8兄妹
体が重かった。
気づけば家に帰っていて、気づけば眠っていた。
寝ている間に泣いたみたいで、起きたら目元に違和感があった。
何も食べずに眠ってしまったからか、お腹が小さく音を立てた。途端に空腹感が押し寄せた。
このまま、眠るように死んでしまいたかった。心に広がる絶望感を胸に、私は膝を抱え、布団の中で丸くなる。
まどろみの中に、落ちていく。世界に溶けるように、私という輪郭が曖昧になる。
そう、このまま溶けて――
ジリリリ、と目覚ましが音を立てる。
アラームを消して、再び布団の中に潜り込む。
お腹が鳴る。絶望しているはずなのに、死んでしまいたいだなんて思っているのに、私の体は生きることを求めていた。食事を欲していた。
「……馬鹿みたい」
ああ、私は馬鹿だった。
失恋ごときで死にたいだなんて思うなんて、物語の中の気弱なお姫様みたいだった。
神様にあんなお願いをする自業自得な私は、馬鹿以外の言葉では形容できそうにない。
布団から起き上がる。
カーテンを引けば、まばゆい朝日がレースを透過して私の目に差し込んだ。
明るい陽射しに目を眇めながら、私は大きく息を吸って、吐き出す。胸の内に凝る、たくさんの想いを、吐き出す。
「よしッ」
くよくよしているなんて私の趣味じゃない。打たれ弱い方である自覚はあるけれど、私は立ち直りも早いのだ。
そうと決まったら、さっさと学校に行く準備をしよう。
大丈夫。だって、久徳くんはどうせ、告白に関するすべてを忘れているのだから。この痛みは、私の中にしかない。何度も振られた久徳くんの心の中には失恋の痛みはなくて、告白叶った私の心にだけ痛みがあるというのは、ひどく皮肉めいていた。
できれば一本早い電車に乗って、久徳くんと顔を合わせないようにしよう。
電車に乗りながら、やっぱり私は久徳くんの姿を車窓の向こうに探していた。
もう、笑うしかなかった。恋って、こんなにも人を狂わせるんだ。
失恋したはずだった。諦めたはずだった。私には恋はできないと、恋を実らせはしないと、神様か誰かにそう突き付けられたはずだった。なのに私は、今日も久徳くんを一目見ることを求めていた。久徳くんの視界の中に入ることを、その目に留まることを求めていた。
これを笑う以外に何ができるだろうか。
自分が怪物のように思えた。
恋は病だ。人間を狂わせる、最悪の病。
そんな麻疹にかかった私はもう、人間として駄目なのかもしれない。
久徳くんの姿は、見つからなかった。私は失意と、けれど同じくらいの安堵を込めて息を吐き、学校の最寄りの駅で降車して。
「……?」
ふと感じた何かの違和感に、私は足を止めた。
右を見て、左を見て、前を見る。
けだるそうに歩くサラリーマン、リュックを背負った小学生くらいの人、ベビーカーに乗った小さな子を連れた親子。
そこに、高校の生徒はいなかった。
無意識に取り出したスマホを開く。そこに目を向けて、私は小さく息を飲んだ。
土曜日――学校のない日、私は学校最寄りの駅のホーム中央に立ち尽くしていた。
ああ、恋は人を盲目にすると、そんなことを思いながら。
どうしてお母さんは私に言ってくれなかったんだろうか。ああでも、人によっては部活動があるのか。私が部活に行くと思ったのだろうか。出不精なこの私が?
「……まあいいや」
幸い、学校までは定期券だ。ただ時間を無駄にしただけ。ホームにあるベンチに座って息を吐く。
ああ、本当にどうしてくれよう。
泣き叫ぶカラスたちが飛び立つ。アナウンスが次の電車の到着を告げる。ぼんやりと眺めていた私の前、ホームに電車が滑り込む。
ふと、車両の一つ、窓の中に視線が吸い寄せられた。
驚いたように目を見開く彼――久徳くんの姿が、そこにあった。
「……え?」
見間違いかと、恋に狂った心が生み出したまやかしかと、そう思いながらも私は気づけば立ち上がっていた。
電車が止まり、まばらに人が下りる。そんな集団の中、久徳くんが小さな、小学生くらいの少女と手をつないで下りて来る。その目は、真っすぐ私に向かっていた。
私の目は、久徳くんと手をつなぐ少女から視線を逸らすように、不自然に下を向いていた。新しい久徳くんの恋人を前に、私はひどく痛む胸を押さえた。
「大丈夫、近藤さん!?」
やっぱり久徳くんは優しい。私なんかよりずっと。
ただのクラスメイトに過ぎない私に、こんなにも心配気な声で尋ねてくれるのだから。
その思いを、彼女に向けてほしい――そう思いながら、私はちらと顔を上げて。
久徳くんと手を握る少女は、けれど私の予想した、昨日の美少女ではなかった。
可愛らしいと形容するのがふさわしい、幼さの残る少女。短い黒髪に、程よく日に焼けた健康そうな肌。大きな焦げ茶の目に、程よく整った顔つき。その目鼻立ちには、久徳くんに共通するものがあった。
「……ええと?」
私の視線に気づいたのか、久徳くんは少しだけ恥ずかしそうに頬を赤くしながら少女を引き寄せた。
