042話「竜人の見送り」
「………。」
いつもと違うけど懐かしい匂い。それが違和感となり、私の目を覚まさせた。耳を澄ませば朝の鳥の声、そして部屋を温めるストーブの音だった。重ねがけの布団は私の体温を包み込み、同時に私を布団から逃がさないようにしている。落ち着く匂いに、再び眠りにつこうと瞼を閉じる。
「お母様?」
けどすぐに理性的になって目の前を見る。昨晩までそこに姿があった母はどこにもいない。まるで真夜中に母親の行方を探す幼子のように、私はひどく動揺して布団を飛び出した。もしくは、どこかへ行ってしまった幼子の心境だったのかもしれない。
耳を澄ませながら呼吸がだんだんと荒くなり、母を探す。終わるには、終わるにはあまりにもあっけなくて早すぎる。
(私はまだ何もしていない……!)
危機感を抱いて一階へと階段を走り下りる。そしてリビングの扉を開けると。
「おはよう、ラナ。」
「…………っ、!」
そこには何も変わらない母の姿があった。その体は痩せ細っていて、今にも倒れそうである。伸ばした髪は最低限の手入れだけがされていて、昨日の月明かりで見た時よりも、陽の光に当てられた彼女の姿はより酷く見える。でもそれでも、生きてその場にいることは変わりない。
この目に映る光景は夢じゃない。
「………は。」
私は安心した反動で、今にも崩れ落ちそうになる。母はそんな私の姿を見てギョッとし、料理の手を止めて私の元へと駆けてくる。本当に見た目以上にすごい人だと驚かされる。
「だ、大丈夫?!」
「大丈夫です。その、お母様の方こそ、お元気そうで。」
「………うん。今日は体が少し楽だから。ラナもいるし、せっかくだから朝食でも、って。」
「………。」
見た目以上に心は頑強である。特に母は昔と全く変わらない声色で話している。昨日見た姿がまるで嘘みたいに、今ははしゃぎまくっているのだ。私はなんとも言えない感情のまま、母の手を取って久しぶりのリビングのダイニングテーブルへと座る。
「………どうしたの、さっきは?」
「すみません。お母様が急にいなくなっていたので、何かと。」
「あれ、私そんなに元気ないように見えた?」
「はい。それはもう、死が目前に迫っているほどに。」
「……そ、そんなに?」
「鏡を見てください。幽霊みたいですよ。」
「あー、確かにね。でもこれは意外と見た目だけだよ。体はほら、まだまだ全然。」
私の耳は、声色から感情まで見通すことができる。だから母が嘘をついているか、本当に言っているのかわかるのだが、おかしいことに母の言っている言葉は紛れもなく本当である。
「……。」
「心配してくれているのはわかってるけど、大丈夫だから。ラナはラナの道を進んで。」
「はい。」
昨日も同じような言葉を聞いた。けれど今の私は、いくら考えても自分の道なんてことは考えられない。学園に入って今まで楽しいことはいくらでもあった、やるべきこともいくらでもあった。でもそれらを全て取り込んで歩いてきただけだ。そこには自主性なんてものはない。あるのは、とてつもない生への義務感だった。
私が生きてなすべきことは、父を見つけ出して、もう一度家族三人で手を繋いで歩くこと。そんな些細な幸せのために、私は今まで困難に立ち向かえていた。
でも、じゃあ、それらがなかったら私は一体何が残るのか。何も残らず、責任を失った私は、結局何も選択肢がない、何も選択できない自分になるだろう。
(そんな、恐怖心だけがある。だから──お母様、ごめんなさい。)
私は、貴方が本当に望む存在にはなれない。
「はい、朝ごはん。一人暮らしで、毎日しっかり朝ごはん食べてる?」
「はい。朝ごはんを食べることは、活力につながりますから。」
「それはよかった。私は一人の時は、毎朝お金が惜しくてご飯を抜いてた時があったから。」
「………お父様と会ってからは?」
「なくなったよ。私もお父様の料理の虜になっちゃってたから。」
「……。」
お父様が料理をしていた話は、母からよく聞いていた。なんでも父の方が母より料理がうまくて、母は父に料理を教わったのだとか。
「ラナは、毎日自分でご飯作ってるんだっけ?」
「はい。自炊の方が節約もできますので。」
「……偉いなぁ。昔の私なんて、自分で作るなんて考えもしなかったのに。」
「お父様が作ってくれていたのなら、いいのでは?」
「うん。でもラナが生まれてからは、流石に私一人で作れるようにならないとね。お父様はいろいろ忙しいところもあったから。」
幼い頃の思い出ではあるけど、父は母のことをすごく気遣っていた。よその家で聞こえてくる父と母の光景とは少し違って、父が家事に積極的だった。ただ同時に、母も父に負けじと家事に積極的だった。
