第6話: 夜明けに揺れる決断
オルディス統一暦1013年の初頭。セラフィス諸島連邦は、ついにヴァルディア王国に対する先制攻撃を決行する日を迎えようとしていた。カイル・ロイガンの提案によって大統領が許可したこの作戦は、海軍が中心となり王国軍の補給拠点を奇襲することで、侵攻を阻止することを狙いとしている。
港町アルカマールの海辺には、曇天の空気を裂くように艦船が集結していた。セラフィス海軍が持つ最大限の戦力――それは決して王国軍の物量に勝るものではないが、海域を熟知したベテランの水兵や士官たちがここに集まっている。潮の満ち引きを読み、嵐を避ける術を体に刻み込んだ者たちにとって、海こそが最大の味方でもあった。
カイルは夜明け前の蒼白い光の中、埠頭に佇んでいた。少し肌寒い海風が吹きつけるが、それ以上に胸の奥が熱くなる。この作戦が失敗すれば、連邦はジリ貧のまま戦争を長引かせ、王国が本格的に上陸してくるのを防げないかもしれない。だが成功すれば、王国の補給網を断ち切り、やがて訪れる大規模侵攻を遅らせることができる。
「……行きましょうか」
隣に立つのは海軍の中佐ブラッドフォード。厳しい表情で前方の艦隊を見つめていたが、カイルに声をかけられて、初めて気づいたように口を開いた。
「おまえさん、この作戦を考えた張本人だが、本当に怖くないのか?」
「怖いですよ。けど、怖がってても何も変わらない。僕が信じるものは、セラフィスの海の力と、人々の思いだけです」
カイルはそう言ってぎこちなく笑う。ブラッドフォードは短く鼻を鳴らすと、小さく頷いた。最初はただの若造としか思わなかったが、この少年が国を想う心は本物だ。彼が補佐官として急速に頭角を現したという話も、聞いて納得する。
「いいだろう。それなら俺たち海軍も腹をくくるだけだ。おまえさんの作戦が成功すれば、王国の侵攻を遅らせられる。失敗すれば……まあ、俺たちが責任を負うさ」
「いえ、皆が支え合わなければ何もできません。僕もその一人として行動します」
空が次第に白み始め、海面が鈍い銀色を帯びる頃、艦隊の出航準備の声が響き渡る。水兵たちが慌ただしくロープを解き、蒸気を上げる煙突からは黒々とした煙が漂う。カイルは軍艦の甲板へ向かい、指揮所となる作戦室に入った。そこには数名の士官が地図を広げて待機していた。
「お待ちしておりました、補佐官」
年上の士官たちが若いカイルに敬語を使うのは異様な光景だが、戦争という非常時では実績と指示系統が全てだ。カイルが迅速に指示を下せるように、皆が一丸となって彼をサポートする。
「まずは敵の沿岸要塞と補給港を叩く、ですよね。敵が海を越える前に、港の倉庫や船舶を破壊し、物量を封じ込めるかが鍵になります。嵐を避けられればいいのですが……」
一人の水先案内人が不安げな声音でそう口にすると、カイルは地図を指さして笑みを浮かべる。
「風向きは悪くありません。天候はまだ曇りですが、嵐にはならないと予報部隊が言っていました。そこを利用して、敵の不意を突きましょう」
作戦室内の空気はピリピリしているが、誰もがカイルの言葉に期待を込めて耳を傾ける。海軍は元々士気が高い部隊だったが、王国の圧倒的な陸軍に対して分が悪いという意識が強く、どこか浮足立っていた。しかし、こうして補佐官が自ら最前線に立ち、具体的な指示を与えることで、少しずつ仲間意識が芽生えつつあるのをカイルは感じ取る。
「出航!」
ブラッドフォードの号令が轟き、船の蒸気が大きく噴き上がる。複数の軍艦がゆっくりと湾を出て、外海へ向かう。港に残った人々は、見送りの声も出せずにただ見守るだけ。先の見えない戦争に、彼らもまた心を痛めながら祈るしかなかった。
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船が沖へ出ると、あたりには低い霞が立ちこめ、視界が悪い。だが、それはセラフィス海軍にとって好都合でもある。敵の哨戒艦に早々に見つかる可能性が下がるからだ。カイルは船室のデッキから外を見つめ、海風を肌で感じていた。心臓の鼓動が早まるのを抑え込みながら、頭の中で作戦を復唱する。
「敵の港に近づくとき、まず偵察艦が前進し、海岸砲の位置を確かめる。続いて主力艦が砲撃を開始。その隙に奇襲部隊が上陸し、倉庫や船舶を破壊する――」
自分の描いたプランが、現実の波間で実践されるのだと思うと、背筋に冷たい汗が伝う。しかし、ここでためらうわけにはいかない。彼の背後から、ブラッドフォードが声をかける。