「紹介するよ。僕の妹の明日香だよ。ほら、挨拶して」
「ん……こんにちは、おねーちゃん」
「こんにちは、明日香ちゃん。私は近藤奈津。よろしくね」
まだ小学生にもなっていないくらいだろうか。小さな少女はこっくりと頷き、それから久徳くんを見上げ、私を見て首をひねる。
「おねーちゃん、おめかし?」
「……そう言えば休みの日なのに制服を着ているんだね?部活かなにか?」
「あ、いや、部活には入っていなくて……」
しどろもどろになりながら、私はうつむきがちに答える。必死に思考を巡らすも、上手い言い訳を思いつくことはできなかった。
一体誰が休日であることも忘れて学校に登校してきましたなどと馬鹿正直に言えるだろうか。クラスメイトにそんなことを知られたら赤っ恥だ。多分休み明けにはそんな馬鹿話がクラス中に広まっていて、私は笑いものにされるんだ。
いや、久徳くんはそんなことはしないだろう。彼は知らないかもしれないけれど、私は久徳くんの誠実さを知っているつもりだ。
……そう、久徳くんは誠実で、優しくて、頼りになる男子なんだ。
「……その、ね。朝ぼんやりしていて、平日と勘違いしたの」
顔がひどく熱を帯びた。久徳くんの反応を見てられなくてうつむく私の視界の中では、ぽかんと口を開いた明日香ちゃんの姿があった。ぱちぱちと瞬きするたびに大きな瞳が揺れる。大丈夫?とどこか心配げな視線を感じた気がして、私は小さな子にさえ気遣われる無様な自分が情けなくて仕方がなかった。
「……そっか。やっぱり春は落ち着かないよね。僕も高校に入ってから新しいことばかりで一杯いっぱいだよ。そのせいで先週の土曜日は夢うつつなところで、もしかして寝過ごしたか!?なんて思って飛び起きてしまったよ」
多分、嘘だ。私の恥ずかしさを誤魔化すためのでっち上げの話。そんな優しい所が、憎いほどに私の心に刺さる。
ちくり、と心が痛んだ。
目元が熱くて、顔を上げることができなかった。
ぱちくり、と一度瞬きした明日香ちゃんが、久徳くんから手を放してとてとてと私に歩み寄る。
「……だいじょーぶ」
きゅ、と私の足に抱き着いてきた明日香ちゃんが、私を見上げながら告げる。その一撃が、私の涙腺を崩壊させた。
明日香ちゃんの柔らかな絹のような頬に水滴が落ちる。
「あ……ご、ごめんね」
どうして謝っているのか、どうして泣いているのか、よくわからなくなるほどに頭が真っ白になりつつ、私は明日香ちゃんの頬をハンカチでぬぐった。拭かれるままになっていた明日香ちゃんだったけれど、やがて私の手を握り、その手の中からハンカチを奪い取った。
「……ん」
何かを求めるように、明日香ちゃんが視線で私に語る。反応しない私が不満だったのか、頬を膨らませ、それから一度私の足から離れて両手を広げる。
……抱っこ、だろうか。
恐る恐る両脇に手を滑り込ませて抱き上げれば、柔らかな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。
「……いたいのいたいの、とんでけー!」
あまり感情の起伏の少ない顔と声で告げる明日香ちゃんが、私の頬をハンカチでぬぐって、魔法の言葉をかけてくれる。
小さな腕で涙を拭いてくれる明日香ちゃんが愛おしくて、眩しくて、私は頬を緩めて笑った。
「好きだ」
「……へ?」
その時、突然聞こえて来た声に私の思考が停止する。それが誰の言葉か、誰に向けられた言葉なのか、私は考えるまでもなく理解していた。それでも、理解したくはなかった。
明日香ちゃんから視線をそらし、ゆっくりと彼へと目を向ける。そこに、どこまでも真っすぐな目をした久徳くんの姿を見た。
「君の泣き顔を、見たくないと思った。君に、そんな顔をさせたくないと思ったんだ。それに、明日香を見た際の、つぼみが開いたような可憐なその笑みを、僕に向けてほしいと思ったんだ。……僕は、君が好きだよ。近藤さん」
最後、溜めた一言を告げる瞬間に、ホームへと電車が滑り込んでくる。家に帰る方向の電車だ。その音が、久徳くんの声を消した。けれど、その口の形が、その表情が、既視感が、一言一句、聞きもらしなく彼の言葉を伝えていた。
腕の中、身じろぎする明日香ちゃんの熱を感じながら、私は何かを言うために口を開いて、
「――――、」
何を言うこともできないうちに、視界がネガのように揺らぎ、複雑怪奇な色を帯び、やがて時が戻った。
電車が揺れる。学校最寄りの駅に、私が乗っている電車が滑り込む。迷ったのは一瞬、たった一か月とはいえ体に染みついた習慣が、無意識のうちに私の体をホームへと下ろした。
私は一人、駅で降りた数名のサラリーマンの流れを無視して、ホームに立ち尽くした。
心の中に凝る言葉にできない思いを、大きく吸った息と共に吐きだして。
私は妹の明日香ちゃんとの予定があるだろう久徳くんの邪魔をしないために、改札に続く階段へと歩き出した。