44言えないこと
野江が、私を見ている。泣いている私を見ている。ラフな格好で街を走り回って汗だくな私を見ている。
こんなみじめな姿、見られたくない。
体が反転する。乳酸がたまって思い足に鞭打って、逃げるために大きく一歩を踏み出して。
「待って!」
野江の両腕が私の胴体を抱きしめた。
野江の手から落ちた鞄が地面に転がる。買い物鞄から零れ落ちた玉ねぎが、私の横を転がって数メートル前で止まった。
「……離して」
「嫌」
「離してよ」
「絶対に、嫌ッ」
なぜだか、その声は泣きそうなものに聞こえた。
そうして、気づく。野江の腕は震えていた。
「放っておけるわけないよ!どうしてそんなんことができると思うの!?わたしたちは友達じゃないの!?」
「……放って、置いてよ」
無理だよ――嫌々をするように野江が何度も首を振る。その手に込められる力が強まる。
横を勢いよく車が走り抜けていく。吹き抜ける生暖かい風が、額をなでる。
野江に抱き着かれているせいか、あるいはさっきまで走っていたせいか、汗が止まらない。ああ、喉が渇いた。
目元を半袖で乱雑に拭ってから、野江の手を軽く叩く。
「……わかったから。暑いからとりあえず離して」
「や」
「嫌でも離して」
「だって逃げるでしょ!?」
「逃げないから」
「……本当に?」
うん、とそう告げた私の声はひどく震えていた。逃げるつもりはない。逃げたところで、もう遅い。
見られてしまった事実がなくなるわけじゃない。
「……わかった」
野江が私の背中に頭をこすりつける。
私をつかむ腕から力が抜ける。
「……汗臭い」
「思っていても言わないでよ」
がっくりと体から力が抜けた。
振り返って、顔を見合わせる。
へへ、と野江が笑う。私も、笑みを浮かべる。
近くで、じーわじーわとセミが鳴き始める。元気な小学生くらいの集団が私たちの横を通っていく。
改めて見れば、野江の目は少しうるんでいるように見えた。充血もしている気がする。
やっぱり、泣いていたのだろうか。
「……ひどい顔」
「野江だって目が赤いよ」
「嘘」
「そんな嘘ついたってしかたないでしょ」
「……うぅ」
気づけば、幼児退行しているみたいな野江の頭をなでていた。きょとんとした野江を見て、我に返る。
手を放す。顔が熱い気がする。
にひ、と笑った野江が真正面から私に抱き着いてくる。
それから、リズムよく「臭い、臭いよ、汗だくだよ」などと繰り返す。
だったらくっつかなければいいのにと思いながらも、私は野江を振りほどけなかった。
場所を変えて、私たちは近くの公園に向かった。
水道で水を飲み、濡れた手を払って乾かす。見かねた野江がハンカチを貸してくれた。
手を拭いて返したハンカチをじっと見ていた野江は、それからかいがいしく私の汗を拭いてくれた。
木陰にあるベンチに座る。時間が時間だからか、公園には子どもの人影はなかった。さすがの子どもたちも、真夏のこんな暑い時間にはしゃぎまわりはしないらしい。
……こんな時間に走っていた私は子ども以下ということ?
「どうしたの?突然うなだれて」
「んー、うん。何でもないよ」
はは、と乾いた笑い声が漏れる。そんな笑い方をしておいて何でもないことはないだろう――野江の視線が突き刺さる。
すっと目をそらして、寂しげにたたずむ遊具へと目を向ける。
「ナッツー?」
「だから何でもないよ。うん、気にするようなことじゃないから」
それでもしばらく追及を続けた野江は、私が折れないことを理解して、深い、深いため息を履いた。
どっかりとベンチに腰を投げ出す。
「……おじさんみたいな座り方だね」
「くたびれたお父さんの真似だよ」
言いながら、野江はビールを開けるような動きをし始める。
「お父さんの真似はわかったから」
「ここからうだうだと話を始めるまでが習慣なのに」
そんな演技をしてどうするのだろう。野江は再び片腕をベンチの後ろに投げ出し、もう片方の腕で背もたれに肘をつく。そうして上を見上げて小さくうなる。
がさりと、野江の隣に置いてあった買い物鞄が音を立てた。
「あっつぃ」
「暑いよね」
「ナッツーってば汗だくだもんね」
「野江だって服が汗で変色してるよ」
「……あー、ほんとだ」
黒のスキニーに青のシャツというラフないでたちをしていた野江だけれど、その襟に汗染みができていた。指摘をしても、ちらと見ただけで小さく息を吐く。あきれたような視線の先をたどれば、汗でぴったりと張り付いた服が見える。
「さすがにそれはないよ」
張り付いたせいで体のラインが強調されてしまっている。なんだか無性に恥ずかしくて、Tシャツをパタパタと揺らして風を送り込む。汗臭い匂いが鼻腔をなでる。
