初めて呼んだ名前
怖い。
汗が急に出てきて身体が動かない。
鳴き声のような音にかき消され少しの物音では気付かれなさそうだったが、声をあげないようになんとか手を動かし口を押さえると慎重にその場を後にした。
戻るのが遅いと心配した母が家に入って来てしまう。
車に戻ると平然を装って「お気に入りのシュシュあったよ」とわざと大きな声で元気に言う。
母は「何かと思ったら大事な忘れ物ってシュシュだったの」と少し文句を言っているようだが頭に入ってこない。
先ほど見た姿と聞いた音が頭から離れず、心臓はずっと騒いでいる。
顔がこわばっているのが自分でも分かったので、窓越しに外を見るふりをして母から顔を背けた。
周りが暗くて良かった。
(あれは何だったんだ)
勝手に林さんだと思い込んだが、違う気もしてきた。
(大きなぬいぐるみ?)
(いや、動いていた)
(テレビの音を鳴き声と勘違いした?)
(いやいや、テレビはなかったと思う)
考えれば考えるほど分からなくなってくる。
早く祖父に確認したいが、これは話して良いのか。
知らないふりをしていた方が良いのだろうか。
色々と考えていたが、母の運転するいつもの車に安心したのか気付いたら窓にもたれたまま眠っていた。
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目が覚めると小雨が降っているのが部屋の窓から見えた。
いつの間にか自分のベッドで眠っていたので混乱したが、そのままボーっとしていると車から降りたりベッドに入ったりした記憶がうっすら蘇ってきた。
(夢?おじいちゃんの家に行ったのは?林さんは?おじいちゃんは?)
「杏ちゃーん!病院に行くからそろそろ起きて準備してー!」
寝起きの頭で考えていると母が叫んでいるのが聞こえた。
どうやら祖父がギックリ腰で病院にいるのは現実らしい。
準備をして祖父の待つ病院へ行かなくては。
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道中、林さんのことを考えていた。
祖父の家に遊びに行ったこと、祖父がギックリ腰になったことが現実なら、林さんと会ったことも現実なはず。そして奥の部屋で動物のようなものを見たことも。
祖父に話してみればハッキリするかもしれない。
病院で支払いを終えた母が、
「車を入口前まで移動させるからおじいちゃんと待ってて。」
と車を取りに行った。
さっそく祖父と二人になった。
まだ頭は働いてないけど、昨日のことを話してしまおう。
「おじいちゃん、実は昨日の帰り、おじいちゃんの家に寄ったんだ。」
祖父は驚いている様子だ。
「・・家の中にも入ったのかい?」
「そう、ごめん。けど一人でね。それで奥の部屋から音が聞こえたから覗いたら動物みたいなのがいて・・。」
話し始めたのは良いが、そこから何と話せば良いのか分からなくなった。
やはり夢だった気もしてきた。
これ以上話して「林さん?動物?何のことだい?」と言われたら誤魔化せない。
高校生にもなって現実と夢の区別もつかないなんて、と恥をかくだけだ。
わたしが俯くと
「そっか、そっか。結局話せてなかったからね。おじいちゃんこそ驚かせてしまってごめんね。」
と祖父もハッキリしたことは言わずに何かを謝った。
それに対し小さな声で「ううん」と言うのが精いっぱいで、あとは黙ってしまった。
話さない方が良かったのかもしれない。
祖父も何か考えているようで黙っている。
そこへ思ったより早く母の車が来た。
足りないと思った時間は余ってしまっていたので助かった。
車中はこれからのことを祖父と母で話していたので、わたしが黙っていても違和感ないままあっという間に祖父の家に着いた。
家の中に入っても昨日聞こえた音は何も聞こえず、気配も感じない。
やはりわたしの記憶が間違っていたのかもしれない。
母はそのまま日用品を買いに出かけ、わたしは祖父と一緒に留守番をすることになった。
車が出発するのを見届けると
「さてさて。林さんも呼ぼうか。」
と祖父が言った。
「・・林さんいるの?昨日わたしが見たのはやっぱり林さんなの?」
驚きと嬉しさで祖父を見つめる。
「なんだ?話しかけたわけではなかったのかい?」
「うん。怖くて黙って帰ったんだ。」
「そっか。見た目は変わっても、林さんだから大丈夫だよ。」
祖父は笑いながらそう言うと奥の部屋へ入っていった。
そのまま待っていると、昨日、庭掃除をしていた林さんが祖父と共に出てきた。
「杏ちゃん。」
その声に驚き身体が動いた。
急に名前を呼ばれたからではない。
声の主が祖父ではなく林さんだったからだ。
(わたしの名前、覚えててくれてたんだ。)
「林さん、こんにちは。」
本人を目の前に名前を呼ぶのはわたしも初めてかもしれない。
なんだか照れる。
挨拶を終えると昨日と同じように三人でテーブルを囲んだ。
「それで杏ちゃん、時間も無いし早速なんだけど・・林さんは日中は今の姿で、夜は昨日杏ちゃんが見た姿なんだ。姿は変わってもどちらも林さんだよ。」
(・・やっぱり。)
それも夢ではなかったようだが、何と言えばいいのか分からない。
服装以外の見た目は全く違うし、さっきわたしの名前を呼んだ声は透き通った優しい声だった。とても昨日の音と同じとは思えない。
「あと、実は林さんのことはまだ分からないことが多い上に、知っているのがおじいちゃんだけなんじゃ。それで~、林さんも寂しいだろうし杏ちゃんに友達になってほしいんだけど、駄目かな?」
正直まだ混乱しているが、同時に気持ちが高揚しているの分かる。戸惑いや恐怖心以上に、林さんと友達になれたら嬉しいと心から思った。
「もちろん良いよ!林さんよろしくね。」
林さんにそう言うと、林さんは祖父からスカーフをもらった時のように嬉しそうに微笑んでいた。