5小説紹介
一晩寝れば、腫れぼったい目元の熱も引いた。外見上、私には何の変化もなかった。
ただ、どこかよそよそしい両親から逃げるように、私は家を飛び出した。
電車に揺られながら、私は気づけば久徳くんの姿を探していた。
惚れっぽい彼は、あの子に告白しただろうか。怯えるあなたを守りたいだとか言って、彼女もまた、顔を真っ赤にしてその告白に頷きを返すのだ。
書き直した物語を、確認する。Webにアップしてあるそれの作品ページを見ていて、気づく。一つ、評価がされていた。読まれてこそいても評価の一つもなかった駄作が、誰かに読まれ、少しであっても誰かの心に触れていた。
泣きそうだった。嬉しくて、悲しくて、自分がおかしくなってしまったような気がした。
以前スマホのメモに記入した物語を推敲して、新しくアップする。短い恋愛小説ばかりが並んだ私の投稿ページに、また一つ作品が増えた。
一分、二分と、更新ボタンを押しながら時を待った。やがて一つ、アクセス記録が出て、私は得体のしれない衝動を味わった。
ぞわりと背筋に何かが走り、それが脳にしびれるような興奮をもたらした。
小説ページへと移り、何度も、何度も、作品を確認する。これが、今の私の全力。けれどいつか、もっと、もっと多くの人の心に響くものに――
「何読んでるの?」
まるで竹馬の友のように、彼は何の気負いもなく私に話しかけて来た。え、と思わず思考が止まって、私は慌てて顔を上げる。
そこには、もう睫毛の数まではっきりと思い出せそうなほどに私の中に顔や姿、声が刻まれた彼――久徳くんがいた。
はっと視線を動かせば、扉が閉まった電車が走り出す。車窓の先を流れるホームにある看板は、久徳くんの最寄り駅を示していた。
「……おはよう」
「うん、おはよう。朝からずいぶん熱心に何か読んでいたよね。面白いニュースでもあった?」
「え、あ、いや、ネット小説だけど……」
きらりと、久徳くんの目が光った気がした。高校生活初日の、彼の自己紹介のことを思い出した。確か、読書が趣味――
「どんな小説!?どれくらい読んでる!?何かおすすめの作品はない!?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、私はただ目を白黒させていた。久徳くんって、こんな人なの?
これまでできるだけ近づかないようにして告白からも逃げて来たから、私はあまりにも久徳くんのことを知らなかった。
もし、彼のことをもっと知ったら――いいや、駄目だ。彼はたぶん、きっと、あの少女の恋人なのだから。
考えたら、気になって仕方がなかった。私の言葉の続きを待つ彼の顔を、じっと見つめる。
何かついてるかな?と言いたげに久徳くんが首をひねる。
なんだかやけに子どもっぽいしぐさに、私は思わずくすりと笑った。なんとなく、今なら聞ける気がした。
「……あの、さ。久徳くんって、付き合っている人っているの?」
「え?突然どうしたの?」
「実は一昨日、その、見たって言うか聞いたって言うか……」
美少女を助けて疾走する久徳くんを見た。その少女が恋に落ちた乙女の顔をしていた。吊り橋効果と勢いで彼女は久徳くんに告白をしたんじゃないか。そして可愛いあの子の告白を、久徳くんは受け入れたんじゃないか――そんな考えの全てが伝わったわけじゃないだろうが、彼は苦笑しながら窓の外を見た。
「昨日、聞いてたんだ?うん、まあ告白されたよ……断ったけどね」
言いながら、久徳くんはちらりと私の方を見た。恥ずかしそうな赤い顔が、網膜に焼き付いた。
私の頭は、困惑で一杯だった。
え、断った?あの美少女の告白を?久徳くんって、もしかして相当天然入ってる?美少女だったよね?男子が十人いれば十人とも振り返って穴が開くほど見つめるような、そんな子だったよね?いいところのお嬢様ですって感じがにじみ出ていて、守ってあげたくなるような、そんな子だったよね。
あ、もしかして守ってあげたくなる子じゃなくて、守ってくれる子が趣味だとか?だとすれば私に告白っていうのも変だし……
「すごくきれいな子だったよね。正直嫉妬すらできないような、さ」
