第2話: 満ちゆく潮の中で
オルディス統一暦1011年、セラフィス諸島連邦はヴァルディア王国の侵攻を目前に控えていた。大統領官邸では、エドガー・マリネスが幕僚たちと戦争への備えを論じている。彼の心にあるのは、どうにかして戦争を回避し、国民の被害を最小限に抑えることだ。しかしヴァルディア側は大陸を誇る豊富な資源と兵力を背景に、海を越えるための軍艦を増やし、侵略の態勢を整えようとしている。連邦が誇る海軍をもってしても、その物量を封じ込めるかどうかは分からなかった。
首都アルカマールから少し離れた港町のスラム街に生まれたカイル・ロイガンは、十四歳にして家族を支える決意を固めていた。父は漁師だったが、有事の際には連邦海軍の補助として徴用される立場にあり、すでに召集命令が出てもおかしくない状況だった。母は病弱で、しばらく床から起き上がれずにいる。朝早く目を覚ましたカイルは、狭い屋根裏部屋で寝ている母を気遣いながら、そっと部屋を出た。
スラム街を歩くと、目に飛び込んでくるのは壊れかけた木造家屋や、雨水が溜まって悪臭を放つ小路だった。つい昨年まではまだ活気があったが、戦争の噂が広がるにつれ、港は閑散としてしまった。仕事を求める人々が町を去り、残された者たちは貧しさの中で希望を見いだせずにいた。
朝日に照らされた波止場に着く頃には、カイルの額にはうっすら汗が滲んでいた。漁に出る船の姿は数えるほどで、かつて活気に満ちていた埠頭は静まり返っている。そこに一隻だけ、小さな漁船が係留されていた。カイルの父が使っていた船だ。
「父さん、帰ってこれるかな……」
ささやかな呟きが潮風にかき消される。自分は何もできないままでいいのか。カイルの心には悶々とした思いが渦巻いていた。戦争を避けられないのなら、せめて守りたいものがある。そのために動けるのは自分しかいないかもしれない、そう感じ始めていた。
港の柵にもたれていた彼は、遠くに見える軍艦のシルエットに気づく。連邦海軍の船が演習をしているのかもしれない。そこには、船に乗り込む水兵たちの姿が見えた。大人たちが国を守るために行動しているのだと思うと、カイルの中で小さな火が灯った。
「もし、俺が軍に入って強くなれたら……。戦争をどうにか止められるかも……いや、止められなくても、せめて誰かを守れるかもしれない」
十四歳という年齢は本来なら学校で学ぶ時期だったが、スラムの現状では学費など出せるわけがない。彼が生き延びるための道は多くはなかった。軍や警護関連の仕事なら、多少の金銭を稼ぎ、母の薬を買うこともできる。カイルはまだ自分にどういう力があるか分からないが、行動する以外に道がないと感じていた。
彼が再びスラム街を歩き出したとき、一人の男に呼び止められた。海軍の下級士官らしき身なりをしたその男は、カイルをまっすぐに見据えた。
「お前、なかなか体格がいいな。興味はないか、軍の警護部隊に……」
その問いかけに、カイルは一瞬戸惑いながらも、どこか期待を抱く自分がいると悟った。男はさらに続ける。
「まだ十四か。だが、受付には十六からだ。少し早いな……。まあ、あと二年待てば正規に応募できる。お前が本気なら、いまから準備しておくといい。スラムの少年だろうと、腕に覚えがあるなら道は開ける」
カイルは短く礼を言い、男と別れた。早く大人になりたい。そう強く思ったのは、その日が初めてかもしれない。
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それから半年、カイルの母の容体が悪化していた。医者に見せる金も足りず、薬も充分ではない。港でのアルバイトや雑用で少しずつ金を貯めていたが、焼け石に水だった。そんなある日、街角に貼り出された募集広告がカイルの目に留まる。
「警護部隊、特例で若者を募集……。戦争の切迫に伴い、年齢制限を緩和している……?」
通常より二年早く入隊できるとそこには書かれていた。国を守るための人員を確保しなければならないほど、戦況は逼迫しているらしい。
