第1話: 失われた港
オルディス統一暦1011年――世界は二つの巨大な勢力によって分断されていた。海洋国家セラフィス諸島連邦と、大陸に広大な領土を抱えるヴァルディア王国。ふたつの国が、ついに戦争という形で激突しようとしていた。
セラフィス諸島連邦の首都アルカマールにほど近い港町、そこで暮らす少年カイル・ロイガンは、十四歳の若さながら、家族とともにこの国家の行く末を案じていた。街には、戦争の足音が忍び寄っている。いつ開戦してもおかしくないという空気が、人々の間に広がっていた。
カイルの父親は小さな船を操る漁師であり、戦時には海軍の支援要員として徴用される立場にあった。母は病弱で、長い間伏せっている。そんな環境で育ったカイルは、幼いながらもしっかり者で、体格もよく、近所の人々からは「頼りになる子だ」と評されていた。
夜更けの港には、重苦しい空気が漂っていた。街灯の明かりに照らされた桟橋に腰を下ろし、カイルはまだ見ぬ戦争というものについて考えていた。どうして国同士が争わねばならないのか。なぜ自分たちのような小さな暮らしを営む人々が、そのあおりを食らわねばならないのか。
「カイル、こんな時間までこんなところにいて、風邪をひくぞ」
声をかけてきたのは漁師仲間の青年だった。カイルは「大丈夫です」と短く答えたが、その表情には不安が色濃く残っている。漁師仲間はそんなカイルの背を軽く叩き、
「今度の戦争は長引きそうだ。お前の父さんも、軍に召集されるかもしれない。お前がしっかりして、家を守ってやれよ」
そう言い残して、夜の港の奥へと消えていった。
カイルの胸には、戦争という言葉への恐怖と反発が混ざり合っていた。十四歳という年齢で、まだ自分が何をできるかもわからない。けれど、父と母を守りたいという強い思いは、彼に小さな決意を芽生えさせていた。
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その頃、首都アルカマールの大統領官邸では、エドガー・マリネス大統領が一人執務室に残り、明かりを落とした室内で地図を眺めていた。彼の肩には、セラフィスの未来が重くのしかかっている。王国側からは既に宣戦布告に等しい通告が届いており、開戦は時間の問題だった。
「やはり、戦争を避けることは難しいか……」
56歳のエドガーは、若きころから国のために尽力してきた。しかし今は、連邦創設150年の歴史の中でも最大の危機に直面している。長い海軍の伝統を誇るとはいえ、相手は広大な大陸を持つヴァルディア王国。兵力も資源も相手の方が上回る可能性がある。
執務室の扉が開き、官邸の参事が入ってくる。
「大統領、王国からの使者が明日到着するとの連絡がありました」
「……そうか。戦意を挫きに来るのか、あるいは降伏を促すのか」
エドガーは苦い笑みを浮かべた。譲歩すれば国民の誇りが失われ、抵抗すれば多くの血が流れるだろう。どちらに転んでも、国を思う彼の胸には重い痛みが残る。
「この国には、私の責任を支えてくれる人材が必要だ。――若い力がほしい」
彼のつぶやきは夜の闇へと溶けていった。
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一方、大陸にそびえるヴァルディア王国の首都では、35歳の将軍アーサー・グリントが城の回廊を歩いていた。城内では、貴族たちが王のもとへ次々と詣で、開戦のための資金を拠出する見返りを求める交渉をしているという話を耳にする。アーサーはその腐敗に対し深い嫌悪を覚えながらも、国を守るために剣を置くわけにはいかなかった。
「将軍殿、お疲れ様です」
寡黙な参謀セドリック・ファーン(26歳)が近寄り、小声で報告する。
「貴族たちが海軍の強化ではなく、大陸軍の人数を増やすことばかりに資金を注ぎたがっています。彼らは海戦の重要性を理解していません」
アーサーは肩をすくめ、わざと気軽な調子を装った。
「ま、貴族たちは領地の拡大が好きだからな。海より陸の方がわかりやすいんだろう。……とはいえ、連邦は海軍力に長けている。こっちも本腰を入れないと、恥をかくぞ」
そう言いながらも、王や貴族の腐敗が戦争そのものを歪めるだろうことを、アーサーは理解していた。大陸を誇る王国でありながら、戦うための理が内側から崩れつつある。それでも自分が踏みとどまらなければ、国は乱れてしまうのだ。
アーサーは漠然とした不安を胸に抱きながら、来る戦争に向けた準備を進める。
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オルディス統一暦1011年。セラフィスとヴァルディアの衝突は避けられない情勢となり、世界はふたつの大国が放つ戦火に包まれようとしていた。サンゴ礁と風光明媚な海で栄えた連邦は、広大な平原と厳格な君主をいただく王国にどう立ち向かうのか。スラムで暮らす14歳のカイルは、いつかその波に飲み込まれるとは知らず、ただ父母を守るための力を求めていた。
そして、貴族たちの利害に囲まれながら国を守ろうとする将軍アーサーは、仲間の参謀セドリックと共に、王国軍を率いて海を越える準備を進めていく。
歴史学者エリック・ハーヴェイの記す『覇道の双極』に刻まれるこの戦いは、後の世に語り継がれることになる大戦の始まりでもあった。
(第1話 完)