結果的にそのスキルというか姿勢が私にも受け継がれたのか、私もそのあたりをそつなくこなせる程度の能力はある。
「……今日は一人で来たの?」
「いえ、学友と後輩たちと共に。」
「そっか! なら──早めに朝ごはんを食べないと、かもね。」
「そうですね。」
正直、この時間が名残惜しい。でもここにずっといてしまったら、私はきっと安心しきった状態になってしまう。それだけは避けたい。常に自分を追い詰めておかなければ、自分が甘えていると思ってしまうから。
「ごちそうさまでした。」
「はい。服はそこにあるから。」
「あ、いつの間にかパジャマ。」
「お母様が着替えさせておいたんだよ。」
「すみません、気づかなくて。」
「ううん。ラナでも、少しおっちょこちょいなところがあるって安心した。」
「私は──そこまで完璧じゃありません。」
「でも、私からしてみたら、ラナは本当に偉いよ。」
「………なら私からは、お母様は本当によく頑張っていると思います。尊敬しています。」
「もー。」
パジャマを脱ぎ、外着へと着替える。あとはリビングを出て玄関で靴を履き、外に出れば、ここに帰ってくるのはあと数ヶ月後になる。母は家の外へは出られない。こうして家の中で歩けているだけでも、奇跡に近いはずだ。
「また、何ヶ月か先か。」
「はい。できる限り帰ってきます。」
「いいよ、いいよ。学園で楽しんできて。今日聞いた話でも十分だから、何か最後に聞きたいこととかある?」
「………そうですね。」
別れ際に重たい質問なんてしたくない。なら、できる限り軽いものがいい。そう思った私は、ふと母の顔から少し視線を落とし、胸へと向ける。そこにはクリス以下、私以上の膨らみがある。
「お母様、胸を大きくするためには、どうするべきですか?」
「──────へ。」
「私も、胸が大きい方がいいと思います。もちろん剣を振るう時だけではなく、その、同学年と比べると、あまりにも差があるので。」
「あ、あー! なるほどね、はぁよかったぁ。」
「?」
「あ、大きくなる方法だっけ? えーと、」
「やはり個人差なのでしょうか?」
「い、いや、そういうわけじゃ──。」
「そうなのですか?」
「う、うーん。その………。」
母はとても言いづらそうにしている。もしかしたら何か大きくする方法を知っているのかもしれない。ただ、なんだろう。この、聞いてはいけない質問をしてしまった感じは。
「やっぱり一番は、よく食べて、よく眠る! かな?」
「やはりそうですか。」
何か誤魔化されたような気もするが、母の言葉に嘘はない。それと、なんとなくわかっていた答えを返されて、少しがっかりだ。やはり母も母で完璧とは程遠い。本人の言っている通り、近道なんてものはないのだろう。
「やっぱり、急に大きくなるなんてないんですよね。」
「……………………。」
「お母様?」
「なんでもないよ。その、うん。気づいたら大きくなってるから、あんまり気にしなくていいよ! ほら、エルザードだって今も昔も何も変わらないでしょ?」
「は、はい。」
それを言っていいのだろうかと思いつつ、返事をする。
「そんな感じだから、大丈夫。きっとラナも大きくなるから!」
「はい。ありがとうございます!」
私は母に手を振って家を出た。母はこの扉の向こう側にいる。でも、ここから私が歩む道はきっとまだまだ先だ。それを考えると、このどうしようもなく近くて遠い距離感が、切なくなる。
「。」
でも私はそれらを振り切って、エルザードおばあちゃんの店へと歩き始める。集合時間前ではあるが、ここまで寝食を共にしてきた旅行の仲間たちは、きっと待っているはずだ。
「───てのことがあっての!」
「えぇ!!」
「あらあら。」
店の近くまで来ると、エルザードおばあちゃんと仲間たちが何やら面白そうな話をして、店の前で待っていた。私抜きに楽しそうな話をしているので、何やらと近づいて見てみれば。
「これはラナが初めて苦手な野菜を食べた写真での。あの頃は両親と我ら合わせて四人で応援したものじゃ!」
「ラナ先輩って、野菜苦手だったんですか!?」
「それはもちろん。他にも可愛いところがあっての!」
「ちょっ─────エルザードおばあちゃん!!!」
ただの紙には、昔の私と思しき写真が投射されている。しかもそれを利用して、エルザードおばあちゃんは私の昔の出来事を話している。今の私からでは想像もつかない、幼い私の恥ずかしい話だ。とてもじゃないが、人に見せられる話でもない!
