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人が恋に落ちる瞬間を見たい  作者: 雨足怜


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45/49

45理由

 無言の時間が生まれる。セミの鳴き声がひどく強くなる。

 ざわざわと木が揺れて、私の膝の上で木漏れ日が躍る。

「……わたしじゃなくて、久徳君なら?」

 そんな声に、私は顔を上げる。野江はまっすぐに私を――見ていなかった。

 その焦点は私ではなく、私の背後に定められていた。

 野江が立ち上がり、歩き出す。

 金縛りにあるように動けなった私は、恐る恐る背後を振り向く。

 歩いていく野江の背中、その先に、道を行く久徳くんの姿が見えた。

 ああ、なんて偶然。

 偶然――何だろうか。

 まるで、神か何かがこの場に久徳くんを引き寄せたような、そんな気がした。

 それを疑わずにはいられなかったのは、久徳くんの隣に一人の女の子の姿を見たから。

 その子は、いつだったか、久徳くんが悪漢から救った、お嬢様みたいな女の子だった。

 彼女は、久徳くんの隣で、幸福感に満ち満ちた笑みを周囲に振りまいていた。

 久徳くんも、楽しそうに笑いながら歩いている。

 二人の姿に、私はただ衝撃を受けていた。

 久徳くんは、彼女の告白を断ったはず。もう校門の前で待ち構えるようなことはしないでくれと、そう言ったはず。

 ……ああ、いや。違う。私は、久徳くんが彼女の告白を断るその場面を見ていない。見たのは、回帰前のこと。

 私の選択によって、久徳くんの行動も変わった。

 もしかして、久徳くんと彼女は付き合っているのだろうか?はたから見ていて、二人はお似合いのカップルに見えた。

 ピシリと、心にひび割れるような感覚があった。

 逃げ出したい。今すぐに目をそらして、走り去ってしまいたい。

 そう、思っていたはずだった。

 それなのに私は、気づけば野江を追って久徳くんのほうへと歩き出していた。

「久徳君!」

 野江が声を張り上げる。

 久徳くんが動きを止める。笑みが、凍り付く。

 それは、野江を見たからじゃない。彼の目は、野江を見ていない。

 久徳くんは、野江の後ろにいる私を見ている。私だけを見ている。

 小さく、唇がわななく。何かを告げたのか、それとも、何かを言おうとしたけれと言葉にならなかったのか。

 ただ、久徳くんがひどくうろたえていることだけはわかった。それは例えるならな、浮気現場に恋人が現れた人みたいな。

 ……何を考えているのだろう。私と久徳くんは恋人同士じゃない。

 久徳くんがどこの誰と付き合っていようと、その交友関係に私が口をはさむなんておかしい。

 でも、それでも、この張り裂けそうな気持に蓋をして、ただ友人として笑みを浮かべるなんてことは、彼女ができたことを祝福することはできそうになかった。

 私は、野江の隣に並ぶ。そこで、足はぴたりと止まって動かなくなった。

 野江が横目で私を見てくる。それに気づきながらも、私は久徳くんから目が離せなかった。

 久徳くんも、私のことをただまっすぐ見ている。その隣で、美しい少女が、私と久徳くんとの間で視線を行き来させていた。

 何かを、言わないといけない。けれど、震える唇は意味のある言葉を紡いでくれない。

 頭は真っ白。心はぐちゃぐちゃ。

 ぐらりと、視界が崩れるような錯覚がした。

 車が高速で目の前を通り過ぎていく。大きな十字路の角、道を通る自転車がベルを鳴らす。

 我に返った私は歩道の端による。ようやく、久徳くんから目が離せた。

 目をつむって、胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。

