6転倒
私の身に起こっている不思議現象について、現状でわかっていることは多くない。
始まりはたぶん、神社で願いごとをしたこと。
『人が恋に落ちる瞬間を見たいです』その願いが神様に届いたのか、私は入学式の日に久徳くんに一目ぼれされ、告白された。その告白を断った瞬間、私は少しだけ過去に戻り、そして自分の行動により、久徳くんと関わらないという選択肢を得た。
つまり、私の不思議現象は告白に始まり、それを拒否した場合には少し前の時間に戻り、告白されない未来を主体的に選ぶことができる、ということだ。さすがに悪女にもほどがあるから告白を繰り返すなんてことは試していないけれど、たぶん似たようなふるまいをすれば、同じ流れで久徳くんに告白をされるんじゃないかと思う。だって、久徳君は惚れっぽいから。
そもそも、この久徳くんの告白、ひいては私への久徳くんの恋心も、真実のものであるか定かではない。神様が私の不思議現象にかかわっているのだとすれば、久徳くんの思いだって捏造された、神様の手が加わった作り物である可能性があるのだ。
つまり久徳くんの心は、私と神様に弄ばれている?
ああ、だとすれば私は本当に嫌な奴だ。ひょっとしたら、久徳くんの告白を受け入れることで、この現象は終わるのかもしれない。だとすれば、告白から逃げて久徳くんの勇気をなかったことにする私は本当にひどい奴だ。
けれど一方で、告白を受け入れてなお回帰したとしたら、私はもう私を許せない。その場合は、とにかく久徳くんという存在で遊んでいることに他ならないのだから。
そもそも、久徳くんが私に告白するのは、何か理由があるのだろうか。彼が偶々、私の高校生活で接点が多そうだったから?あるいは、何かこう、運命的なものがあったから?話が合うから?
わからない。わからないけれど、わかることが一つ。
私と久徳くんは、こうしている今も少しばかり話をするクラスメイトという微妙な関係性であるということだ。
「……近藤さん?何をそんなに真剣に読んでるの?」
言いながら、久徳くんがちらりと私の手元を見る。凝視しなかったのは、他人のスマホ画面を勝手にのぞくという不誠実な行為を久徳くんが嫌ったからだろう。それでも、位置的に私のスマホ画面が久徳くんの視界に普通に映ってしまう状態だった。
慌ててスマホを体に押し当て、上目遣いに久徳くんをにらむ。かわいくない私の攻撃であっても、たぶん久徳くんなら多少はひるんでくれるんじゃないだろうか。
「……見た?」
「…………ごめん。ちらっと。あ、でも。いい趣味をしてると思うよ?僕もその小説家さんの話は読んだことがあるんだ。ほら、あの踏切の両側で思いを告げるやつ」
謝罪から続くその言葉は、私にとって寝耳に水だった。踏切――過去の小説を探りながら、私は必死に考える。
ああ、あった気がする。そう確信した次の瞬間、私の心臓は激しく音を鳴らした。
え、まって?久徳くんが私の小説を読んだことがある?こんな残念な小説を?しかもいい趣味だって言ったよね?つまり私の小説が面白かったってこと?本当に?本当にそう思っていいの?
