035話「冬休み九、」
クリスが準備をするという話から次の日、昨日は旅行先に来て初めてゆったりとした時間を味わった。いつも、何かやらなければならないという気分に駆られて王都の散策や次はどこへ行くかの計画を立てていたが、その日だけは旅行先で体を休めることにした。
おかげで、知らない間に蓄積されていたであろう疲労がスッと抜けて、今朝から気分は上々だ。
(まさか、疲労を溜めていたとは。)
自分のことながら意外だった。慣れない環境で疲れていることを、もう少し自覚した方がよかった。これはある種、クリスからの気遣いでは? と私は心の中に刻み、いつもの集合場所へ向かった。
「あれ?」
「ラナさん、おはようございます。」
「おはよー。」
そこにはすでにクリスとプリエルが待機していた。背負っているバックパックには何やら道具が複数飛び出している。使用用途は見当もつかないが、昨日行っていた準備の成果なのだろうと予測できた。
ただ、二人が私より早く起きているのは意外だった。いつもは逆だからだ。
「二人とも、どうして早いの?」
「責任というやつです。」
「責任?」
「昨日、私事で丸一日潰してしまいましたので……ですから今日は少しでも早く出発できるように準備を、と。」
責任を感じているように、クリスは紅茶を飲みながら優雅に答える。だがその優雅さには、確かにこちらへの謝罪の意思が含まれていた。これは間違いない。
「クリス様は、もうしわけないとおもってる。」
「……なるほど。クリス、私もラプも気にしてないよ。昨日は昨日で、いい休みにはなったわけだし。」
「左様ですか。」
思い込みが激しい私の友人は、紅茶を飲み干してほっとため息を漏らした。たまによく出る考えが裏目に出るパターンだ。今日の目的地があの場所ということもあって、多分いつもの計略がうまく当たらないのだろう。らしくないが、そうさせた要因は私にもある。クリスには申し訳ないばかりだ。
「ところで、ラプさんは?」
「もうすぐ降りてくる。着替えるところまでは手伝ったから。」
そう言っていると、元気な足音が私たちの空間に響き出してきた。耳を頼りにすれば、眼鏡が落ちそうなラプが、私たちの姿に焦燥を覚えて走ってきている。
「お待たせしました!!」
「待ってないよ。クリスは───」
「どうかいたしました?」
友人はすでにティーセットを片付けていた。今のラプが来るまでは確かにあったはずだが、今は影も形もない。まるで幻を見ている気分になるが、それは当然だ。クリスはそういう人だ。
「……なんでもない。行こっか!」
私たちは定めた目的地、ラグナース平原に向かった。道中は極めて穏やかだった。真っ白い雪原が、この前見た時と変わらず私たちを迎え入れてくれた。雪合戦をしたのはいい思い出だったなぁとしみじみ振り返りながら、その場を後にし、寄り道せず目的の場所へ向かい続ける。
平原は王都から東へずっと行った場所にある。列車に乗って獣人大陸に入った時に見えていた、あの光景が脳裏をよぎった。そしてかなりの時間を要し、途中休憩も挟みながら赴いたその地は、記憶の中にある窓越しに見た景色とは何もかもが違っていた。
「─────。」
一面の雪原は、あるところから真っ黒な破壊された大地へと置き換わっていた。あの日見た光景と、いつか見た写真の光景がぴたりと重なると同時に、私の五感は嫌な感覚に支配される。
もう戦争が終わって数年が経つというのに、この場には怨念が渦巻いているかのようで、鼻からはかつての炎と鉄の匂い、耳からは人の声と金切音、そして目には煙が映った気がした。
いずれも反響だ。こちらに干渉することはない。それこそ幽霊や怨念などに分類されるものではない。ただ、自分たちの血の中にある何かが、かつてのそれを無意識に引き出しているのだ。
「皆さん、ゴーグルを。ここは目に悪いかもしれません。」
