46闇の中で
すべてが、鮮烈に僕に焼き付いた。瞼に、脳裏に、魂に。
女の子を追って走り出した近藤さんが、女の子と場所を入れ替えるようにしてその子を守って。
代わりに、車道に身を投げ出した。
彼女は、自分の運命を知っているようだった。焦らず、慌てず、絶望も恐怖もなく。
ただ僕を見た。
そうして、何かを言ったんだ。
ブレーキの音にかき消されて、最後の声は聞こえなかった。
彼女の唇の動きを、何度も頭の中で繰り返した。
同じように口を動かしながら、彼女の言葉を探す。
ひょっとしたらと、そう思う言葉がある。――――と言ったんじゃないかって、そんな期待をする。
でも、それはただの願望だ。僕にとって都合のいいものに過ぎない。
受付で、胸ポケットにさしてあった万年筆を取り出して自分の名前を書く。指先に、ぴりりと、小さな刺激を感じて手を止めれば、いつの間にかそこには小さな切り傷ができてしまっていた。
黒地に生える金色の装飾を一瞥してからペンをしまう。
そういえば、このペンは最近やっと見つかったんだったか。
いろいろな音が聞こえているのにどこか静まり返っているように感じる廊下を進んで、八個目の扉を開く。
花瓶の花を横目に、丸椅子に座って彼女の顔をそっとのぞき込む。
「ねぇ、近藤さんはあの時、なんて言おうとしたの?」
目の前、静かに眠る彼女に問いかける。
真っ白な部屋。鼻腔を刺激する消毒のにおいが満ちている。部屋の端に置かれた造花は香らない。
淡い緑の病院服に身を包む彼女は、ただ静かに胸元を上下させている。
眠りについたお姫様は、動かない。
物語のように王子様のキスで目覚めればいい。ここに王子なんていないし、ここは現実であって物語の世界ではないけれど。
そっと、近藤さんの手を握る。
どうか、どうか、一日も早く目を覚ましますように。
その手は温かいのに、ひどく冷たく感じた。
手を額にこすりつけ、腰を曲げて、祈る。
どうか、近藤さんを、奈津を助けてください。
神様でも、仏様でもなんでもいいから、誰か、奈津を助けて――
その祈りは、誰にも届かない。
夢を見ていた。
これが夢だとわかったのは、目の前に決して夢以外で出会うことのない人が立っていたから。
一見私とそっくりで、けれど私の平凡な顔のパーツすべてをツーランクくらい上にして、完璧な配置に並べたような少女。
長い髪を後ろで一つに縛り、快活な笑みを浮かべている。少し日焼けした肌は健康的で、背は高く、体のラインもすごくきれいだ。
その美しさが、努力によって成り立っていることは知っている。けれど、私とは元々持っていたものが違うから、私がどれだけ努力しても、目の前にいる彼女のようにはなれない。
双子の幼馴染、花奈。もうずいぶんと長いこと私が見続けている悪夢の主で、消えてくれない憧憬の偶像。
私は花奈になれない。仮にどれほど望んで、どれほど努力したところで、花奈に追いつくことはできない。
だって、花奈はもう、死んでいるのだから。
闇の中、なぜか花奈の姿だけははっきり見える。そういうところは杜撰だから、間違いなく夢だとわかる。
回帰も、もっと非現実っぽいチープさがあれば、夢だと思って気楽に生きて行けたのに。
花奈が一歩前に出る。あるいは、私が一歩、花奈に近づく。
花奈が、ゆっくりと口を開く。
「久しぶりね、奈津」
その声は、これまで聞いたどの言葉よりもはっきり聞こえた。まるで、これが夢ではないのではと思えるほどに。
――いいや、本当に、夢ではないのかもしれない。
「……ああ、花奈。私は死んだの?」
花奈が数度目をしばたたかせる。それから、ずいと身を乗り出して、じっと私の目をのぞき込む。
「奈津はどっちだと思う?」
質問に質問で返された。
「私は花奈に聞いたんだけど?」
「でもそれは奈津のことでしょう?答え合わせならしてあげてもいいけれど、最初に考えるくらいは自分でしないと」
答え合わせはしてくれるのか。今日の花奈は、やっぱり最近の悪夢の何倍も花奈らしい気がした。
少しだけ胸に懐かしさを抱きつつも、私はまっすぐ花を見据える。
美しい、記憶にあるそのままの顔。白いブラウスにラベンダー色のカーディガン、若草色のプリーツスカート。記憶にある服装。楽しそうに笑う花奈は、私のイメージする花奈よりも何倍もきれいで、嫉妬する気も起きない。
「……あなたは、花奈なんでしょ?」
「見ての通り、私は花奈よ」
「うん。見ればわかる。それで、私は奈津。私たちは双子で、それから、二人とも死んで、ここにいる……そうでしょ」
ふふ、と小さく笑った花奈がくるりとその場で回る。手を後ろで組んで、若草の花を広げるようにスカートを揺らして、斜めしたから私の顔をのぞき込む。
「本当に、その答えでいいの?」
「それ以外に何もないでしょ?」
そっか、と花奈が言う。そうだよ、と私が言う。
なんだか拍子抜けだった。私たちは、こんなにも自然に話していただろうか。
そう考えれば、違和感が膨れ上がっていく。
でも、目の前にいるのは花奈だ。だとすれば、変わったのは私?
