私は怒りと悲しみの違いが分かりません
鈍く光を反射する木のバーカウンター。
からりと溶ける自らのジュースの氷。
あなたの唇から漏れ出す煙の香り。
煙を噛む様に続けられる。
「私はあの日、自分から手を離しました。二十数年、諦めず続けていたことに終止符を打ったのです」
「続けてください」
「生活におもねることにしました。私はもう疲れました。真像に見える虚像の追っかけをやめたとも捉えられます。開き直ったとも取れます」
「それは本当でしょうか?開き直った人間のそれには見えない」
あなたは左手に着いた指輪を眺める。愛おしそうに。迷うように。
「この生活の中でより良い方向に進むつもりです。開き直ったが諦めたわけではないと言うのが真でしょう。ごっこ遊びにならないよう注意したいものですね」
「逃げるわけではないのですね」
「分かりません。分からない。」
あなたへ手を伸ばしかけ、やめる。
「良いのですか」
「もう決めましたから」
目が離されない。
「……幸せに、なってください。真に幸せに。あなたが、私にとって唾棄したいような大人になってしまうことを私は一生許しません」
「まだまだ苦労するつもりですから、それを見て良しとして欲しいものですが。しかしながら、認めましょう」
ジュースを手に取り、飲む。
オレンジの酸味が喉を通る。
そして、口を開く。
「私は、高校生の間に一番苦労をしました」
「虚像だらけですね」
「事実です。あなたはそれ以上に、苦労してください」
あなたは、ウイスキーを舐める。
バーカウンターを撫ぜる。
そして笑う。
「楽しみにしていてください。この先も、きっと、まだ楽しい」
「あなたはアイマスクをつけたのでしょうか?外したのでしょうか?いつか何が本当の幸いか分かると良いですね」
「今を、一旦の安定とします」
「自分の願いが分かると良いですね」
「はい」
私は椅子を立ち、店内を出ていく。
振り返らず、吐く。
「私のことを忘れないでいてもらえたらそれで十分に結構です」
背から返答が返る。
「いつまでも、覚えています」
私の目から頬へ涙が伝う。
「あなたの一部で無くなる日が来ないことを願います」