地獄行き……?
悪行を働けば地獄に堕ちる。そんな大層な脅し文句も、今の時代は少なくなってきた。
僕は詐欺師だ。ケチな金を拾う卑屈で卑怯な悪人である。
僕は高尚じゃない。騙す相手に見境はない。貧窮にあえぐシングルマザーや、アイスを落として泣き叫ぶ子供からさえ金を騙しとる。
しかし、そんなみすぼらしい詐欺師生涯にも終わりが訪れた。僕はつい先日、この辺りで幅を利かせていた暴力団の跡取りを騙し、数千万の金を手に入れることに成功したのだ。
だから今日は人生で一番清々しい朝を迎えた。昼になってもまだ清々しい。興奮だって冷めやらぬままだ。
僕は時計を確認する。一時を回ったところだ。今日はこの後空港へ寄ってどこかに身を隠す予定なのだ。飛行機のチケットはもうすぐの時間を記している。
そろそろ行くか。そう思って、僕は昼食を食べていたカフェから退店した。
「あ、ああ、あああああ」
そのとき、右耳から驚きの混じった呻き声が聞こえた。普通の街中で聞くわけのない声の方に、僕はつい顔を向けてしまう。
「な、ど、どうして」
そこにいたのは、僕がつい先日騙したばかりの暴力団の跡取りだった。両手は血に塗れ、右手には赤と銀の波模様を施したドスが握られている。同一人物だと判別するのに一瞬思考を要するほど雰囲気は異質に歪んでいた。
ここに来るまで、一体何が彼の身に起きたのだろう。少なくとも、普遍的な人生はもう送れそうにない。
そんなことより、どうして、どうしてここにいる? 僕は彼に全く違う行き先を伝えたはずだ。詐欺がバレたのだとしても、僕は露見するのがかなり先になるように仕組んでいたはず。今、この段階で僕が詐欺師だとわかるはずはない。
「おまえぇ、おまえのせいで、おまえなんかのせいでぇぇ!」
どうみても正気ではない。むしろ殺気を感じるほどだ。そしてその対象はもちろん僕だ。
とんでもないピンチだと思う人もいるかもしれないが、実はそんなことはない。こんなアクシデントは今まで何回もあった。殺されかけたことはもちろん、何日も監禁されたことだってある。
だから今だってそこまで焦っていない。なぜなら、ただ走って逃げればいい。それだけなのだから。
そうして僕は踵を返して逃げ出した。跡取りの彼も、僕を追って走ってくるのがわかった。
だが、僕はなりふり逃げる。他の何にも構わない。
というつもりだったのだが、
「きゃっ!」
そんな甲高い声がすぐ右で聞こえた。
「どけぇ!」
脇目で捉えた程度だが、どうやら女性が店から出てきたらしい。
なに、構うことではない。そのまま彼女が突っ立っていたら、跡取り息子がぶつかる形になるのかもしれないが、それは僕には関係ない。
無視して逃げればいい。
「危ない!」
だが、思いとは裏腹に、僕は店から出てきた女性を庇っていた。
女性を突き飛ばし、僕は跡取り息子に接する。このままなんとか身を躱わせばどうにかなる。なんならドスを奪って返り討ちにしてやれば良い。
なんてことができる訳もなく、僕は無抵抗に腹を刺された。
馬乗りにされて、何度も何度も急所を突かれる。
自分の血で溺れそうになる。
痛みとは全く別の苦しみが僕を襲う。
次第に目が霞む。熱を感じなくなる。血の匂いがしなくなる。自分の不味い血の味がしなくなる。
「キャァァ! 警察! 警察!」
何も聞こえなくなる前に、僕はそんな叫びを聞いた。
気がする。
あぁ、地獄は、嫌だな。
**********
次に目を覚ました時、そこは知らない森の中だった。
ここが地獄か? というか、どうして僕はこんなところに? たしか今日は暴力団の跡取り息子を騙して逃げるはずだ。こんな森に用はない。
いや、そうか、あぁ、僕はその跡取りに殺されたのだ。思い返せば思い返すほど鮮明に死ぬ直前の光景が浮かんでくる。思い出すだけでも腹の傷が痛むようだ。
しかし、そうか、ここが地獄か。
少なくとも、閻魔はいない。そして人っこ一人いない。魂もなく、髑髏の顔の黒い布を纏った死神もいない。
地獄どころかあの世ですらないのかもしれない。そうだとしたら僕が死んだことが嘘になるのだけれど。
遂に、自意識と無関係に嘘をつくようになってしまったみたいだ。とうとう行き着くところまで来てしまったか。