「あー、うん、まあ、綺麗な子だったとは思うよ。でも、さ。多分あの子、小学生だよ」
小学生、その響きに、私は脳天に雷が落ちたような思いだった。なるほど、確かに、美しさの中に幼さが垣間見えて、そのせいか一層庇護欲を掻きたてる容姿をしていた。
小学生と、高校生……犯罪とまではいかないまでも、多分からかわれる年齢差だと思う。これが幼馴染だとかになれば……まあ小説のネタとしてはすごくおいしいんじゃないだろうか。現実でありかどうかはともかく。
そうだな……振られても彼女は淡い恋心を忘れず、大きくなって久徳くんと再会。幼い頃の彼女のことを思い出した久徳くんは、ますます美しくなったその子に一目で恋に落ちて、立場が逆転して……だめだ、これ以上久徳くんに迷惑を掛けないと、彼の青春を遠目で見守ると誓ったのに、どうして私はこんなことを考えているのか。
これが職業病という奴だろうか。
別に、私が小説を書いているのは趣味だ。そりゃあ、サクセスストーリーを夢想したことがないとは言わない。投稿している作品にオファーがかかって、出版、あれよという間にメディアミックス……考えただけでも恥ずかしい。私の作品なんて、ネット上に星の数ほど溢れている小説の、最底辺を這うレベルだ。いや、最底辺より一歩上くらいだろうか。
まあ、趣味だ。だから、職業病になんてなっていたら駄目だ。趣味のせいで貴重な高校生活を棒に振るなんて、女子高生として終わっている。
……でも、私は久徳くんの告白を拒絶した。告白から、逃げた。
こんな私の高校生活なんて、終わっていればいいんじゃないだろうか。
暗い思考のそこに沈もうとする私の意識をもちあげたのは、どこかそわそわした様子の久徳くんの声だった。
「それより近藤さん、小説、何か面白いのない?さっき読んでいた作品とかさ」
「あぁ……久徳くんって、確か、ミステリー好きだっけ」
「そう、よく知ってるね!」
「自己紹介の時に話してたよね」
「まさか……同士!?」
「どうし?ああ、いや、別にそこまでミステリーが好きってわけじゃないけど」
言えば、久徳くんは絶望の顔で肩を落とす。今日はなんだかたくさん久徳くんの新たな一面を見ている気がする。
「まあ、ミステリー作家さんは尊敬するよ。常人の私には考えもつかないようなトリックとか展開とか……ミステリーってまさしく、小説界の人工の宝石って感じだよね」
「そう!そうなんだよ!緻密に設計され、全てが顛末に繋がる最高の芸術!それがミステリー小説なんだよ!」
「ミステリーってだけでも広いもんね。鉄道ものに、クローズドサークルに、探偵とか警察が居合わせるかどうかだけでもだいぶ雰囲気が変わるし、中にはすごい変わった探偵がいたりしてね」
「変わった探偵っていうと……眠ると全部忘れてしまうとか?」
「ああ、彼女もそうだね。後はオタク男子高校生とか?」
「おお!いいね!いいよ!わかってるね!」
きゃっきゃと姦しく告げる久徳くんがぎゅっとわたしの手を握る。その圧に、熱に、私はたじたじだった。
本当、久徳くんを私は全く知らないんだな。
顔が熱を帯びる。ずい、と身を乗り出した久徳くんはキスしそうなほどに私に顔を近づけていた。
「それで?ほかにはどんな小説が好きかな?別にミステリーじゃなくてもいいよ?」
「んー……ガンバシリーズとかは幼いながらに興奮して読んだよ。後は守り人シリーズとか。最近だと、ロスト・シンボルが刺さったかな」
「おお、なかなか渋くてシリアスなのも行くんだね?だとするとアルセーヌ・ルパンも刺さるんじゃないかなぁ。本家本元、モーリス・ルブランさんの作品だよ」
「ああ、ホームズは少しだけ読んだことがあるけど、ルパンは読んだことがなかったよ。それじゃあ今度読んでみようかな」
「うん!ぜひ読んでみて!それから感想合戦をしよう。ああ、夢だったんだ。こうして本のことを話せるのって。なんか僕って、他の人からこう、軽いって思われてるみたいで、小説の話とかすると友人が引くんだよね……」
「ああ、久徳くんってなんか軽薄そうに見えるものね」
「嘘!?どこが、どう!?」
