃこれはネットワークが、自己組織化しながら自ら制約Cを作り出し、次の成長ポイントを決定していくという、生命現象そのもののシミュレーションのようには思えないかな?)
Nはなんとも言えぬ渋い笑みを満面に浮かべながら辛辣に応えた。<つまりお前の歯は一本極限まで痛くなると、自動的に隣りの歯もまた痛くなっていくという事か?> <それを言っちゃおしめぇよ>
<要するにだ、俺の考えたクラスター行列CをラプラシアンL(=D-A)に作用させれば、ネットワーク理論を[静止画像の解析]から、[可能性の境界条件の解析]へと進化させられるんだ> <分からん>Nが素直に応じた。
<俺は今、お前に話しながらも猛烈に感動してるんだよ> <一人で勝手にしてろ!> <何がどう繋がっているかのAではなく、どこがもう繋がらないのかCを重視する視点が、きっとリソースの有限な脳、身体、地球環境で極めて有用な指標になってくれると確信してるんだ>
ここでNにも一瞬の閃きが生じた。というよりまず最もな疑問なのだが、それを物理川に聞いてみた。<じゃお前のそのC•Lモデルを使って例えば、[ヒトの老化]を、Cの行列成分CijのトータルΣが徐々に0から1へと変遷していくプロセスと定義したら、その進行を遅らせる為の負のC、余地をこじ開ける操作にはどんな物、事が考えられる?>
物理川はNの質問に対し、ここで無意識に両手をパンと叩いた。だがそれが極めてまずかった。廊下の話し声が教室内へ漏れ出ていたのに輪を掛け、鋭い破裂音に悪沢の堪忍袋も破裂してしまったからだ。
教室のドアが俄かに開くと、スキンヘッドに青筋を幾重にも浮かべた悪沢が、仁王の形相て二人の前に立ちはだかった。そして早口にまくしたてた。
<お前ら、歯を食いしばれ!> と言う間も無く、やや擦り切れ気味な皮スリッパの踵で、二人の頬を引っ叩く。
だがさも痛そうに顔をしかめたNに対し、物理川はあくまで無表情て一言、声ならぬ声でつぶやいた。(これで間違いなく、口内ネットワークのクラスター係数は1未満になったはずだ!)