……それは、変わるだろう。花奈が死んでから散々だった。性格がひねくれもする。
「ここが、死後の世界なの?それとも、そこへ続く道のようなものなの?花奈は、私の道案内のために来たの?」
「質問ばかりね?」
「だって、わからないことばっかりなんだから」
「何がわからないの?」
何が――この場所のこと、とそう告げようとした口は動かない。
何がわからないのか。わからないこと、わからなくて知りたかったこと。強い思いが、私の中からあふれる。
こんなこと、花奈に言ったってどうしようもない。でも、こうして死んで、そしてこんな不思議な体験をしているから、もう今更かと思った。
「私の身に起こっていたこと、かな?あの回帰は何だったのか。誰が起こしていたのか。どうして久徳くんが恋に落ちることが引き金になっていたのか。ほら、わからないことばっかり」
「そうね。それで、奈津はどう思ったの?」
「わからないから聞いているんでしょ?」
気づけば花奈はまるで重力などないように、壁に足をついて立っていた。いや、そこに壁はない。見えない。そもそも、私の足元にだって床があるかも怪しい。
ここは黒一色の、不思議な世界。死んだ魂だけが来られるであろう、精神の世界。
「それでも、奈津だって少しは調べていたでしょう?――ほら、生徒会長の話」
「…………悪魔」
「うん。それで?」
「それでって……ええと、私に、何かおかしな気配というか、残り香のようなものがあって、それが悪魔に似ている、だったかな?」
「なるほど。だから奈津は悪魔に弄ばれたってことかな?」
「……悪魔であれば、あれくらいのことはできるのかもしれないとは思う。少なくとも、あんな不思議を私が起こしていると考えるよりはよっぽど理解できる」
「神様というのは?」
「確かに願いを口にしたのは神社だけれど、あんなに苦しい思いをさせられた元凶が神様だなんて思いたくない」
願い――そういえば、花奈はどこまで知っているのだろうか。
逆さになって私を見る花奈をにらむように見える。
「『人が恋に落ちる瞬間を見たい』」
「ッ!?」
「すごくいい反応ね。これだから奈津をからかいたくなるの」
「どう、して……」
「どうして言っているかって?私は肉体という制限から解き放たれているのよ?」
ふわりと、空中で一回転して花奈が私の前に降り立つ。
真っ黒な目が私を見ている。それは、この空間と同じ、光の一つもない常闇だった。
ふと、強い恐怖に襲われた。目の前の花奈は、本当に私の知る花奈なのか――そんな、恐怖。
空気を変えるように、花奈がパチンと指をはじく。瞬間、花奈の手の上に本が出現する。私のお気に入りの作品の一作。
「奈津は、昔から本が好きだったよね。たくさん本を読んでいた。物語なら何でも読む悪食で、私は少しあきれていたっけ」
パチン、パチンと続けざまに白魚のような指が鳴る。
そうするたびに、花奈の周囲にいくつもの本が現れる。すべて、私が読んだ本だった。
それは、指揮するように指を動かす花奈に合わせて、ゆっくりと頭上の一角に集まる。
本が、一つに集まる。柔らかな、太陽のごとき光が集まった本からあふれる。
「奈津の中に根を張った物語は、いつしか奈津自身の物語の血肉になった。そうして、奈津という書き手が生まれた」
天高くへと手を伸ばした花奈が、指を鳴らす。
指先まで神経を張り巡らせたような、美しい動き、まっすぐに伸びた指に、目が吸い寄せられる。
パチン――音とともに、本から光があふれる。
闇一色だった世界に、光が満ちる。
そこに、気づけばたくさんの人がいた。
腕を取り合う中学生の男女、傘を差し、雨空を見上げる小学生の女の子、あがり症で何度もつっかえながら自己紹介をする女子高生、ホームに落ちそうになる女子を引き上げる男子高校生、二人手をつないで隘路を疾走する男女、公園のベンチに座る夫婦、雪にはしゃぐ少年と呆れながらもその後を追う少女――
たくさんの人がそこにいた。その姿に、なぜか見覚えがあった。その顔に、なぜか既視感を抱いていた。