ふぅ、落ち着け、落ち着け私。今ならまだ久徳くんにこの作者が私だってばれてない。たまたまサイトを辿っているうちに目がついただけだって、そう言い訳すればいい。だから心臓を落ち着けて、頬の熱を取らないと――
電車のアナウンスが響いた。降りる駅。
幸い、そのことに気づいた久徳くんは小説から降車に意識が移り、私は自分の小説をそうと知られずに久徳くんに評価されるという辱めから逃れることができた。
満員電車の中、私と久徳くんは吐き出されるように外に出る。
そのまま、流れるように私たちは歩き出す。
階段までの距離は遠い。何しろ階段付近の電車は同じ高校の生徒がたくさんいてなんとなく居心地が悪いから端の車両に乗っている。
だから私たちは、前をぞろぞろと歩く生徒の集団の流れに身を任せて歩き出す。降りる際に距離が離れてしまったため、私たちは何となくそれなりの距離を維持しながら進んでいた。
周囲にはサラリーマンと、少しばかりの同じ学校の生徒。知り合いはいない。そんなことを見ていた私の視界、階段の途中まで登った久徳くんの体が揺れた。
倒れる――そう理解した時には、私の体はもう走り出していた。
階段下へと背中から倒れこむ久徳くんを支えるように、私はその下に滑り込む。
大きな背中が近づいてくる。それを見ながら、久徳くんも男の子なんだな、なんてどこか場違いなことを考えて。
「ふぐ!?」
久徳くんの体に押しつぶされそうになりながらも、私は何とか怪我なく彼を支えることに成功した。
「大丈夫久徳くん!?」
「……近藤さん?」
ぼうっと私の顔を見て、それから先ほど自分が階段を落ちそうになったことを思い出した久徳くんは慌てて私の体を見て、それからほっと息を吐いた。
「近藤さんに怪我がないみたいでよかったよ。助けてくれてありがとう」
「それよりも久徳くんだよ。何があったの?足を滑らせただけ?怪我はない!?」
矢継ぎ早に質問すれば、久徳くんは少し困ったように、それから恥ずかし気に顔を赤くして頬を染める。
「大丈夫だよ。ただ、そのね、すぐにでも学校について、近藤さんと小説の話ができたらって思ったら心が弾んで――」
――気づいたら階段を踏み外していたんだ、と頬を掻きながら告げた。
つまり、私のせい?私が久徳くんをそわそわさせたせいで、彼が怪我をしそうになった?だとすれば私はお礼を言われるような資格はない。そうじゃなくてもすでに今日、私は久徳くんに負い目を感じるような選択をしたのに――
ふと、何の気負いも感じられない自然さで、久徳君が私の手をそっと握った。
ホームにて、次の電車がやってくるアナウンスが響く。遠くから近づいてくる電車の音を聞きながら、私は目の前にある久徳くんの顔から目が離せなかった。
駅のホームから続く階段途中。そこで膝をついた私の手を握る久徳くんの目には、あの強い熱と輝きがあった。
続く言葉は、もう考えるまでもなく明らかだった。
「反射的に僕を助けに動くことができる君の強さに惚れたんだ。どうか僕と付き合ってほしい」
言葉は出なかった。ひょっとしたら私が何かをすれば、それはすべて久徳くんの告白につながるんじゃないだろうか。
そう考えると、ひどく怖くさえあった。告白を断る申し訳なさよりも、何よりも、久徳くんという存在を捻じ曲げているだろう私と神様に私は怒りを覚えた。
「……ごめんなさい」
ホームについた電車から生徒があふれる。階段中央で何やらロマンスめいたことをやっている私たちにその視線が集中する。
針のむしろの中、私はそう断りのセリフを口にして。
瞬間、いつものように世界が揺らぎ、私はやっぱり少し前の時間に戻っていた。
電車が揺れる。駅に着くたびに電車に人が入ってきて、私と久徳くんの間の会話が途切れる。
久徳くんは鞄に入れていた本を開き、私はスマホを開――こうとして、思いとどまってやめる。
ここでまた久徳くんと小説の話になれば、もう一度久徳くんが階段で転んでしまうかもしれない。さっきは助けることができたけれど、今度は助けられるかわからない。あの時はとっさに体が動いただけだから。
どうか、久徳くんが怪我をしませんように。
そんな祈りを胸に、私は取り出しかけていたスマホを再びポケットの中に封印して、窓の外の景色を眺め続けた。
ずいぶん昔に書いた、階段を落ちる少年を救った少女。その二人の間で始まるロマンス小説を思い出しながら。