目に悪いというのは比喩ではない。ここには雪が積もらない代わりに暗雲が常に空一面に広がっており、その灰色の燃え滓は私たちの目にとって有毒となる。空気ですら汚染気味のこの空間で、目を保護するのは至極当然だ。
「……ここが、かつての争いの地なんですよね。」
戦い疲れた大地を踏みしめ、争いの痕跡をその目に焼き付けながら見回す。ラプの問いに答える余裕はなかった。五感が常に私を支配していたから。
「そうですわよ。ここで争いがあったのです。皮肉にも、私の父がここで獣人族を皆殺しにしました。」
「……クリス先輩。」
「気遣いなど不要ですわ。私はラナさん以上に、心に刻まなければなりませんから。」
遠くで友人たちが話している声が聞こえても、私の歩みは止まらなかった。元からここに来たらそうするつもりで、私は三人とは離れて単独行動をしていた。戦争の入り口で我慢できる性格ではない。この地に足を踏み入れた以上、最後までその光景を目に焼き付ける。
その覚悟を持って、ここに来たのだから。
かつてテントがあった場所、かつて要塞があった場所、大きく開いたクレーター、他の大地より八つ裂きにされた領域。私はどんどん奥へと踏み込んでいった。私には何かが見えていた気がする。ここに宿る何か、ここにかつてあった残響が。
(………………。)
聞こえそうで聞こえない、届きそうで届かない声。私は一つの丘の頂に登り、そっと耳を澄ませた。この上なく静かなこの領域に、何かが聞こえてくる。それは形容し難いものだった。いろいろな声、音、そのすべてが激動と命の焦燥だった。
「………。」
私は感受性が豊かなわけじゃない。ここに来た理由も、好奇心が勝っていたからだ。ここで何があったのか、戦争を見て覚えのない私は知る必要があると、そう決心して来ただけだ。それ以上でも以下でもない。
「結局、得られませんでした。」
心の中でおばあちゃんやエルフルに向かって告げた。二人が言っていた戦争、それをこの目で見て、空気を吸って、かつてのことを少し考えようとしたが、うまくいかなかった。
結局私は、平和な世界に生まれた存在なのだと思い知らされた気分だった。
「そろそろ戻らないと、心配されますよね。」
そう口にしてその場を去り、合流しようとした時、近くで物音がした。私は鋭い視線を向け、ゆっくりと近づきながら腰に備えた木剣に手を置いた。
(幻聴じゃない、いる。)
私は確かにここで何かを感じているが、それとは別に生命の音をはっきりと感じ取っていた。そこまでこの耳はお粗末ではない。
だが、こんな地に何用で来ているのか。頭の中で構想を巡らせながら、その場所へと歩み寄り、微細な音の正体と対峙した。
「………?」
「…。」
そこにいたのは、私と同じくゴーグルをかけた獣人族の少年だった。少し上質そうな羽織布を纏い、地面や近くにあった朽ちた木片を拾っては、何かをしている。その行動は意味不明だった。
「……貴方は?」
「君のほうこそ誰だ?」
「……私は、ここに観光客として来た者です。」
「───観光客?暇なの?」
「……いいえ。」
私の問いに答えるどころか、大胆不敵な態度を取る少年は、私に構わず木片を拾い上げ、何かを作り続けていた。その口から放たれる言葉はいずれも、無遠慮で不快だった。
「私の番です。貴方は?」
「……お父様の連れだよ。ここで、かつての争いを見ろって───でも、何もないじゃないか。」
「何もない?」
「ここにあるのは、こんなおもちゃにも満たない木屑と、嫌な空気と、一面真っ黒な世界。それなのに遊ぶことすらできない。」
「遊ぶ?何を言っているの?」
「言葉通りだよ。ここはつまらない。僕がいつもいるところの方が、何倍もマシだ。」
「……お言葉ですが、私は貴方の言っている意味がよくわかりません。」
「え?」
「この惨状を見て何も思わない。それは、貴方がこの場所を甘く見ているからです。ここはかつて戦いがあった場所で、多くの人が死に、貴方のような子供を守るために命を使った人たちが、無惨にも眠る地なんですよ。」