気づいた?と花奈が視線で語ってくる。
「私が書いてきた、小説の、登場人物たち?」
「正解」
よくできました、と花奈が拍手をする。
花奈にあの駄作を知られているという羞恥と、自分が作り出した物語の人物が目の前で動いているという興奮がないまぜになった、ただパクパクと口を開閉させる。
「ほら、少し落ちついて。吸ってー、吐いてー」
「……ふぅ。それで、こんなのを見せて、何がしたいの?」
「何がしたいんだろうね?」
また質問に質問で返された。今日の花奈は、意地でも私の質問に答える気がないらしい。まあ、いつもの悪夢に比べればましだ。
もう一度、周囲にいる人々を眺める。あたたかな淡い陽光のような光で形作られた人たち。
感動が心に満ちる。私の空想が動いている。そのことが、強い衝撃となって私の体を走り抜ける。
何よりも私の目をつかんで離さなかったのは、そこに幸福があったから。笑みがあったから。愛があったから。
駄作ばかりだと思っていた。それでも、そこにはその登場人物たちなりの物語があって、喜びがあって、幸せがあった。
笑いあう彼らの中の一人に目が留まる。
彼は、即興で書き上げた小説の登場人物。とある人を当て書きした者。
「……久徳くん」
気づけば、名前を呼んでいた。
彼を呼び、そうして、強い想いが胸にあふれる。
心臓が強く高鳴る。愛おしさがこみ上げる。好きだ。大好きだ。もう、会えないの?
求めるように伸ばした手を、けれど虚空で止めて胸元に引き寄せる。
私は、自分から死にに行ったのだ。別に、少女を放っておけばよかっただけだ。そうすれば、野江も私も死ななかった。
あの時飛び出したのは、私が、もう死んでもいいやと思っていたから。
回帰の理由を、私がこれまで苦しみながら生きてきた理由を見つけた気がして。もう、この苦しみから解放されていいのだと、そう思ってしまったから。
だから、私はあの時、道路に飛び出した。決して、野江に代わってあの子を救わないといけないとか、そんな正義感から動いたわけじゃなかった。
死んでもいいと、思っていたはずだった。
なのに、今は行きたくて仕方がなかった。
久徳くんに会いたい。会って、言いたいことがある。もう一度、今度こそちゃんと、好きだと言いたい。
でも、言ってどうするというのだろう。どうせまた――
「逃げるの?たった地位とで、あきらめるの?」
幸福な人々の中、そこに埋没するように体を光らせる花奈が私に問う。
奈津の想いは、その程度なんだ――
「違う!」
違う。その程度なんて、そんな言葉で語らないで。わかった気にならないで。
こんなにも苦しくて、切なくて、愛おしくて、狂ってしまいそうなほどに私は彼を求めている。こんなにも、私は久徳くんが好きだ。
「だったら、たった一度の告白で諦めるほうがどうかしているでしょう?たった一回の告白で恋人になれるなんて甘い。甘すぎる。私だって五回は告白したのに」
「……え?」
「だから、四回告白して振られて、五回目にようやく恋人になれたの。わかる?私だって、恋愛強者ってわけじゃないの」
「……え?ええ?花奈が告白したの!?」
「そこから?」
顔を赤くした少しだけ頬を膨らませて見せる。その顔は、初めて見るものだった。
花奈はいつも私よりも先を行っていると思っていた。私よりずっと大人で、ずっと賢くて。
でも、花奈もこんなにも子どものような顔をするんだ――ああ、当たり前だ。だって、花奈はまだ中学生だったのだ。
花奈だって、普通に恋をする。普通に誰かを好きになって、けれどその人が自分を好きでいてくれるとは限らなくて、それでもあきらめきれなくて何度も告白して、ようやく結ばれた。
ああ、花奈は恋人のことがすごく大切そうだった。彼氏のことを語る花奈は本当に幸せそうで、私も花奈のように素敵な彼氏に出会いたいと思った。
……素敵な、思い人。
私は彼に出会えた。でも、臆病で、回帰なんてわけのわからないこともあって、久徳くんに告白されながらも、自分から何度も告白しようなんて気概は持てなかった。