死後の世界。本当にあるとは毛ほども思ってはいなかったが、しかし実在するとは。
だがまぁ、現世の噂で聞くような、悪鬼羅刹が蔓延る業火に塗れた地とは程遠い。それよりかはのどかで牧歌的だ。
ちなみに体を起こすくらいの元気はあった。腹の傷は世を跨いで持ち越すことはできないらしい。
「地獄の沙汰も、金次第というけれど、うん、すっからかんだな」
服装は死ぬ直前と同じだ。だが、刺された部分には、穴が空いていた。大きく、ぽっかりと。ポケットには当たり前といえば当たり前だが、何も入っていない。先述の通りすっからかんである————という訳でもないのだ。僕は用心のため、大事なものは基本ポケットには入れない。入れたとしても、せいぜい小銭程度である。
服の裏やら、靴底の下、襟と裾の隙間。そう言った細々とした地味で姑息な箇所に、僕は重要な物をしまう。
そこを探れば何かがあるというわけだ。
そこで僕は手当たり次第に隠しポケットを開く。そうするとボロボロと落ちてくるのだ。手帳、ペン、ナイフ、携帯電話と順繰りに。
ほとんどが仕事道具だ。紙屑もいくらか出て来たところで、僕はまず携帯電話手に取った。なりふり構わず、僕は時報にかける。通じなかった。死後の世界には回線は存在しないらしい。
次に僕は、普段使いしているA6サイズのメモ帳を手に取り、ペラペラとページを捲り続けた。最新のページには、直近の詐欺についての情報が、事細かに記されている。
ふむ、情報は消えないのか。と言っても、消えなかったからといって、大した得もないけれど。せいぜい、以前騙した奴が死んでここにきた時、もう一度騙すことができるというぐらいだろう。
ただ立っているのも時間の浪費だ。そう思って、僕はどこを目指すこともなく、歩き始めた。森を無作為に歩き回るというのは現実的に考えてひどく危険な行為だが、それは自分に戻らなければならない場所がある場合だけだ。
とりあえず、僕は太陽の方角に向かって歩くことにした。
獣の気配が微かに残る山道。変わり映えのしない景色が辺りを覆い尽くす。
地獄にしてはやはり穏当すぎる。しばらくほっつき歩いてみて、疲れも感じてきた。こうなると、ここはあの世ではないのではないかという予想も頭をよぎる。だがまぁ、ここがまだ現実だとしても、辻褄の合わない点もあることだが。
退屈してきた。その時だった。
「グゥルグぁアガが!!!」
犬? なのかどうか、はっきりわからない。より正鵠を捉えて言うなら、僕はこの生物を知らない。犬のように吠えてこそいるが、見てくれはおどろおどろしい異形の生物である。
少なくとも、僕の脳内図鑑にこいつはいない。類推してみても、犬とか、ケルベロスとか、その程度である。
ただはっきりわかるのは、こいつはとんでもなく凶暴だということだ。
敵対心がダダ漏れだ。
「グゥアッ!」
突如、隙を見たかのように襲いかかってきた。今まで培ってきた反射神経で、どうにか身を躱わす。手元に何も道具がない以上、追い払うこともできない。僕お得意の会話術も、当然役に立たない。身体能力は明らかに劣っている。地の利も向こうにあるだろう。
八方塞がりのようだ。
ど、どうしよう。
「これは、まずい!」
そう言いながら、僕はすぐそこの木に向かって走り、幹を蹴って、そのままの勢いで一番太そうな枝に捕まった。犬は危険で確かに強いが、所詮は陸の生物。テリトリーを一段あげれば問題ないというわけだ。
このまま待っていれば、自ずと諦めて帰っていくはずだ。そういう算段だったのだが…………。
「ガウッ! ガウッ!」
この犬、僕が手の届かない場所へ行ったや否や、掴まっている木の根本からしゃぶりつくようにして、すごい音をたてて噛み砕き始めたのだ。
木が揺れる。振り落とされることはないが、しかしこのままでは木は倒れてしまうだろう。
まさか、それを狙っているのか? 確かにこいつは僕の知らない生物ではあるが、そこまで聡明な行動を取れるとは思ってもいなかった。
どんどん木の根元が細くなっていく。このままでいるのがまずいというのは、誰の目から見ても明白だ。
うーん、どうする?