「おぉ、噂をすれば!」
すぐさま近づいて紙を奪い取る。一安心とため息を吐こうとするが、先ほどまで鮮明に映っていた私の姿は、紙のどこにもなかった。
「え!」
「ざんねーん。これは写真じゃないぞ!」
「なっ!」
「これは竜力を利用した投射能力。お主も知っておるじゃろう? あーあ、写真投射機がなければ、今頃我だけがこの技術の先駆け独占中じゃったのに。あのチート勇者めには、本当に厄介されてばっかりじゃ!」
「こんなことのために!」
「こんなことじゃからよ。力を持つものは、それをどう使おうが構わんのじゃ。誰かを傷つけるものでなければ、尚更な!」
「訂正してください、限度があります! クリス、何か言ったらどうですか?」
「ごめんなさい、ラナさん。私も人間ですから、優劣はあるのです。ですので、私のためにも、ラナさんが少し傷ついてしまうのは、本当に仕方のないこと。可哀想です。涙が出ます!」
「嘘泣きでそんなこと言われても、信憑性がありません!!」
「ほほー、誰も我を止められんぞ!」
「っ!」
ラプもプリエルもクリスも、私の面白話をネタにして助けてはくれない。そしてエルザードおばあちゃんは、こういう時、本当にやめてくれない人だ。それがわかっているのなら、やることは一つだけ。
「エルザードおばあちゃん! なら勝負はどうですか!!」
「…………ほぉ!」
私の言葉に、不敵な笑みを浮かべて待っていたと言わんばかりである。おばあちゃんは昔から実力主義だ。自分より何か上回る点が一つだけあれば、その者に従う。恩を一生にして返すタイプの人だ。
だからこの場で、私がエルザードおばあちゃんより勝るものがあれば、その先はそれを取引材料として、私の過去の恥ずかしい話を一生しない契約を結べる。
「なんの勝負が良いかの?」
「………エルザードおばあちゃんが好きなのでいいよ。」
「言ったな! なら一つだけじゃろう!」
私とエルザードおばあちゃん、エルフル、そしてクリスとラプとプリエルの六人は、少し離れた雪原へと足を運んだ。周囲一帯には何もない。戦闘には、これでもかというほど適した場所だ。
「後悔するでないぞ。我の得意なことは戦闘じゃ!」
「わかってる。」
そこは裁縫じゃないのかと言いたいところだが、そうではない。平等に競い合い、単純で優劣がつきやすい場合の得意なことが戦闘だということだろう。
そして私がエルザードおばあちゃんに選択を促したのは、彼女が自分から言った言葉は必ず曲げないという性質があるからだ。
こう見えてエルザードおばあちゃんはいろいろと卑怯なところがある。言葉遊びが無駄に上手いため、「言ってないことは言ってない」とされる可能性が高い。
それでもこの戦闘には嘘偽りが存在しない。勝敗だけが全てを決し、そしてエルザードおばあちゃんが最も力を測りやすいステージだ。
エルフルは審判に回っている。エルフルもおばあちゃんと同じく、今まで幾度となくこういう機会をやっているので任せてもらった。三人はもちろん観戦だ。この真剣勝負に手を出してもらってはいけない。
「制限時間は3分。その間、しのぎ切ってみせよ。」
「了解。」
「それじゃあ、レディ────ゴー!!」
エルザードおばあちゃんは大きく羽を広げ、飛び上がって空中から真っ直ぐこちらに飛んでくる。予想はしていたが、エルザードおばあちゃんの先手はダイナミックな攻撃からの速攻的な戦法。
ゆっくりとこちらは動きつつ、エルザードおばあちゃんの攻撃を避け、確かなチャンスを狙ってみせる。
「っ!!」
竜腕が、私の回避先を覆い尽くすほど肥大化して押し潰そうとする。相変わらず容赦のないところは性格だけでなく、その戦闘スタイルからも見て取れる。すぐさま回避して、突撃に対する反撃の構えを用意する。
案の定、爆発のように膨れ上がった雪煙の中から、エルザードおばあちゃんは豪速球のように飛んできて、私の腕を掴もうとする。だがそれも、しっかりと見極めているのなら、こちらの攻撃の方が先だ。プラノード抜刀術で、その竜腕が私の体に触れるよりも先に、腕を叩き落とす。