フレーメン反応をしてる猫みたい、と野江が小さく笑う。思わずむっと顔をしかめれば、似てる似てるとおなかを抱えて笑う。
言われて真似をしたわけじゃないんだけど。
ひとしきに笑った野江は指の腹で軽く涙をぬぐって、改めて真剣な顔で私を見る。
「……ナッツー、最近わたしに隠し事してるよね」
「私だって女子高生なんだから人には話せないことの一つや二つあるよ」
「うん。やぱり“話せないこと”なんだね」
やっぱりかー、と繰り返しながら野江が小さく足を揺らす。鎌をかけられた、というと少し御幣があるかもしれないけれど、野江は私の言葉から何かを理解したらしい。
野江は、どこまで私の事を知ってるんだろう。どこまで見ていて、どこまで予想できているのだろう。じっと見つめる野江の横顔は、私に答えを悟らせない。
野江の喉が上下する。数秒目を閉じてじっとしていた野江は、やがて私に力強いまなざしを向ける。
「……話せないってことはさ、ナッツーが苦しんでいるのは久徳君を好きだと自覚したこととは別の悩みなんだよね?」
ドクン、と心臓が強く高鳴った。
野江の口から久徳くんの名前が出るのは久しぶりな気がした。
私が久徳くんのことを好きなのを、野江は知っている。――まあ、それほどおかしなことだとは思わない。
野江は明るくて社交的で友人も多い。私とは中学生からの付き合いだし、たくさんの女子と関わりのある野江にとって、友人の恋愛を見聞きする経験は両手の数では足りないんじゃないだろうか。
それだけ経験していれば、その言葉もおかしいものではない。むしろ、野江はいつから私が久徳くんを好きだと判断したのか、そのあたりのほうがよっぽど気になった。
うん、聞かないとしばらくこのことで頭がいっぱいになりそうだ。――私の場合は、そのほうがいいのかもしれないけれど。
「ねぇ、いつから私は久徳くんを好きだったのかな?」
好き――その言葉は、するりと喉を出た。それは、大切なこの場のはずだった。少なくとも、大事に育ててきた思いだった。けれど、ひどくあっさりと、私は野江に尋ねていた。
相手が久徳くんじゃないから、野江だからこうも簡単に好きだと口にできたのだろうか。野江だから、素直に認められたのだろうか。
私の数少ない友人。野江は、すっと目を細くする。
「たぶん、始業式の日かな。気づいたのは帰りの時間の前……ナッツーってば、前の席に座る久徳君にすごく熱い視線を送っていたんだよ?」
……それは、さすがにまだ恋じゃない気がする。
たぶん、二度目の告白の後だろう。あの時には回帰によって二回も自己紹介をすることになって、少し怒りを覚えていた。それから、回帰が一度きりの白昼夢のようなものではないとわかって動揺していた。
頑張ってと、口パクで応援してくれた久徳くんの姿が瞼の裏に浮かび上がる。
もしかして、私はあの時にはすでに久徳くんを好きになって――意識していたのだろうか?
だとすれば、私はなんて惚れっぽくて、なんて鈍感で、なんて臆病なんだろう。
自分の恋心にもしばらく気づかなかったなんて。
まあ、そんな余裕なんてなかった。告白と、時間の巻き戻し。連続して起こるおかしな経験で頭がいっぱいで、自分の感情を紐解く気になんてならなかった。あるいは、意図して目をそらしていた。
「ごまかされないよ」
その声に、意識が現実へと引き戻される。
野江は、私から目を離さない。こげ茶の目が私をとらえて離さない。
「ナッツーは何に苦しんでるの?それは、本当にわたしには何もできないことなの?相談もできないようなことなの?」
相談、できるわけがない。相談すれば、頭がおかしい人扱いされるのがオチだ。もしくはごまかすために作り話をしていると疑われるか。
あるいは、野江なら私が本心で話していると見抜くかもしれない。
「……ごめん」
野江の目に涙がたまる。でも、言えない。野江は受け止めてくれるかもしれないけれど、もし話して野江が巻き込まれたらたまらない。
思い出したのは、以前ウェブの小説投稿サイトの感想経由で送られてきた言葉。
――告白され続けて満足か?
それは、私を責めているようで、苦悩する私を嘲笑しているようにも感じた。
何かが、私の回帰の背後にはいる。それは神か、あるいは会長が語っていた悪魔か。
私がもし、そうした超常の存在のおもちゃになっているのであれば、この事実を野江には話せない。話して巻き込んで、それで野江を傷つけてしまうのは嫌だ。
そっか、と野江が告げる。私は、顔を上げられなかった。
膝の上で握った拳は、長いこと強く握りすぎて血の気が引いていた。