「グゥガァ! ガウッ?!」
次の瞬間、衝撃と共に僕の目は銀色の輝きを捉えた。
何か物体が飛んできて、それが木に刺さったらしい。激しく揺れる木。果物の気分とはこんな具合だろう。
飛んできたのは、銀色に染まっていて、人間の身長ほどの大きさの、二つの刃物が重なって形作っている、どこからどう見ても鋏だった。
だが、普通の鋏とは少し違う。大きさはもちろんそうなのだが、この鋏は本来刃が付いている方とは逆にも、刃がついているのだ。剣と似た形で、刃の先端も、ひどく鋭利に尖っている。
これが鋏なのだとして、僕は刃と持ち手の比率の差から、裁ち鋏のような印象を覚える。
それで、これが人力によって飛んできたものだというのは、議論をする必要もないとして、ならばこれを飛ばした人間は誰だというのだろう。
「お兄さん。危なかったねー。あの魔物、結構凶暴だから、気をつけてね」
そう言いながら、茂みの向こうから女が現れた。髪を団子にして結ってはいるが、それでも長さが余って、下に伸ばしている。
日本語? あの女はどうみても外国人だ。地獄では違う言語でも自動的に翻訳してくれるのだろうか。
「困るな。あれは僕が飼ってるペットだったんだけど。あーあ、もう少しで捕まえられそうだったのに」
僕はそんなくだらない嘘をついた。犬相手にはどうにも言葉が通じず、対処ができなかったので、その腹いせで、はたまたただの準備運動として言った。ちなみに例の犬は命の危機を感じたのか、さっさと逃げてしまった。こういうところも変に賢い。
「それ嘘でしょ」
看破された。しかも、この嘘について精査しているわけでもないようだ。確かにこの嘘は考えればすぐにわかるタイプの嘘ではあるが、そうは言ってもこのスピードはおかしい。違和感を覚えざるを得ない。
「あぁ! いや、ごめんなさい。僕、少し人見知りで。知らない人に会っちゃうと変な嘘をついてしまうんです。治さなきゃとは思っているんですけど、どうにも難しくて」
「それも嘘。ぜーんぶ嘘。しかも、あなた人に敬語なんて使うタイプじゃないでしょ。全部含めて嘘じゃない。はぁなんて悪い人。助けるんじゃなかった」
まただ。ここまでくればもう、心理透視のレベルなのではないだろうか。僕は嘘が最も得意だと言うのに、それがすべて無駄になってしまっている。
自分のアイデンティティが否定されているようである。
もっとも、肯定されるようなものでもないのだが。
「なぁ、どうして嘘だってわかるんだ? 僕の嘘はそこまでお粗末じゃないと思うんだけど」
目つきを変えて、性格のチャンネルを切り替えて、僕はその女に問い詰めた。
すると女は目を逸らして、
「別に、嘘に敏感なだけよ」
そんなカッコつけた風なことを言った。
だが、これはきっと嘘だろう。
ただの誤魔化し。僕に言いたくないことのようだ。
嘘を看破する能力には、並々ならない実力を持つ女だが、嘘をつく能力は毛ほどもないようだ。
「ひとつ質問。ここ、どこ?」
「知らない」
短い返答。どうやら相当に嫌われてしまったらしい。最悪な第一印象を植え付けてしまったみたいだ。
「じゃあ一緒に街かなんか探さない? 日が暮れる前に人里に行かなきゃいけないし。あぁ、これは本心だよ。嘘じゃない」
僕としては珍しく、正直な思いを話した。
「普通に嫌よ」
考慮する時間を全く要さず、彼女はそう僕の誘いを断った。
恐ろしく失礼な人間だ。思い返せば、初対面の人間を悪い人だの嘘つきだの言ってくるやつだ。礼儀というのを根本から知らないのかもしれない。
「それじゃ、あたしはいくから。嘘つきさん」
そう言って、女は去っていった。
あの女の嘘を看破する技術は本物だろう。僕にとって厄介な存在であることに間違いはない。
おかしな出会い方をしたのだ。変な縁が結ばれてなければ良いが。
気を取り直して、僕はまた太陽の方向へと歩き出した。ここだけ取ってみれば、なんだか青春を謳歌しているみたいで心も弾むが、しかしよくよく考えてみれば、僕は青春なんて経験したことない上に、学校にすら行った事がないので、厳密に言えばこれは嘘になってしまう。
それに、弾むべき心は、一度細切れになっている。
学校とは一体どういうところなのだろう。かつて小学校を丸々一棟騙した事があったが、あの時、関わった教員の人間や、生徒は、どんな人間だっただろうか。
確か、生徒に対しては『よくこんな地獄の沙汰を我慢できるな』と感慨し、教員に対しては『よくそんな不利益ばかりの職に就こうと思ったな』と呆れたのだった。
しかしまぁ結局、こうして道を踏み外し、生き恥に塗れた奴ができたのだから、学校とは大切な場所なのだろう。
と、らしくないことを思うのだった。格好つけているみたいで、若干恥ずかしい。
そういえば、この辺りはずっと一面木が生い茂っている。山か何かかと推測したが、降りている感じも登っている感じもしないのだから、樹海の類なのだろうか。
辺りを見渡せば、種類は違えど、そんな花ばかりだった。異質で特異で未知の花。たとえチューリップしか花を見た事がないやつが、この異常な花を見たとしても、僕と同じ反応になるだろう。
知らない犬。知らない花。
死んだ僕。
なるほど、どうやら尋常ではないみたいだ。
ガサっ――――
物音。なんだ? いや誰だ? まさか、あの犬が戻ってきたのか? 時期を見計らって? だとすれば、もう賢いなんて単純な言葉で推し量れる狡猾さではないぞ。もはや人間の領域だろう。
と、思ったのだが。
「やぁ、また――――会ったな」
「私のこと追いかけてきてる?」
そこにいたのは、あの鋏の女だった。
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