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041話「唯一の家族」




 実家への帰り道、私は幻覚を見た。それは昔、ここの道を幾度も通った自分の幻覚だった。記憶の中の自分は何も知らなかった。記憶の中の自分は笑顔のまま父に手を引かれて街外れの平原へと遊びに行っていた。春には満開の花畑になり、そこでおばあちゃんと一緒に花の冠を作って父にプレゼントしていた。

 だが、そんな未来はもうない。私が全て、私が全て輝かしい未来を壊してしまったせいだ。


 「………。」


 家の前に辿り着き、人の気配すらない扉の前で私は大きくため息をついた。前来た時と何も変わってない、それはそうだ。この悲しみの世界は私が作ったからだ。静かな街、そして静かな家。この寂しい世界でも生きている人はいる。

 それに酷い申し訳なさを感じながら、私は手に持っていた鍵で扉を開け、中へと入る。


 ただいまは言わなかった。


 家の中は凍りつくように寒かった。外の世界の温度をそのまま収めて閉じ込めているように寒かった。人がいた痕跡はある。玄関から目に見える範囲まで片付けは済んでいて、埃一つない。きっと二人が世話を焼いてくれたのだろうと心の底から感謝しつつ、靴を脱ぎ廊下を歩いていく。通り過ぎる部屋部屋に明かりはない。ストーブが必要なくらい寒いリビングですら、音はせず光も何もない。


 こんな暗闇を毎日のように過ごしているのかと思うと胸が張り裂けそうになる。全て自分が犯したこと、全て自分がやった結末がこの結果を招いた。だからここには帰りたくない。でもそれはエゴだ。私は私としてここに帰らなければならない。だって待っていてくれる人がいるから。


 「………。」


 なんとなくそんな気がするという理由で階段を上がる。一階にはいない。きっと前と同じように、少しも歩けずベッドに寝たきりなのだろうと考える。ただ真っ暗で寒すぎる階段を上がるたびに、自分の罪を自覚するみたいに嗚咽が走る。

 グッと口にも出さず、喉元まで競り上がってくる邪悪な考えを押し殺し、階段を上り切る。


 そして懐かしいあの部屋へと、私は入っていった。


 「………ただいま。お母様。」


 「…………、ラナ?」


 「うん。」


 「───ラナ…! おかえり。」


 母は前見た時より衰弱していた。かろうじて笑みを浮かべることはできるが、顔から痩せ細った具合がよく見て取れる。獣人族のどうしようもない特性のせいで、母は父がいなくなってからこうなってしまった。最初は空元気で励ましていた姿も、今はそんな面影すら感じられない。まるで死を間近にした老人のようにか細い。


 それだというのに母は、いつもと変わらないように私に微笑みかけてくれた。私はそれが泣きそうなくらい嬉しかった。


 「お母様、」


 「……エルフルから聞いてたよ。帰ってくるって。どう? 学園は楽しい?」


 「はい。とても。」


 「そっか……はぁ、ごめんね。お母様こんなになっちゃって───本当はすっごく抱きしめてあげたいのに。」


 「できます。抱きしめることくらい。」


 私はベッドから動けない母の上にゆっくりと身体を近づけ、その体温を感じる。見た目以上に酷かった。人がする体温ではなかった。お日様のように、それでいて胸の内に宿るものは太陽のように暖かかった母の体温は、今やどこにもなかった。それをひどく実感して、胸に棘が刺さったみたいな鋭い痛みを感じる。


 「大きくなったね。まだ私の背には届かないけど。」


 「はい。お母様にはまだまだ全然。」


 そうだ。私は母と違って全然弱いままだ。


 「……よいっしょ、」


 「お母様。」


 「ふふ、娘の前なんだから少しは頑張らないと。」


 母はそう言って、きっと起き上がることすら辛いのに上半身を上げて私の顔に手を置いた。そしてもう片方の手で頭を撫で始めた。もうそこに筋肉はなく、皮と骨のように細い肉体だけがそこにあった。


 月光に照らされ、母の顔がよく見える。それは酷く痩せこけていて、まるでミイラのようだった。私は泣かまいと心の中で決めていたのにも関わらず、涙が出てきそうになる。


 「もう、どうしたの?」


 「ご、ごめんなさい。お母様。」


 「……ラナ、自分を責めないで──いつも言ってるでしょ。お母様のことは何も心配いらないで、ラナはラナのしたいことをして。」


 「…………っ。」


 その優しい言葉が、まるで呪いのように刺さる。母の言っている言葉は何もおかしくない。母の言っている言葉はとても優しくて暖かくて、罪のない言葉だ。それを私は罪状のように受け取ることしかできない。そんな自分にも嫌悪感を抱きつつ、母にお礼の一言すら伝えられない自分をさらに責め立てる。


 全て、本当に私が悪いのだと。


 「………泣きたかったら泣いていいんだよ。だって私はラナのお母様だから。」


 「っ。いいえ、私は!」


 「じゃあ泣かないように、私がこうしているから、学園での思い出を話してくれない?」


 「はい。私でよければ喜んで。」


 私は不安定な呼吸と心のまま、母の肩で学園の思い出を語った。だがその脳裏には、あのことばかりがずっとよぎっていた。私が懺悔をする理由、私が自分のことを罪人であり咎人であると何よりも自覚する理由。


