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第3話: 遥かなる海の鼓動

朝早く、カイルは警護部隊の詰所で目を覚ました。まだ薄暗い空気の中、宿直明けの上官たちが小声で言葉を交わす。海の香りが漂うセラフィス諸島連邦特有の空気が、カイルの肌にじんわりと染み渡るようだった。

思えば、スラムで毎日必死に食いつないでいた日々から、ここへ来てまだ一年余り。官邸や要人の警護任務を担うようになり、生活も大きく変わった。しかし、カイルの内にはずっと消えない不安がある。やがて訪れる戦争――ヴァルディア王国との衝突は不可避となり、国中がそわそわと落ち着かない雰囲気を帯び始めていた。


「ロイガン、起きたか。今日の持ち場を確認してくれ」

指揮官の声にカイルはハッとして立ち上がった。制服に素早く着替え、鏡の前で身だしなみを整える。自分が“国家の警護員”であるという感覚には、まだ少しだけ違和感があった。しかし、同時にこれが自分の役割なのだと思うと、自然と背筋が伸びる。


宿舎を出て官邸に向かう途中、スラム街を少し遠巻きに眺めると、かつて仲間たちと寝起きを共にした小さな路地の様子が目に入った。相変わらず荒んだ様子に胸が痛むが、カイルはいつかこの街を、そしてこの国を変える力になりたいと強く思う。そうして自分を奮い立たせるように、一歩ずつ足を進める。


官邸の正門を抜け、広い中庭を横切ると、大統領官邸の壮麗な建物が姿を見せる。白い壁に大きな窓。かつては諸島全体をまとめた独立運動のシンボルでもあり、国民にとって誇りの象徴でもある。しかし今は、その誇りが大きく揺らいでいるとカイルは感じていた。

ヴァルディア侵攻戦争が始まって数か月。セラフィスは海軍力を頼みに辛うじて王国の侵略を防いでいるが、物量で押される形が続き、次第に戦線は苦しい状況に陥りつつある。どこかで決定打がなければ、このままじわじわと国力を消耗してしまう――そんな空気が、官邸の廊下にも漂っていた。


「ロイガン、聞いてるか?」

声をかけてきたのは、同じ警護隊の仲間、サミュエルだった。少し年上の彼は、カイルを弟のように可愛がってくれる。

「すみません、ぼんやりしてました。何かありましたか?」

「いや、今日の配置がいつもと違うって話だよ。上層部から『大統領周辺の警護を手厚くする』って指示が出たらしい。何か大きな動きがあるのかもしれないな」


カイルは、先日大統領に直接声をかけられたことを思い出す。あのとき、エドガーは苦しげな表情を浮かべながら「君のような若い力を信じたい」と言った。

もしかすると、大統領はヴァルディアとの戦いの中で突破口を探しているのかもしれない。そうだとしたら、自分が何らかの形で役に立てるかもしれない――そんな小さな希望が胸に灯る。


警護隊の詰所に到着すると、そこには大統領官邸の高官が待機していた。彼はカイルを見るなり、穏やかな笑みを浮かべる。

「ロイガン君、少し時間はあるかね。大統領が話がしたいそうだ」

「わかりました」

カイルの返事に緊張が混ざる。まだ十五歳になったばかりの彼にとって、大統領と直接言葉を交わす機会は貴重であり、どこか畏れ多い気持ちもある。



---


薄暗い執務室に通されたカイルを迎えたのは、椅子に深く腰掛けながら難しい顔をしているエドガー・マリネス大統領だった。

「来てくれてありがとう、ロイガン君」

「あ、はい。失礼します」

カイルは落ち着いた声を保とうとするが、さすがに心臓の鼓動が早まっているのを自覚する。


エドガーは机に広げられた書類を手に取りながら、静かに話し始めた。

「君のことは評判で聞いている。若いながらも警護部隊で実績を積み、作戦や状況判断に長けている、と」

「まだまだ学ぶことばかりです」

「そう謙遜しなくてもいい。実際、君の功績は警護隊の報告書にもはっきり載っている。私はこの国を守るために、君のような人材が必要だと痛感しているんだ」


エドガーの目には焦りと希望が同居しているように映る。戦況は厳しいが、連邦をなんとか救いたいという思いが強く伝わってきた。

「そこで、君に補佐官として政治や軍事の基礎を学んでほしい。特に、実践的な戦略や交渉術だ。これは私のわがままかもしれないが、君ならそれを吸収し、国に役立ててくれると信じている」


カイルは思わず息を呑む。自分が補佐官などという重要な役職に就くなんて、これまで想像すらしてこなかった。

「俺なんかが務まるのか……」

「君だからこそ、だ。スラム出身でありながら、自力でここまで這い上がってきた。そのたくましさは、政治家や高官には持ち得ない資質だよ」


エドガーの口調は穏やかだったが、そこには強い決意が感じられた。カイルは自分の内に沸き立つものを感じながら、静かに頭を下げる。

「……わかりました。全力で務めさせていただきます」


戦争が目前に迫る中で、カイルは新たな役割を担うこととなった。大統領の補佐官として、国の中枢で意思決定に関わり、一方では警護部隊の実務もこなす。十五歳という若さにもかかわらず、彼に求められる責任はあまりにも大きい。だが、それこそがカイルが望んできた「人々を守る」力につながるかもしれない。


執務室を後にしながら、カイルは改めて自らの決意を固める。父を失い、母を守れなかった過去の自分から、誰かを守れる存在へ。苦しむ人々がいるなら、誰かがその苦しみを和らげるために立ち上がるべきなのだと。



---


そして、ヴァルディア王国では同じ頃、将軍アーサー・グリントが海を渡るための大規模な兵力編成を進めていた。大陸に広がる王国軍の拠点は数多く、貴族たちは各自の領地と利益を最優先に考えている。アーサーはその調整に苦労しながらも、国家のために剣を取り続ける道を選んだ。


戦火の足音は日増しに大きくなり、オルディス統一暦1013年に突入する頃には、ついにヴァルディア侵攻戦争の激化が避けられない状況となっていた。カイルの立場も、アーサーの立場も、その波乱の海の中に投げ出されていく。


だがその先で待ち受ける運命は、まだ誰も知らない。カイルは国を変えられるのか、アーサーは腐敗した王国を守り抜けるのか。そして戦争の先にあるものは、再生か、それともさらなる破滅か。多くの運命が交錯し始める中、セラフィスとヴァルディアの二極が、再び世界を揺るがそうとしていた。


(第3話 完)



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