 大丈夫。私ならできる。落ちついて。ただ、お幸せにと言えばいい。それとも、可愛い彼女だね、くらいがいいだろうか。

 悲しみが心にあふれる。

 ああ、だめだ。余計な事を考えるな。

 そう言い聞かせるのに、私の心は次々と私に夢を見せる。

 久徳くんとこの子は、別に恋人ではないかもしれない。たまたまその辺で偶然再会して、話が弾んだだけかもしれない。私にもまだ、チャンスがあるかもしれない。

 目を開く。久徳くんに、祝福の言葉を継げようとして――

 ぎゅ、と少女が久徳くんの腕をとった。その光景に、私の頭から言葉が吹き飛んだ。

「……あ」

 大きく目を見開いた久徳くんが、腕をとる少女へと視線を向ける。

「久徳さん!どうして、わたしを見てくれないんですか!?どうして、その人ばかり見ているのですか!?」

 少女の背丈は、久徳くんの胸よりも低い。彼女は、まだ小学生なのだ。けれどその顔は、あるいは私以上に“女”の顔をしていた。

 鋭い、ともすれば憎悪とも受け取れる強い感情を瞳に燃やして、少女が久徳くんをにらむ。私だけを見てと、全身が雄弁に語っている。

 ああ、それほどに好きなんだな、と人ごとのように思った。決してただ傍観していられるはずがないのに。

 それでも私に余裕があったのは、今の少女の言葉によって、二人が付き合っていないと確信が持てたから。

 久徳くんが、再び私を見る。その瞳に宿る強い感情によって、脳に電撃が走る。しびれるような衝撃が腰を伝って前進に広がっていく。

 ドクン、ドクンと振動が強く鼓動を刻む。

 感情が、あふれる。ああ、好きだ。どうしようもなく、私は久徳くんが好きだ。

 その言葉を継げようと、私は大きく息を吸って。

「もう、久徳さんなんて嫌いです!」

 私の出鼻をくじくように叫んだ少女が、逃げるように走り出す。

「あ――」

 赤い光が見える。

 視界を影が覆う。野江の背中が、遠ざかる。

 少女の足が止まる。銀の車が、少女に迫る。

 急ブレーキの音がする。野江が、まっすぐ手を伸ばす。

「な、ぁ……」

 ドン、と腹に響くような音が聞こえた。

 車は、音がした場所から四メートルほど進んだところで止まった。

 車が過ぎ去ったそこに、呆然としりもちをつく少女の姿があった。

 青ざめたその、視線の先。

 見たくないと、心が叫ぶ。

 けれど、体は勝手にその先へと向かう。

 少女の視線を追って、そこに――

 倒れたまま動かない野江の姿があった。

「野江ッ!?」

 額から血を流す野江のところに走る。

「野江、野江、野江ッ」

 何度も、何度も叫ぶ。返事はない。動かない。ただ、その顔を苦悶にゆがめ、荒い呼吸を繰り返している。

 近く、焦った声で電話をする人がいる。野次馬のざわめきが聞こえる。

 視界に影が落ちる。私の隣に、誰かが座る。

 座るというより、膝から崩れ落ちるような感じ。

 それが誰かは、見なくてもわかった。

「な、んで――」

 なんでこんなことになっているのか。なんで野江が倒れているのか。

 呆然と、久徳くんが野江を見つめている。

 震えるその手が、野江に伸びる。

「ッ、触らないでッ」

 思わず強い声が出た。不用意に野江に触れてほしくなかった。

 幸い弾き飛ばされた野江がいるのは歩道の上。動かす必要がないのだから、動かさない法がいい。

 だから、触れないで。このままでいて。

 瞳を揺らす久徳くんが、呆然と私を見ている。その目は、ひどく暗い。

 そんな久徳君の顔を見ていると、少しだけ冷静になれた。

 呼吸は問題ない。心臓も動いている。でも、額から流れ出す血は止まる気配を見せない。

 ポケットに手を入れて、何もないことに気づく。

 投げ出された野江の鞄が目に付く。その中に新品の洋服が見えた。飛びつくようにとって、それで野江の額を押える。

 ビニールの上から、野江の額に服を押し当てる。