「───ッか、いったいノォ!!!!!!!」
「!」
エルザードおばあちゃんの怒りの追撃。尻尾攻撃をガードでかろうじて受けきる。流石の耐久力だ。確実に麻痺するところを狙っての攻撃だったにも関わらず、そこから追加の攻撃ができるあたり、感服せざるを得ない。
「最近の木剣はとんでもないの! 本当にそれ、木か!?」
「生憎、武器だけじゃないから!」
身体強化を駆使して、攻めの一手に転じる。エルザードおばあちゃんの身体能力と防御能力は、私よりも遥かに上だ。だがそれでも、人型であることには変わりない。なら、魔獣や魔物に比べて、対人の時のルールが適用できる。
先ほども手の甲あたりを思いっきり攻撃したことによって痺れていた。だから弱点も、自然と人と同じになっている。
「こいっ!!」
「!」
相手の予想通りの攻撃。最初はもちろん両竜腕――と見せかけて、剣を翻して足元を狙う。
狙うはスネ。
(おばあちゃんには悪いけど、足は当分痺れさせてもらう。)
「っぬぉ、」
さっきの攻撃で、おばあちゃんは抜刀術を完全に見切れるほどの動体視力を、まだ獲得していない。だから俊足の切り返しでスネに一撃を与えると、エルザードおばあちゃんは思った通り、足が痺れて体の自由が一旦止まった。
「はっ!!」
体が力んでいないということは、防御はその鱗だけになる。私はまっすぐな突きで、エルザードおばあちゃんの両腕もろとも奥へと押し出す。
「っぐ!!」
「そこっ!」
あとは肩から腰にかけての斜め打ち。だけだった狙いをつけた私は、わざとらしい回転動作を加えて威力を増す。だが、その斜線上にあったのは、肩でも胴体でもなく、頭であった。
「あぐ!!」
「っ!」
「───ッッぺ!」
まさかまさかだ。エルザードおばあちゃんは、私の剣の軌道を見切り、口で木剣の刀身部分に噛みつき、そのまま首の力だけで私を空中へと押し上げ、吹き飛ばした。
体が宙を舞い、上下がわからない中、全方位に落下を軽減する魔術式を展開し、体を地面へと擦り合わせながら、落下の衝撃をなんとかする。
「惜しかったなぁ! 我をただの脳筋と甘く見た罰じゃよ! 体が武器なんじゃ、見せかけに囚われるでないぞ……!」
「っ!」
見た目は人間、弱点は人間。それなのに、ところどころは竜としての知識と力を持っている。改めて、かなり戦いにくい相手だと自覚させられる。
「さぁ、今度はどうくる!」
「──!」
私はおばあちゃんの煽りを気にも留めず、考えを練りながら攻防を開始した。だが結果的に、様々な手法を試してみたものの、どれもエルザードおばあちゃんの弱点を突くことはできるが、決定打を与えることはできない。終始、遊ばれているような気持ちのまま、戦いは3分を過ぎていった。
「はぁ、はぁ、はぁ!」
「むむ、我の負けじゃの。さすがは母親譲りのスタミナじゃ。あれだけ攻め立てられても、我が完璧に攻撃に転じることなく迎えるとは。」
「………っ。」
息も切れて体力も限界であるが、私の心は全然納得していなかった。エルザードおばあちゃんのあまりにも余裕な態度に、苛立ちさえ覚えてしまう。
「じゃが、本当に強くなったの───あの最初は、こんな子供が、と思うほどじゃったというのに。」
「────。」
「悔しいじゃろうが、ほれ、立たんか?」
「はい。」
私はおばあちゃんの手を取り、再び立ち上がる。立つと、少しクラッとし始めていた。今まで命を脅かす戦いも、ただの練習試合も何回かこなしてきたはずなのに、やっぱりエルザードおばあちゃんが相手だと、なんというか一味も二味も違いすぎる。
「約束通り、お主の黒歴史はもう暴かんよ。こんなに強くなったんじゃ──子供みたいに世話を焼いておったら迷惑じゃろう?」
「はい。全くです。」
「……じゃが、服はたまに送らせてもらうからの。お主は母親ほどじゃないにしろ、まだまだセンスが甘い!」