カイルは迷わなかった。もし警護部隊に入り、給金を得ることができれば、母を救えるかもしれない。海軍や陸軍ではなく、警護部隊――大統領官邸や重要施設を守る役目を担うその部隊なら、自分にもチャンスがあるのでは、と感じたのだ。
「これしかない」
母を守りたいという思いが、彼の背中を押した。
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オルディス統一暦1012年。戦争の影が色濃くなり、街には徴兵や軍関係の話題が絶えなかった。カイルは警護部隊の試験を受け、飛び抜けた体力と強い意志、そして機転の利く頭脳を評価され、特例で合格する。十四歳の少年が、国の要である官邸や主要施設を守る部隊に入隊したのだ。
訓練の日々は過酷だった。早朝のランニング、格闘術、銃の扱い。連邦の技術レベルは、武器や戦術はともに近代的である。カイルはその新たな技術を必死に学び、実践に活かそうと努力を惜しまなかった。
「こいつ、ただのガキだと思ったが、なかなかやるな」
同期の仲間がそう評するほど、カイルの成長は目覚ましかった。スラム育ちという経緯から、持ち前のサバイバル能力と柔軟な発想が、訓練でも際立っていたのだ。
そんな彼を教官や上官たちは注目し、いつしか名前が官邸にも届き始める。エドガー・マリネス大統領の耳に入るのも時間の問題だった。
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カイルが入隊して一年が経とうとする頃、ヴァルディア王国との戦争の火蓋がいよいよ切られようとしていた。大統領官邸では、エドガーを中心に幕僚たちが戦争への対策を練っている。カイルはまだ下級警護員として官邸を警戒しつつ、会議室の外で時折聞こえてくる言葉に耳を澄ませていた。
「ヴァルディア側は大陸軍の主力を動員して海岸を制圧するつもりらしい。こちらは海軍があるとはいえ、物量で押し切られる可能性が高い……」
エドガーの声が苦しげに漏れ聞こえる。カイルは自分が直接戦場に立てるかどうか分からないが、それでも守らねばならない人々がいる。この国には自分のように貧しくても必死に生きている人が大勢いる。父を失った悲しみが、彼の胸を熱くする。
「俺は、ここで終わるわけにはいかない……」
つぶやいた言葉を誰かが聞きつけたようだ。会議室から出てきた一人の幕僚が、興味深げにカイルを見やる。カイルはそれに気づかず、まっすぐ前だけを見据えていた。
やがて幕僚は官邸内を歩き回り、何やら大統領に耳打ちをしている様子がうかがえた。翌朝、カイルは急遽大統領官邸内の一室に呼び出される。
「君がカイル・ロイガンか。話は聞いている」
エドガー大統領の落ち着いた声が響く。カイルは緊張しつつも背筋を伸ばして答えた。
「はい。警護部隊のカイル・ロイガンです」
「まだ十四、いや十五か。若いが、訓練での成績は優秀と報告を受けている。今度始まる戦争で、我々を支える存在になってくれるかもしれないな」
エドガーの目には、憂いと希望が同居しているように見えた。戦争が避けられぬなら、これからは優秀な人材がどうしても必要になる。カイルは自分にできることがあるなら、全力でやろうと決意を新たにした。
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こうしてカイルは、大統領官邸の護衛任務と同時に、戦時下における作戦や戦術の基礎を学ぶことになる。兵士としては異例の抜擢だったが、スラムで育ち、誰よりも国民の痛みを理解する彼の姿勢は、官邸内部で高い評価を受け始めていた。
戦争という狂気に巻き込まれながら、十五歳の少年がどのように連邦を救う存在となっていくのか。セラフィス諸島連邦は、彼の活躍に微かな光を見出そうとしていた。一方、ヴァルディア王国側もまた、王や貴族の思惑に揺られながら、大陸を越える軍艦の出航を準備している。
やがてその戦火は、両国に取り返しのつかない痕跡を残すこととなるのだが、それを知る者はまだいない。
(第2話 完)




