第12話:連鎖の代償 ―崩落する九龍の檻―
空中執務室『翠風宮』の演算システムを、因果律の操作によって逆流させたゼノス。
八部衆の一角、シエラ・ヴァン・ロイスは、一介のコンサルタントに全財産をハッキングされるという、九龍の歴史上ありえない屈辱を味わいます。
しかし、彼女は止まりません。「経済の敗北」を「物理的な抹殺」で塗り替えるべく、九龍の下層区そのものを崩落させる禁じ手へと踏み切ります。
「――私の数字を、汚したわね。名もなき、鼠風情が」
九龍の上空三千メートル。
傾き、火花を散らす『翠風宮』の玉座で、シエラは裂けたチャイナドレスの裾も構わず立ち上がった。彼女の背後にある巨大な仏像型サーバーユニットは、ゼノスが流し込んだ論理ウイルスの高熱によって、どろどろと黄金色の液体となって融け落ちている。
「全セクターの安全ロックを強制解除しなさい。……私が手に入れられない市場なら、九龍ごと、塵に帰してあげるわ」
シエラが手元の端末を、血が滲むほどの力で叩いた。
その瞬間、九龍という巨大な「鉄の街」が悲鳴を上げた。
ビルとビルを繋ぎ、構造を支えていた巨大な電磁ボルトが一斉に解放される。
数千万人が住まう中層区の床が、凄まじい轟音と共に、ゼノスたちのいる最下層へと向かって自由落下を始めたのだ。
「ゼノスさん! 上、上が落ちてきます!!」
凛が絶叫し、空を仰ぐ。
見上げる視界を埋め尽くすのは、数万トンの鉄塊と、そこに住む人々の絶望。
「狂っている……。資産を失ったからといって、自らの統治区そのものを物理的に破壊するなんて……! これが、これが世界の頂点に立つ者のやり方か!」
九条蓮が、震える手で崩落シミュレーションを弾き出す。
「九条。感情で計算を濁らせるな。……この崩落、食い止められるか?」
ゼノスの問いに、九条は一瞬言葉を詰まらせ、それから血を吐くような思いで叫んだ。
「無理だ! 物理的な質量が大きすぎる。いくら君の魔法でも、落ちてくる『現実』を止めることはできない!」
「……ならば、現実の『解釈』を変えればいい」
ゼノスは、爆風と埃が舞う中で、静かに腕を組んだ。
彼の黄金の瞳には、落ちてくる鉄塊の「重心」と、そこに絡みつく無数の「情報の糸」が、光り輝く格子状の幾何学として視えていた。
「九条。お前は、この街のエネルギー供給網をジャックしろ。一ノ瀬。お前は今すぐSNSを立ち上げ、九龍の全住民に『この崩落は、シエラによる資産隠蔽のテロだ』と拡散しろ。人々の『怒り』を一点に集めるんだ」
「えっ? 怒りを……? それで何が――」
「いいからやれ! 感情という不確定要素こそが、物理法則を捻じ曲げる唯一の変数だ!」
ゼノスの咆哮に押され、二人が必死に端末を叩く。
九龍中に、シエラの暴挙を告発する動画と真実が、燎原の火のごとく広がっていく。数千万人の憎悪が、不可視の圧力となって空気を震わせ始めた。
「――【因果重合・鉄の連鎖】」
ゼノスが地面に突き立てた万年筆が、限界を超えた圧力で真っ二つに折れた。
だが、その瞬間。
九条が操作する送電網から、九龍中の電力が一点に収束し、落ちてくる中層区の底面に「巨大な電磁反発層」を形成した。
さらに、住民たちの強烈な「拒絶」の意志が、ゼノスの魔導幾何学を介して物理的な斥力へと変換される。
――ギィィィィィィィィン!!
耳を潰さんばかりの金属音が響き、落下していた数万トンの構造物が、ゼノスたちの頭上わずか十メートルのところで、ピタリと静止した。
空中に、数千万の「意志」に支えられた、鉄の天井が出来上がったのだ。
「……止まった……。本当に、止めてしまったのか……」
九条が腰を抜かし、座り込む。
「いや、まだだ。……一ノ瀬、上を見ていろ」
ゼノスが指差す先。
崩落を免れた中層区の影から、一隻の、不気味なほど「静かな」潜水艦のような飛行艇が姿を現した。
シエラの派手な翠風宮とは対照的な、漆黒の船体。
「……あれは?」
「八部衆が二人目。……【水】のミハイル・羅。シエラの醜態を始末しに来たか」
漆黒の船体から、一人の男の声が、九龍中のすべてのスピーカーから「水」が染み出すような滑らかさで流れた。
『――シエラ。風は吹き荒れ、そして去るもの。……後の濁り(にごり)は、私が沈めよう』
ミハイル・羅。
九龍の地下、幾千ものサーバーが眠る「冷却水の海」を拠点とし、世界中の情報を「汚染」することで支配する、情報の錬金術師。
シエラのような派手な暴力ではない。彼は、人々の記憶と真実を、底なしの情報の沼に沈めることで、存在そのものを抹消する。
ミハイルの船が放った青い光が、空中に停止していた鉄塊を包み込んだ。
すると、あんなに強固だった住民たちの「意志」の連鎖が、霧が晴れるように解けていく。
「な、何!? 住民たちの怒りのコメントが、次々と消されて……別の『感動的なニュース』に書き換えられてる!? 私のアカウントもロックされた!」
凛が悲鳴を上げる。
「……真実を、情報の海に溺れさせたか。見事な沈黙だ」
ゼノスは、空中に漂う青い粒子を見つめ、不敵に口角を上げた。
ミハイルの介入により、シエラの暴挙は「感動的な避難訓練」として歴史から修正されようとしていた。
「ミハイル。お前が情報の海を支配するなら、私はその底に風穴を開けてやろう。……九条、一ノ瀬。次は地下だ。太陽の光さえ届かない、情報の墓場へ降りるぞ」
九龍の空には、平穏を装った偽りの光が戻りつつあった。
だが、その地下深くでは、真実という名の「重石」を巡る、さらなる激戦が始まろうとしていた。
第12話をお読みいただきありがとうございます!
シエラによる物理的な破壊を、数千万人の「意志」と「電力」を直結させて受け止めるという、超大規模な防衛劇でした。
そして、物語の中に自然に現れた次なる八部衆、ミハイル・羅。
派手な物理破壊のシエラに対し、ミハイルは「情報の改ざん」という、より現代的で陰湿な力を持っています。ゼノスたちの「成功した」という事実さえも、彼は情報の海に沈めて無効化しようとします。
「物理的な崩落を止めるシーン、鳥肌が立った!」「ミハイルの不気味さがすごい……」
と思っていただけましたら、ぜひ
・ブックマーク登録
・下の【☆☆☆☆☆】評価
をよろしくお願いいたします!
第1章の時よりもスケールアップした、本格的な軍師の戦いにご期待ください。
次回予告
九龍の地下深層。そこは、世界中の「消されたデータ」が冷却水の底に沈む巨大な墓場だった。
ミハイルが仕掛ける、偽りの情報の渦。
ゼノスは自らの意識を情報の海へとダイブさせ、ミハイルとの「一対一の対局」に挑む!
第13話:『情報の深淵 ―冷却水の底に眠る遺言―』