 大丈夫、大丈夫と、何度も言い聞かせる。大丈夫なはずだ。そのはずだ。そうじゃないといけない。

 野江がせき込む。その口から血が漏れる。

「……野江?」

 小さく息を吸った野江が、呼吸を止める。

 服を久徳くんに押し付ける。

 呼吸が苦しい。でも、苦しいのは、つらいのは野江だ。

 頭の中の引き出しをめちゃくちゃにひっくり返しながら、野江の胸の上に片手置く。反対の手を重ねて、強く下に押す。

 野江、野江、大丈夫だから。絶対に、大丈夫だから。

 涙があふれる。まだ、救急車の音は聞こえない。

 心臓は、動いてる?動いているよね?大丈夫だよね、野江……

「離れろッ」

 男の人の声がした。

 下がる。手早くAEDがつけられる。

 アナウンス音が流れ、野江の体が跳ねる。男の人が、そのまま心臓マッサージをする。

 その光景を前に、私は呆然と見ていた。

 陽ざしが照り付ける。上からも、アスファルトで反射して下からも。暑さと、セミの合唱と、野次馬のざわめきと、歩行者信号の間の抜けた電子音と、車の走る音。ほんの少しの血の匂いと、息苦しさ。

 すべてが、これが現実だと突きつけてくる。

 男の人の影に隠れた野江の顔は見えない。大丈夫だ。車はすでに急ブレーキを始めていた。それほど早くはなかった、と思う。

 大丈夫、少しだけ当たり所が悪かっただけだ。そのはずだ――考えるほどに、不安が強くなる。

 何か、何かできることはないの?

 周囲を見回す。何も、見つからない。歩道に連れてこられ、そこで座り込んだままの少女、そして、呆然と立ちすくむ久徳くん――


 ――ああ、そうか。

 意味を、理解した。

 ストンと、心に降りるものがあった。

 そうだ。これでいい。こうするために、私の今までが、苦悩があった。

 野江を振り切るように、久徳くんに顔を向ける。暗い目が、どこかぼんやりと私を映す。

 不思議と、心は凪いでいた。

「――ごめんね」

 そう告げて、目いっぱいにつま先を伸ばす。

 そうして、彼の口に、唇を重ねる。

 大きく目を見開いた久徳君の目が揺れる。その奥に、強い炎がともって。

 瞬間、周囲のすべての輪郭がほどけた。

 世界が巻き戻る。

 目の前にいる久徳くんが、誰だかわからなくなる。

 少しだけ、涙がにじむ。

「ごめんね、久徳くん」

 ほんのちょっと、目を閉じて。

 セミの鳴き声に、目を開く。


「――嫌いです!」

 少女の声に、私は一歩を踏み出す。

 手を伸ばす。

 その手は、彼女には届かない。

 まだだ。まだ。

 走り出す。乳酸がたまったままダウンもせずに放ってあった足が悲鳴を上げる。

 重い、苦しいと叫ぶ足に鞭打って、強く地面をける。

 少女の、手をつかみ、引っ張る。

 くるりと、私と少女の位置が逆転する。

 背中から、アスファルトに倒れていく。真っ黒な車道が、少しずつ近づいてくる。

 歩道に倒れる少女の姿が見える。

 久徳くんが、呆然と私を見ていた。その目を、一筋の涙が伝う。

 私のせいで出遅れた野江が、私に向かって手を伸ばしている。

 でも、間に合わない。もう、銀の車体は目の前に迫っている。

 未来は変わった。私は、野江を救える。狂った自分に意味を感じられる。

 人生の意味、あるいは、自分の身の上に起きていた超常現象、回帰の意味を見いだせて、死ねる。

 それは、とても幸せなことじゃないかと思った。

 ――幸せ。

 でも、視界に映る二人は、とても幸せそうには見えない。だめだ。これじゃあ、だめ。

 だから、うん。最後くらい、目いっぱい素直になってもいいよね?


「――好きだよ」


 それから。

 ごめん、と心の中でもう一度謝罪をして。

 次の瞬間、衝撃とともに私は意識を失った。


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