 月明かりの影に隠れた、私の、母の悲しい出来事を。


 それは私が10歳の頃の出来事だった。父は私と母を連れてピクニックに行った。とてもよく晴れた日だった。平原ではなく森の中という、いささか変わった場所でピクニックを行った。いつもと違って眩しい陽光が燦々と輝く地ではなく、森の木々が揺れて私に自然の匂いと音を届けてくれる感覚はとても新鮮だった。


 父が私に、この場所は気に入ったかどうか尋ね、


 『うん!』


 私はこれに満面の笑みで返した。父も母も私のこの反応に心底安心したのか、喜んでいた。


 実のところ、その前日に私は夢で父が消えて、母と私が泣いて泣いて途方もなくなる夢を見ていた。その光景はあまりにリアルで、そして今から起こるんじゃないかという変な直感までもがあった。そのせいで私は朝から元気がなかった。いつも立っている耳が、少しだけ落ち込んでいた。

 今にして思えば、私を気遣ってのこの行動だったのだと思う。


 そして私たちはピクニックを一通り楽しみ、三人で手を繋ぎながら森を散策した。父と母は私に冒険譚を聞かせてくれた。父はどんなところでどんなことがあったのか、自分の経験を元に語ってくれて、私はそれを聞くのが何よりも楽しかった。母は毎回の如く照れくさそうにしていた。きっと父にとってはいい思い出で、母にとっては少し照れてしまうような、そんな穏やかなものだったのだろう。


 何事もなく平和で森を歩いていたら──ただ、それも長くは続かなかった。


 私はどんなことであれ、父と母に相談するべきだったのだ。あの夢がどこまでもリアルで、そしてどんなに誤魔化しても、いつも影のようについて回る厄介な予知夢であることを、父と母に言っておくべきだった。


 『ラナ!!』


 何が起こったか、今でもわからないことがある。黒い渦のようなものが私を飲み込もうとして、父がそれを押し除けて、そして黒い、ドス黒い暗黒の渦に飲み込まれてしまった。

 何もわからなかった。理解ができなかった。頭がその事実の理解を拒んでいた。突然のことすぎて、何が起こったのか理解できなかった。


 ただ、その明確な悪意があった渦が父を殺したと錯覚させるには十分だった。


 そこから先の出来事はあやふやだ。父はその渦に飲み込まれ、母はいろんな人たちと相談しながら、父の居場所はどこかと探したが、本当にいろんな人が母に協力してくれた。見るからにすごそうな人たちが何人も力を貸してくれた。でも、いずれも父を見つけ出すことは叶わなかった。


 眠れない夜が続く中、母と誰かの会話が耳に入り込んできた。


 『ゼルはきっと別の次元に飛ばされたのかもしれない。最近、よく起こっていることだ。』


 『別の次元って。』


 『こちらからの干渉をなんとか始める。ただ、ゼルが向こう側に行って生きているのかどうかはわからない。』


 『─────』


 その時、母は何も言わなかった。だからそれに希望を見出しているのか、それとも絶望の淵で完全に心が壊れてしまったのか、どうかわからない。ただただ、わかったことは。


 (お父様………。)


 私が、私があの時何も起こさなかったから、こんな結末になった。ということだけだった。


 「お母様、」


 「………ごめん、寝ていた?」


 「はい。少しだけですが。」


 「そっか、ごめんね。最近こんな感じですぐ眠くなっちゃって。」


 「いえ。」


 「………ラナ、」


 「はい?」


 「こっち。」


 母は私を近くに寄せて、そして頭を撫でてくれた。先ほどから何回も行われているこの行為。母の手は昔と違って、本当に弱くなった。父が優しく撫でてくれたのに対して、母は私のことを少し強めに撫でてくれた。だが今や、父の時の感触よりも弱々しい。


 「ラナ。ごめんね、不甲斐ないお母様で。」


 「…………っ、いいえ。貴方は私の最高のお母様ですから。」


 母の同情を求めるような声に、真っ向から反論することができなかった。私は罪人だ。同情なんかしない。同情なんてできやしない。同情なんてしてはならない。それが私の罰だ。

 私が母にしてやれること、それは──


 (お父様を見つけて、もう一度あの陽の元に。)


 もう一度、この人の愛する人を見つけることだ。


 「お母様、」


 「なに?」


 「今夜は一緒に暖を取ってもよろしいですか?」


 「うん。いいよ。ラナは私の大切な大切な宝物なんだから。」


 母は冷たい。部屋も、さっきストーブをつけたばかりで暖かくない。月明かりは、ただただ冷徹に私たち二人を見ているだけなのだろう。

 でも、それでも私はこの悲しみの心とは正反対の温かい体を持って、母のか細い体を温める薪になる。


 私の全ては、母にもう一度あの暖かさを取り戻させるための贄なのだから。




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