こうして詰め寄ったり、平然と異性の手を取ったりできるところとか、あとは初対面で告白するようなところだ――そんな言葉は私の口を出ることはなかった。
なぜなら、気づいてしまったから、私の手をきゅっと握る久徳君の瞳が、ひどく熱いことを。
その熱を、その光を、その輝きのもとになる感情を、私は知っている。予想がついてしまう。
嫌だ、やめてと心が叫んだ。けれど久徳くんは止まってくれない。
世界から、音が消えた。喧噪も、電車の音も、周囲からの視線もすべて、私の意識には昇らなくなった。
まるで胸にあるその熱に急き立てられるように、彼は決定的な言葉を口にした。口に、してしまった。
「君と話しているのはすごく楽しいよ。ずっと、こうしていられたらって思う。遠慮なく言葉を重ねてくれる君が僕は好きだよ。僕と付き合ってほしい。そしてこれからも、こうしてたくさん話をしたい」
その告白は、これまでの四回の告白のどれよりも、地に足ついた言葉だった。その言葉に、私は確かな未来を見た気がした。これからもこうして、時に電車で、時に学校で、久徳くんとたわいもない話を重ねるのだ。
例えばそれは小説のことで、あるいはそのうちに小説以外にも話は弾むのだ。そのうちに、私たちは相手の懐に踏み込み、心を交わし、他の人たちとは少し違った流れで、私たちなりの恋人になるのだ。
ああ、それはたぶん、すごく楽しいだろう。すごく幸せだろう。
想像するだけで心が弾んだ。
でも、駄目だ。駄目なんだ。だって、私はもう四回も、久徳くんの告白をなかったことにしている。たとえ久徳くんの心にその過去がなかったとしても、私だけは覚えている。私だけは、こんな不誠実な私を、確かに覚えてしまっている。
そんな身で、私はどの口で久徳君の告白を受け入れるのだろうか。どうして、そんなことができようか。
久徳くんのことを思うなら、私は身を引かなければいけない。
この胸の高鳴りから目をそらして、思いを封印して。
だって、それが最も、幸せな未来だと思うから――
「――ごめんなさい」
瞬間、世界がねじれ、まるで海面に広がる重油のように景色がぐちゃぐちゃになる。わずかな浮遊感とともに私が瞬きした次の瞬間、世界は元の形を取り戻していた。
ガタン、と電車が揺れ、私はとっさに手すりに手を伸ばす。
その拍子に触れたスマホで、Webに新たな作品が投稿される。
入ってくる久徳くんを待ち望むように扉を見ながら、私は無意識のうちに更新ボタンを連打していた。
そのアクセス履歴は、けれど少しも伸びはしなかった。ゼロはいつまで経っても一にはならず、ただ違和感だけがお腹の中で存在感を増していく。
おかしい。さっきはすぐにアクセス数が伸びたのに――
「おはよう、近藤さん。何読んでるの?」
気づけばすぐ目の前に久徳くんがいて、私はとっさにスマホの電源を切った。幸い、久徳くんの位置から私のスマホ画面は見えなかった。
「ううん。何でもない」
「……そう?」
不思議そうに首を傾げた久徳くんは、それからクラスメイトという少し微妙な距離感の相手である私と、たわいもない会話を重ねた。
そこには小説の話題が出ることはなかったし、久徳くんが目を輝かせて私の手を握ることもなかった。
楽しかったさっきまでの時間を思う以上に、私の頭は混乱でいっぱいだった。
告白を拒否した先の世界は、ただ久徳くんの告白がなかったことになった選択肢の未来だと思っていた。
けれどひょっとしたら違うのかもしれない。久徳くんの告白以外にも、世界は少しだけ変化しているのかもしれない。
その小さな変化が、未来では取り返しがつかないほど大きなものとなる――タイムリープもの定番の未来のゆがみが、私の選択によっても起こりうるのだろうか。
違う。そんなことはないはずだ。さっきのだって、ただ投稿のタイミングがわずかにずれたことで、私の小説が最初の読者と巡り合えなかった、ただそれだけのはずだ。
駅を経るごとに車内の人は増えていき、やがて私たちの間の会話は途切れた。
自然と私はスマホを取り出して、投稿サイトのホームを開く。
確認したのは、電車で会話が弾んで、もっとこうして気兼ねなく会話をしたいと告白に移る三文小説。無価値なそれを読み返し、私は小さく息を吐いた。