「……僕のお父様は、生きているじゃん!」
「貴方のお父様がどうかは知りません。私は、そんな意思すら蔑ろにする貴方に……怒りを覚えています。」
「だ、だって。」
「私は、かつてここで戦った人たちを代弁することはできません。ですが、貴方のような人は一刻も早くここから去るべきです。貴方は、軽すぎる……。」
「な、なんだよ!僕がおかしいってのか!」
「はい。貴方はおかしい。」
「っ、なん……」
「貴方は、何も理解していない。こういう言い方は好ましくありませんが、ここにいたら呪われますよ。」
「の、のろ……そんなことあるか!」
「ありますよ。だって貴方は、ここに来るには無邪気で、そして哀れすぎる。」
「────そ、そんな目で!」
「いくらでも、そんな目くらいします。もし貴方がもう少し大人なら、剣で弾いていたところです。」
「──────っ。」
私の言葉に何かを感じ取ったのか、少年は目を見開き後ずさった。
「できれば、二度と会わないことを願います。さようなら。」
「ま、まて!なにが、何がおかしかったんだ!!」
「──────。」
その無様な声に、私は耳を貸さなかった。
感情を抱えたまま、私は三人と合流した。そしてこのラグナース平原の真の目的地である、戦場の中心部へと向かった。
「中心部には、何があるんですか?」
「そうですね。小さなオブジェクトが一つ。もっとも、ここは死者が眠る地。それも、勝つために命を落とした者たちです。そういう意味では、彼らを冒涜するものでもあるでしょう。」
「……そうかな。私は、戦争を体験した人は誰しも終わることを願っていたと思う。だから───逆に相応しいと思うよ。」
「……ラナさんがおっしゃるのなら、そうかもしれませんね。」
そのオブジェクトが見えてきた。近年よくある前衛的なものではなく、ただ柱のような形で聳え立つそれ。その下には停戦条約、そして和平条約の石板が立てられていた。文字には教科書にも登場する、いつか読んだことのある文章がそのまま刻まれている。
「停戦条約は、ここで果たされました。平等な者を一人、そして人間族と獣人族の代表者が足並みを揃えて。」
「……今じゃ当たり前だけど、当時は違った。戦い合っていた人たちが、互いに歩み寄った瞬間。」
「───ラナ先輩。この『平等な者』って、誰なんですか? 私、勉強したんですけど、名前もなくて。」
「お父様の親友です。」
『え?!』
「まぁ、少なくともあのお父様が親友とおっしゃる人物ということでしょう。」
「ちょっと待って、それは初耳。」
「ナリタテンマのご親友?!」
「はい。お父様も当時、この停戦条約には出席していましたから。多分、間違いないはずです。まぁ、嘘をついていたら話は別ですけど。」
とんでもない情報が暴露されたような気分だ。これが噂に聞く、後頭部を強く殴られるというやつなのだろうか。
「ねぇ、クリス様。それって平等?」
「もちろんです。お父様の話では、当時、元々親友だったにもかかわらず、獣人族側について互いに殺し合っていたと言っていましたから。」
「それじゃあ、人間なんですか?」
「私もそれを聞きましたが、ノーコメントで返されました。まぁ、ほとんどそうだと言っているようなものですけどね。」
「……。」
「さて、昔話はこの辺にしましょう。平等な者については、秘匿性が解かれるとまずいともお父様は言っていましたので。」
「すっごい気になりますね。ね、ラナ先輩。」
「うん。」
「やめてくださいよ。私も、お父様の昔話なんてあまり聞きたくありませんから。」
そう言いながら、私たちは石板を後にした。ここに訪れたかったのは、単なる気まぐれだ。それが終われば、もう何もない。ただ、来てよかったと心の中で思っていた。
(あのおかしな人がいなければ、もっとよかったんだけど。)
そう心の中で愚痴りながら、私たちは王都へと帰っていった。