「おまえが描いた作戦図は、海軍のベテラン士官の目から見ても悪くない。あとは、王国側の動きを見誤らなければ成功は十分ある。……だが、もし王国海軍が予想以上に速く動けば危険だ」
「承知しています。けれど、他に道はないんです。このまま王国の侵攻を待てば、連邦は少しずつ締め上げられるだけ。攻勢に出るなら今」
小さく息をついて、カイルは握りしめた拳をほどく。砲煙にまみれた戦場のイメージが、鮮明に頭をよぎる。それは恐怖でもあるが、一方で大義のために戦う誇りでもあるはずだ。彼はスラムで育ち、何度も無力さを痛感してきたが、今は多少なりとも国を動かせる立場にいる。
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水平線の向こうから、一筋の黒い煙が立ち上っているのが見えた。敵艦かもしれない――そう思った瞬間、艦内のサイレンが短く鳴る。偵察艦からの信号だ。敵の巡回部隊と遭遇したのかもしれない。戦闘開始は避けられないだろう、とカイルは判断する。
「各艦に通達、配置につけ。砲撃体制を準備してください!」
メガホンで指示を出すカイルに、水兵たちは緊張した面持ちで応える。まだ距離はあるが、すでに空気が重苦しく張り詰めていた。もしここで敵艦隊の規模が大きければ、計画は大幅に狂う。
「大丈夫だ。予定していたより少ないはず。絶対に押し切れる」
自分に言い聞かせるように、カイルは砲撃位置の調整を士官たちとともに確認する。音もなく近づいてきた霧が、海面を低く覆い始めていた。敵もこちらを見つけにくいが、こちらも敵の位置を読み違える危険がある。
不意に前方の偵察艦が白い信号弾を発射した。それは“敵艦隊は小規模、数隻のみ”を意味する合図だった。胸の奥で緊張が一瞬ゆるむ。ならばこのまま奇襲を進められる可能性が高い。兵士たちも明らかに安堵の色を浮かべた。
「よし、予定通り行きましょう。戦闘になれば、短期決戦です」
カイルがそう宣言したとき、ブラッドフォードはわずかに口元をほころばせる。若き補佐官の言葉に迷いはなく、一気に攻めきろうとする意志が明確だったからだ。船はエンジン音を高め、海面を強く切る。
「この作戦が成功すれば、君は英雄かもしれないな」
「……英雄なんて興味ありません。勝たないと、国が滅びるんです」
カイルの瞳に燃えるものが宿っているのを、周囲の士官たちははっきり感じ取った。彼が抱くのは、スラムで出会った数多の悲しみと、この国を護りたいという強烈な使命感。その思いだけで、彼は自分の道を突き進んでいるのだ。
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やがて時刻は夜明けに向かい、海上は濃い闇を湛えていた。星の見えぬ空の下、セラフィス連邦の艦隊が、静かに王国の補給港へと近づいていく。風が変わり、やや向かい風が強くなってきているが、この程度なら想定内だ。士官たちは短く指示を交わし、砲撃の準備を進める。
カイルは全身の力が抜けそうになるのをぐっとこらえ、指令室の一角で作戦図を見つめていた。いよいよだ。あの王国に対し、一矢報いるときが来る。そして、この一撃によって戦局が変わる可能性がある。
(父さん、俺は戦うよ。もう誰も失いたくない)
静かな決意を胸に秘め、カイルは艦隊の先頭艦で夜明けを待った。遠くでかすかな光が空を染め始めると同時に、砲撃の準備を告げるサイレンが再び短く鳴り響く。敵の補給港へ向けられるその砲口が火を噴けば、連邦と王国の命運がまた一段と深く交錯することになるのだ。
そして闇が薄れ、空が紺色から藍色へと移り変わる――。
その一瞬、カイルは視線を海面に落とし、唇を結んだ。もしこの作戦が失敗すれば、連邦はさらに弱体化し、王国の侵攻を許すだろう。そうなれば、母やスラムの人々、そして数多くの仲間の命が奪われてしまうかもしれない。
「攻撃開始。敵補給船団を叩く」
震える声を抑えながら、カイルは自分に言い聞かせるように宣言した。夜明け前の海を切り裂く砲声が、一斉に鳴り響く。艦隊の士官や水兵たちの怒号が混ざり合い、セラフィスとヴァルディアの戦いは、いよいよ激しさを増す。
この砲声はやがて、二度にわたる大戦へと続く導火線になる――。
カイルの想い、国民の願い、そのすべてが海上に轟く激戦の火蓋を切ったのだ。
(第6話 完)




