小田川隼人の生
半開きとなった2階の窓に朱色の夕焼けが六畳の部屋を重々しく汚した。
無造作に開けられた窓から沈んでいく世界を見つめながら背後に居る友に告げた。
『綺麗だよ。夕焼けが』
ばたばたと耳障りに響く音を気にもせず友は繰り返すようにして答えた。
『うん。綺麗だ』
穏やかな声。
もう何年も聞いていない。
いや、もしかしたら初めて聞くかもしれない。
いずれにせよ、私は小田川隼人がこのように優しげな声を出せるとは知らなかった。
生まれてからずっと傍に居たのに。
『いつか話していたよね』
沈んでいく太陽を見つめながら私は言った。
『二人で一日中寝そべってお日様を見ていたいって』
『そうだな。そんなことも話した』
隼人はそう言うと私の隣へとやってきた。
熱を帯びた火のように赤に包まれ、私達は一瞬のうちに骨だけを残して燃え尽きてしまうのではないかと思えた。
『お前には骨はないだろ』
隼人が笑い、私も頷いた。
『そうね、私にはない』
色ばかりが艶やかな赤が実に白々しい。
私達の体は凍えてしまいそうなほどに冷たい。
一刻、また一刻と冷たくなる世界に二人で立ち尽くしながら私は尋ねた。
『後悔している?』
私は隼人からどんな答えを聞きたかったのだろうか。
どのような答えを聞けば無力な自分を慰められたのだろうか。
『いや』
いずれにせよ、私は意外なほどに。
『ほとんどしていない』
苦しみもなければ、傷つきもしなかった。
隼人は初めて見る晴れやかな顔を夕陽に向けながら笑う。
『むしろ、幸せだよ。心からそう思う』
温かく照らされた表情には清々しい解放感さえあった。
『もう苦しまなくていいんだ』
隼人はそう言うと私を軽く抱き締めた。
冷たい。
そう感じるのは闇に包まれようとしている世界にいるためか。
暖かい。
そう信じ続けられるのは初めて触れる隼人の温もりのためか。
耳の奥にまで響くばたばたとした踠く音はいつの間にか消えていた。
『隼人』
私は彼に抱き締められながら尋ねた。
『辛かった?』
『とても』
隼人は生きるのが下手だった。
『苦しかった?』
『ずっとね』
隼人はいつだって泣いていた。
『怖かった?』
『耐えられないくらい』
隼人はずっと独りきりだった。
ずっと、ずっと独りで泣いていた。
それなのに私は触れることも出来ず、声さえも自分の意思で口にすることが出来ない。
そんな時間が永く、永く続いていた。
『ごめんなさい』
震えながら謝罪をする私の声に対し彼の声は滑稽なほどに明るかった。
『お前が謝ることじゃない』
そう言うと隼人は私から身を離し、踵を返してそれを見つめた。
『むしろ、謝るのは俺の方だ』
無言のまま先を促すと隼人は視線を僅かにも泳がさずに言葉を紡いだ。
『お前を殺してしまった』
彼の視線の先には天井から吊るされた人間が。
首を吊った骸が。
先ほどまで命に縛られていた小田川隼人の姿があった。
『気にしないで』
私は迷った末に笑うことにした。
魂を失った骸は苦悶の表情を浮かべているけれど。
魂となった彼は初めて出会ったあの日から一度も見たことのない穏やかな微笑みを浮かべている。
隼人から生まれた私は隼人が死ねば生きていけない。
けれど、そんなことは全く気にならなかった。
隣に立つ彼はもう苦しまなくて良いのだから。
『あなたが幸せならそれでいい』
夕闇の直前。
夜が降る一瞬の猶予。
感じたこともない明かりに包まれながら私は言った。
『よく頑張ったね。隼人』
そう言った刹那。
隣に立っていたはずの隼人はどこにも居なかった。
私はただ独り隼人の遺体を見上げていた。
咳をしても独り。
生を苦しみ抜き自ら死を選んだ小田川隼人はようやく息絶えた。
ほどなく私も消え失せるだろう。
そう理解しながら、私は隼人を見つめてぽつりと言った。
『次は人間に生まれないといいね』
私の最期の言葉は隼人が願い続けた意思と交わり静謐な風となって明るく沈む世界へ溶けた。