今更、後悔していた。もう、すべて遅いのに。
すっと、真っ暗な花奈の目が細められる。その細い手が、ゆっくりと私に向かって伸びる。
「こんな世界を描ける奈津なら――」
そこで言葉を止めて、笑って。
胸を張って、指を鳴らす。
瞬間、私の体は落下を始めた。
足元に沈んだ。そこは、ひどく粘性の強い水の中のようだった。
もがけども、もがけども、這い上がることはかなわない。
闇の先、たくさんの人の光が遠ざかっていく。気づけばほとんど光になっていた花奈の姿が、見えなくなる。
そうして、私は闇の底、深くへと落ちていった。
「……まったく、本当に臆病なんだから。奈津も、貴方も」
言いながら、花奈は無数の光の中の一人に視線を向ける。
ぼんやりと孤独に立っていた少年。その隣には誰もいない。恋愛小説の主人公たちの中、彼だけが相手がいなかった。
それはそうだ。何しろ、その相手はすでにこの場所から消えてしまったのだから。
その、無機質な相貌に。今は、知性が宿っていた。
少年が小さく瞬きする。その目に宿した知性と理性をもって、彼は花奈に声をかける。
『奈津、じゃない。……あなたは?』
本当に普通に名前で呼ぶんだ――心の中で思いながら、花奈はふわりと笑う。
奈津(妹)の、大切な人。久徳千尋が、そこにいた。
「もう知っているでしょう?でも、一応自己紹介はしておこうかな。初めまして、私は近藤花奈です」
『近藤、花奈……奈津の、姉の?』
「仁に聞いていたものね。初めまして、久徳千尋さん」
『近藤さん……花奈さんは、僕のことを知っているんだね?』
「それはもちろん。ずっと見ていましたよ。あなたは、私のお眼鏡にかないましたから」
『そっか、見定められていたのかぁ。それで、花奈さんは僕に何を望むの?』
ずいぶん物分かりがいいな、と花奈が首をかしげる。
久徳は少しおかしそうに笑う。
『妹が、奈津が大切で、死んでも見守るくらいなんですよね?それで僕がこうしてあなたと顔を合わせているということは、何か話すことが、あるいは頼みがある……違いますか?』
「そう、ね。そうだわ。私には、頼みがある。ええ、そうよ。私は、契約を果たさないといけないの」
『……契約?』
一つ、また一つ、闇の中から光が消えていく。奈津の物語の登場人物たちが焼失していく。
あたたかな夢の時間は、やがて終わりを告げる。その後に、待っているのは――
「ようやく、終わるわ。短くて長い、私の初めての契約」
『だから、契約って何?』
久徳の問いかけに、花奈は答えない。ただゆらりとその手を久徳のほうへ伸ばす。
その手は、すでに手首から先が光の粒子となって消えていた。闇に溶けるように、その体は崩れ始めていた。
そして、それは久徳も同じだった。
「奈津をお願い。臆病なあの子に手が届くのは、あなただけなの」
そう告げて、その手を握りこむ。
瞬間、久徳の体は足元から伸ばされた漆黒の手によって、地中へと――闇の中へと引きずり込まれた。
奈津の、後を追うようにして。
光が消えていく。気づけば闇の中には花奈ひとり。その花奈も、体が光に代わっていく。
じっと、その体を見下ろす。その変化は契約の完遂の証。
契約。花奈は契約した。死の間際、それを願って。
そしてそれは、自分が予想していたものとは少し違う形で実現することになった。
残してきた妹のために――その願いを、己が叶えることになった。
うつむいていた花奈が、ニィと口が裂けるような笑みを浮かべる。
そして、肘先が光となって消失していた腕――その先に、ずるりと闇が伸びる。
体が、光から闇へと変わっていく。
のっぺりとした黒い肌は、瞬時にその形を変えていく。鎧のような形を取り始める。
そうして、世界は闇に飲まれて。
その闇の中には、一人の異形が立っていた。
闇よりもなお黒い、凝縮された闇。それはあるいは、暗黒。
花奈の顔をした暗黒が目を開く。黒一色に染まったその目は、じっと足元を見下ろす。
「……じゃあね」
そうして、悪魔(花奈)は闇の奥へと姿を消した。




